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異論・反論・Obsoletion

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朝日新聞問題:朝日新聞はなぜ『朝日新聞的』なのか

2006-08-05 00:00:00 | しあわせって?
私は常々朝日新聞は、なぜ『朝日新聞的な』主張をするのか疑問であった。


私からすると朝日新聞は日本国よりも、近隣諸国の主張を繰り返しているように思えた。
実を言うと私は、朝日新聞は他国の工作員の活動拠点なのかとかも、密かに検討さえしていた。

しかし違った。朝日新聞は実に手前勝手な思考をしていたのである。


以下、朝日新聞【社説】2006年08月04日(金曜日)付「靖国参拝 嘆かわしい首相の論法」より。

>  その半面、首相が語ろうとしないことがある。
> あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、
> アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀(まつ)る神社に、
> 首相が参拝することの意味である。
先の戦争において朝日新聞が果たしてきた役割(責任)について、お忘れか。

朝日新聞はマスコミの中でも先頭を切って戦意発揚に貢献してきたではないか。
明らかに負けた戦いをさも圧倒的勝利をしたかのように報じてきたのは朝日新聞だ。
このため一般の国民は日本が負ける戦争をしているなど知る由も無かったのである。
あの戦争を煽動し、美化し、焚き付けてきたのは他ならぬ朝日新聞ではないか。

朝日新聞には「多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた」責任は無いとでも言うのか。
(との疑問を、誰しもが持っているのではないだろうか)





この答えが次の一文だ。


>  戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。

朝日新聞は「戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別」したのである。
素晴らしい!

これは、某国の「拉致問題は解決済みだ!」と同じ論法だ。
歴史は連続しているのである。過去と決別することなど出来ない。

例え罪を償おうが、相手が許してくれようが、犯した罪を消すことなどできない。
「罪を償う」とは単に社会に復帰するための通過儀礼でしかないし、
「相手が許してくれる」事は、単に相手が咎を言わなくなると言うだけの事だ。
過去と決別など出来ないのである。犯した罪はずっと付いて回るのだ。

しかも加害者の側から「過去と決別した!」など、身勝手にも程がある。
もし朝日新聞にも某国の主張が奇異に感じる感性が残っているなら、判るはずだ。


--
上を前提として、首相と朝日新聞の主張を私なりに解説する。


朝日新聞は「靖国参拝を取り止める等すれば過去と決別出来る」と思っている。
このため、「過去と決別する為には靖国神社に行かない位大したことではない」と
考えているのではないか。

一方、小泉首相(や私など)は「犯した罪は消えない(過去と決別など出来ない)」と考えているので、
近隣諸国の気持ちは充分に理解しているつもりではあるが、
例え相手が被害者(苦しめた相手)であっても譲れない部分に関しては「それは認められない!」と、
主張していかなければならないのである。

なぜなら、それは終わることが無いからだ。
どんなに極悪非道な日本人であっても生きていかなければならない。
生きていくためには最低限の尊厳を守っていく必要があるのだ。

「靖国問題」を外交問題とするなら、それは日本人の尊厳を掛けた争いとなる。
これは決して戦争を正当化すると言う事ではない。
日本人が日本国内で何かをするのに近隣諸国の承認が必要である事を認めるかどうかという点に尽きる。

もし近隣諸国が、「日本の大学教授が、戦争を賛美していた朝日新聞を読むなど許せない!」
(これはこれで筋は通っているだろう)と言えば、教授達は朝日新聞を読めなくなるのか。

日本と言う国は自由と民主主義の国である。
首相であろうとも日本国民の一人である以上、信仰の自由や内心の自由、移動の自由は
認められなければならない。(「首相は私人足り得ない」との議論は後で行う)
その上自国の憲法の解釈まで口出しされるのは、到底許せるものではない。

靖国問題を外交問題としてはならないのは、このためだ。


--
朝日新聞が主張している他の3点についても反論する。

> あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、
> アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀(まつ)る神社に、
> 首相が参拝することの意味である。
では、あの戦争を賛美し、戦意高揚記事を書きつづけた新聞を読む事の意味はどうなのか。


> (昭和天皇が靖國神社に行かない事に対して)
>  国政の最高責任者である首相には、さらに慎重な判断が求められる。
朝日新聞は現在の日本国の制度について理解していない。
首相は行政の長であると同時に日本国民である。このため、首相には基本的人権が存在する(余地がある)。
一方(日本国民がどう考えているかは別にして)天皇には人権は無いのである。
首相が自粛しているのに天皇が勝手な事をする事は許されないが、逆は必ずしも成立しない。
これを言い替えれば、天皇にはプライベートは無いと言う事である。
(首相にプライベートがあるかどうかについては後述)


>  憲法に関する首相の強引な解釈もいただけない。
> 憲法20条の政教分離原則は素通りして、
政教分離とは、例えば「xx教を日本の国教と定める」とか
「首相は8月15日にxx教会を礼拝すること」等を法律で定めたり、
特定の宗教団体に国費から寄付を行った場合には抵触するだろうが、
首相が『個人的な立場で』宗教施設に参拝する事は構わないはずだ。


「首相にプライベートなど存在しない」この様な議論もあるだろう。
ただ、この手の議論は無意識に靖國神社を念頭に置いていると思う。

この場合、靖国に限らずもっと一般化して考える必要がある。
例えばクリスチャンの首相が誕生した場合、教会に行く事が許されるのかどうか。
初詣や、子供や孫の七五三や、首相在任中に宗教施設で結婚式を挙げる場合はどうなるのか。
これら全て許されないとするなら「首相の一切の宗教活動の禁止」を法律で定めれば良いだろう。

これなら、それも一つの考え方であるから私は賛同しても構わない。
ただ、首相個人を非難するのは法律が施行された後にすべきだ。
(あくまで一般論として「首相が宗教活動をすべきではない」と主張するのは構わない)

ただ私は首相も天皇陛下も日本国の代表者なのだから、
むしろ率先して自由と民主主義を体現してほしいと思っている。



***
朝日新聞は
# (1)「靖國神社の存在自体が問題」なのか
# (2)「(A級戦犯が奉られている)靖国神社に参拝する人が問題」なのか
# (3)「首相が靖國神社に参拝する事が問題」なのか
# (4)「近隣外交を害する」なのか
論拠をはっきりしてほしい。


この社説で朝日新聞が首相を非難している点として挙げたものは以下の4つであろう。
(括弧内は前述の論拠の番号)

# 「戦争を指導した人物が奉られている」→上述の(1)
# 「昭和天皇も行かない」→上述の(2)
# 「政教分離に反する」→上述の(3)
# 「近隣諸国が騒ぐ」→上述の(4)
と、朝日新聞の論拠は一貫性に欠ける。

これでは言論機関の主張ではなく、圧力団体の主張であると言わざるを得ない。
言論機関であるなら、朝日新聞は首尾一貫した主張をすべきだ。
(4)はともかく(1),(2),(3)は、排他的な(どれか一つでなければならない)事項である。

もし(3)の場合、問題なのは首相だけなのか、
中国の言う様に他にも「行ってはならない人」はいるのか。
天皇は(もし行きたくなったら)行っても構わないのかも明示し、
なぜその人達『だけ』認められないのか、その根拠を示さなければならない。


朝日新聞は結局のところ「首相は参拝するな!」としか主張していないのである。
そこには哲学も理念も無い。




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取り急ぎUPしましたが、まだ充分に推敲していないので、
後に大幅な修正をする事があるかもしれません。
(面倒なので、しないとは思いますが。。。)

元宮内庁長官のメモ

2006-07-21 00:00:00 | しあわせって?
日本経済新聞が元宮内庁長官のメモを入手したそうだ。

#  昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、
# 「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、
# 当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、
# 日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。


私からするとこのメモは昭和天皇がA級戦犯合祀をどう思っていたかではなく、
自身の戦争責任について知る手がかりとして重要な意味を持つと考える。

この記事によると、昭和天皇は、
「悪いA級戦犯を神聖なる靖國神社に奉るなど、とんでもない!」と言っている。


私は昭和天皇は人格者であると『なんとなく』思い込んでいた。
(確か「全ての責任は自分(昭和天皇)にある」と言ったと聞いていたので)
天皇自身戦争責任を問われる事は無かったが、当然自らの『罪』を自覚していると思っていた。

『不適切』ならある程度客観的な判断とも取れるが、
『不快感』となると、かなり感情的な反発の表明だ。

もし自分の罪(「全ての責任」)を自覚していたのなら、A級戦犯に『不快感』を持つだろうか。
この記事が本当なら、日本国の最高責任者であった昭和天皇は戦争責任を自覚していない事になる。

これでは、近隣諸国が戦争責任を問題にするのも当然だ。
こんな無責任な天皇なら、戦争責任を負わせるべきだったのではないか。


--
私は、昭和天皇も含め当時生きていた日本人がA級戦犯を一方的に非難する事に違和感を感じる。

日本人が「戦争の責任はA級戦犯にある!」と主張する事が、反省したことになるのだろうか。


私は違うと思う。

『反省』とは他者を非難する事では無い。自分の罪を自覚する事だ。
もし罪人がA級戦犯のみであるなら、A級戦犯以外の日本人は何ら反省する必要が無いはずだ。

日本人ひとりひとりが
「私は侵略戦争を回避するために最善を尽くしてきたとは言えない。私にも責任があった。
以後その様な事にならないようあらゆる努力を惜しまない」
こう誓い、行動する。これこそが反省ではないだろうか。


A級戦犯を問題にする人は、自身の罪を自覚しておらず、
近隣諸国の主張に便乗して責任転嫁をしているだけにしか見えない。

そして戦争の責任がA級戦犯にあると認めただけでは、今後の侵略戦争を無くす事は出来ない。
今後もA級戦犯の様な『悪人』のせいで、何度でもinnocentな日本国民は侵略戦争をするだろう。


A級戦犯を非難にする人達こそ反省していないのではないか。



***
当の元宮内庁長官は、既に亡くなっている。
このため、本人にメモの真意を確認する事は出来ない。

そしてこれらの記述は箇条書きでかつ、個人的なメモのようあるから、
本当に昭和天皇が語った事なのか元宮内庁長官の個人的な見解なのか、
もしかすると元長官が執筆していた小説の着想メモだった可能性だって否定出来ない。
内容の検証をすべきだろう。


一方でこの元宮内庁長官が、生前にこの内容を公表しなかった理由についても検討すべきだ。
当時から天皇が参拝しなくなった理由が議論されていた。当然公表する意義はあっただはずだ。
だとするとこのメモは公表出来ない類のもので、守秘義務に該当するものではないだろうか。
少なくともオフレコ扱いだったのではないか。

このメモが流出したと言う事は、
公表出来ない様な内容をメモに残し、その上それをきちんと管理していなかった
元宮内庁長官の情報管理に落ち度があったとは言えないだろうか。
このメモの入手経路や、宮内庁の情報管理についても検証すべきだ。


もしこれが本物であれば、確かに貴重な史料(※1)にはなるだろう。
しかし、守秘義務にあたるべきものなら、
日本経済新聞は公表すべきかどうかを熟慮すべきだった。
(少なくとも元宮内庁長官は公表しなかったのである)


日本の新聞社は敵国のスパイの様な事を平気で行うから、困ったものだ。



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(※1):一義的には元宮内庁長官の人となりを知る上でだ。
昭和天皇についての言及部分については、あくまで補足的な資料として扱うべきだろう。

朝日新聞問題:遡及適用の禁止

2006-07-09 00:00:00 | しあわせって?
「朝日新聞2006年07月08日(土曜日)付 『日銀内規 甘すぎた福井氏のツケ』」について

(日本銀行は、外部の有識者による提言を全面的に受け入れ、
役員の金融取引に厳しいたがをはめた内部規定を新たに定めた事に関して)

#  ただ、新たな内規が私募ファンドの保有や売買を禁じることは、
# 福井氏の行動が誤りであったことを、日銀自らが認めたに等しい。

# 福井氏は、自らの行動が内規の改正を通じて否定された事実を、
# 重く受け止めるべきだ。


朝日新聞は制度上の不備と個人の罪を故意に混同している。
決まり(内規)と言うものはスポーツで言うルールと同じだ。
スポーツマンたるもの禁止されていなければそれをした人を非難する事は出来ない。
問題にすべきはルールの方だ。で、今回ルールが改正されたのである。
(ルール通りにしなかった民主党の議員とは本質的に違うのだ)

この社説で朝日新聞は
「ほら見ろ、ルールが改正されただろう!お前が昔したゴールは無効だ!」
と主張しているのである。

ルールが改正されても、改正される前のゴールは有効だ。
しかし今後は反則を取られる事になるのである。


野党もよくするのだが、朝日新聞の様な批判の仕方は問題だ。
おそらくこの内規の改正は(改正前に比べて)朝日新聞の望むものに近づいたはずだ。
ところがこの朝日新聞の様な批判を許すと、誰も改正などしたくなくなる。
今後改正する毎に個人の誤りを認めたとの論理のすり替えが行われてしまうからだ。

内規の改正は個人の誤りを認めたのではなく、内規の誤りを正したか
もしくは内規をより良くしたと解すべきだ。


この社説は根拠の無い因縁を付けて個人攻撃をしているに過ぎない。
『スポーツマンシップ』に反しているのはむしろ朝日新聞の方である。


朝日新聞の解釈こそ罪悪だ。

『朝まで生テレビ』での「モラルハラスメント」

2006-05-28 00:00:00 | しあわせって?
ずっと気になっていた人がいる。一流大学の教授でニヒルな二枚目、
しかも聞き惚れるような美声。もし私が女だったらイチコロだろう。



以前から気にはなっていたのだが、特に昨夜の『朝(まで)生(テレビ)』は酷かった。

# 「人の話を良く聞きなさい!」
# 「条約をきちんと読みなさい!」


天下の東京大学の教授様からすれば、きっと酷い意見だったのだろう。
しかし、討論の場面に於いてはどんな相手であっても対等な人間として尊重すべきだ。

相手が自分の話を誤解したのなら、より相手が理解できる様に言い直して再度説明すべきだし、
もし相手が条約を理解していないと感じたのなら、自分の理解した内容を述べるべきだ。



実はこれらの発言は討論の内容ではなく、相手の人格を一方的に攻撃するものだ。
なぜならこれらの原因は理解出来なかった相手にだけあるとは限らない。
自分の説明が不十分だった可能性だってあるし、
条約の解釈を誤っているのは相手ではなく自分であるかもしれないのである。

むしろ今回この様に一方的に相手を非難したのは、この教授の自信の無さにあるのでは
ないかと考える。この教授は『朝生』の準レギュラーとでも言える程の常連なのだが、
今回の話題はこの人の専門分野だったのか?(私にはそうは思えなかった)


そもそも私は『朝生』で、この人が建設的な意見を言っているのを見た事が無い。
大抵この教授は、何かごにょごにょ言って、さも重要な問題提起であるかの様に
相手に質問を返すのである。これにより相手側の意見には何か問題がある様な
『印象』を受けるので、相手は懸命に回答しようとする。
これの繰り返しが一般的なパターンだ。


私は先の発言を含め、これらの行為はモラルハラスメントであると考える。
そして私が以前から気になっていたと言うのは、
この東大教授が、相手を鼻で笑っているかのように話す事だ。

当人はきっと『鼻で笑ってなどいない』と主張するだろうし、
おそらく意識しての事ではないとは思うが、
このような振舞いが視聴者にどう映るかと言えば、討論の相手は
第三者には「天下の東大教授に鼻で笑われた」との印象を与えるだろう。

折角の意見が、周りの人達に取るに足らない意見と印象付けられて
検討さえしてもらえなくなるのだ。
そして、言った本人は自分の意見とあまり関係の無い質問の回答をしているうちに、
折角述べた意見がどこかに行ってしまうのである。


私は討論とは、相手を言い負かすのが目的ではなく、
相手の考えの良い点を引き出し、討論で自説以上の結論を導き出す事だと考えている。
討論の内容以外の方法で、相手を貶めるのは問題だ。

田原さんには、せっかくの公共の電波を使うのだから、
言い争いではなく有意義な話し合いとなるよう心掛けて欲しい。

『理系』と『文系』

2005-11-27 00:00:00 | しあわせって?
このblogで使う『理系』と『文系』という言葉をまとめておこうと思う。


私の使う『理系』『文系』と言う言葉は出身学部や現在の仕事とは関係無い。

『文系』は「自分を表現すること」に特化した人の事で、
『理系』は「問題を解決すること」に特化した人だ。


『文系』は自己表現を『成果』に見出し、
『理系』は自己表現を『解決策』に込めるのだ。

『文系』は「素晴しい『結果』だろう!」と自慢し、
『理系』は「スマートに『解決』しただろう!」と自慢するのである。


--
耐震データを偽造した建築士はおそらく『文系』だ。


テレビに出てコメントをするような第一線に居ない建築士も『文系』が多そうである。
彼らは『理系』に毒されていないので『判りやすい』事を言うが、
一方で『理系』の価値観を理解していない様に感じる。
彼らが適人者であるかは、良く考える必要があるだろう。


事実関係は分からないが、現在マスコミが騒いでいる

「鉄筋を減らせ」
「出来なければ他に廻す」

と指示する事の何が問題かが『理系』には理解出来無いと思う。

おそらく『理系』が大多数を占める建築士の中にあっては、
これらの言葉は『普通に』使われているのではないだろうか。


『理系』であれば「鉄筋を減らす(という問題を解決する)」事を依頼されたと解釈し、
疑う事無く「(強度を落とさずに)鉄筋を減らす」方法を考えるだろう。
そのため「(問題を解決)出来なければ他に廻す」事も当然だ。

貴方が家を新築する時だって「もっと窓を大きくできないの?」とか
「安くできないなら、他の会社にします!」と言うだろう。
別に鉄筋を減らしたからと言って、工夫さえすれば直ちに強度が低下すると言う物ではない。


しかし『文系』の文脈では、一度出来た設計書は「『自分』を表現したもの」だから、
「(強度を落とさずに)鉄筋を減らす」事など考えも及ばないだろう。
「鉄筋を減らせ」と言われれば、唯一絶対である設計書から、
「そんなに言うなら、いくらでも減らしてやる!」とやけくそになって
鉄筋を一本おきに間引くかもしれない。

『文系』にとっての成果物は、唯一絶対の(他には考えられない)ものだから、
「(減らす事が)出来なければ他に廻す」と言う言葉も不正を強要する脅し文句としか
聞こえなかったのかも知れない。

これが『建築士』ではなく、画家や小説家だと思えば、理解しやすいのではないだろうか。
例えば、画家に「この色を赤くしろ!」とか
小説家に「この表現は冗長だから消せ!」と、注文出来るだろうか?



いやしくもプロなら、やけくそになる前に職業倫理を思い出して欲しかった。
齟齬があったにしろ、出来ない事は断るべきだ。

彼がした事は、貴方の新居の「窓を大きくして!」との依頼に、
設計を一切変えずに窓の穴を大きくくり抜いて見せたのと同じなのだ。
貴方は、家としての機能(強度など)が損なわれても
窓が大きくなりさえすれば満足するだろうか?


構造設計という仕事は、『文系』には向かない様に思う。

『殺人マンション』社長はなぜ『疑わしい』のか

2005-11-26 00:00:00 | しあわせって?
一連の社長とマスコミとのやりとりを見ていて、思う事がある。


私はこの社長も、その補佐をしている社員?も、聰明だと思う。
しかしながら、彼らがどう頑張ってもマスコミの人には理解されないだろう。

これは『ホリエモンがエライ人に認められない理由』というエントリで書いた
(出身学部などではなく私が再定義した)『文系』と『理系』の違いの様に思う。

社長らはホリエモンより遥かに頭が良く、『理系』度も上回っている。
いくら社長らが『効果的』な説明をしても、マスコミは理解できないだろう。
なぜならマスコミは『理系』にとっての『効果的』な説明を理解できないからだ。
(『効果的』というのは、「『理系』度が高い」事を意味する。)

尤も『効果的』な説明だからといって件の社長が無実であるとは限らないのだが。。。


これは、マスコミや『文系』の頭が悪いというよりは、文化の違いだ。
両者では、おそらく見える物も感じる事も全く違う。
物事を理解するしくみが全く異なっているのである。
そして同じ日本語を全く違う『言葉』として使っているのである。

これは、松本サリン事件で報道被害に遭った人と、
マスコミとのやりとりとも当てはまる。
この人も『理系』からすれば、『効果的』な説明をしていた。

『理系』の人なら、誰も彼に対し疑うべき点を見出せなかっただろう。
しかしマスコミは理解できずに、どんどん疑惑を深めて行ったのである。


人は、自分の理解出来る範囲でしか物事を理解することが出来ない。
世の中には『理系』の人間が存在するのである。

『理系』の人が『理系』の言葉を使うのには理由がある。
『理系』の人が言いたい事を『文系』の言葉で表す事は
英語を日本語に翻訳する様にはいかないのだ。
強いて言えば、文化も思考形態も感覚器官も異なる宇宙人の言葉を
地球語に直す位の困難を伴うのである。


報道が真実を誤解の無いように大衆に伝える事である以上、
『理系』の人に『文系』の言葉を言わせるよりは
報道の人の側が『理系』の言葉を理解し、翻訳すべきだ。

一方の社長も、皆に理解して欲しいのなら、
マスコミ対応の為に『文系』のスポークスマンを置くべきだろう。



現在の報道関係者は、世界の半分しか見ていない。


ネバーランド

2005-11-03 00:00:00 | しあわせって?
「素敵な人の目には、世界は素敵に映ってくれるのよ」


深夜にたまたま見ていたアニメでヒロインが言った言葉である。
水着の美少女しか出ないようなアニメーションだったが、この言葉が心に残った。


この引用だけでは、
「美人なら世界は素敵に見えるのだろう。世の中は不公平だ!」と
受け取るかもしれない。しかしこれはその様な意味ではない。

同じ物を見ても、それを感じるのは自分自身だ。
自分がどう感じるかは、自分の心の反映でもある。
少なくとも『心が』素敵な人で無い限り、世界は素敵には見えないのだ。


私には、この世界が素敵に見えているだろうか?



--
先の内閣改造で共産党と社民党の党首は、こう言った。


暮らしと平和を壊す反国民的改革を強力に推し進める意味で適材適所。
『悪政推進適材適所内閣』だ


「改憲・大増税内閣、『ネオコン大増税内閣』だ」


相変わらずの語彙の貧弱さで大した非難にはなっていないが、
彼らなりの最大の罵倒であろう。
これが、まだ任命されたばかりで何もしていない人に掛ける言葉だろうか。


彼らには、この世界が素敵に映っているだろうか?



--
なぜ『素敵』な人には世界が『素敵』に見えるのだろう。
そもそもどの様な人が『素敵』なのだろうか。


『素敵』な人も『素敵ではない』人も同じ景色を見ている。

しかし『素敵』な人には同じ景色の中に『素敵』を見出す事が出来るのだ。
『素敵ではない』人にはそれが出来ない。不満ばかりが見えるのである。

それどころか悪い所が見えるのは自分が優れている証拠だと考え、
「素敵な景色」を言う人を愚か者と見下すのである。

誰も増税を喜んだりはしない。
先の選挙で現政権を支持した人も現政権が増税するだろう事は分かっている。
増税の先に『ユートピア』を見い出す事が出来るからこそ、支持できるのだ。

確かに増税は喜ばしくない事である。ただ、その指摘だけでは不十分だ。
反対するなら、増税せずに『ユートピア』が成立する事を示さなければならない。
無駄を無くして大企業に課税すれば良いと言うなら、どの無駄を無くすのか、
課税はどの企業にいくらするのかを具体的に示さなければならない。
それが出来ないのであれば、存在など出来ない『ネバーランド』を語っているに
過ぎないのである。


--
『ユートピア』を作ろうとするなら、世界に存在する物や人の『素敵』を見い出し、
それを最大限に生かす必要がある。
社会主義や共産主義は、もともとこの考えに基づいていたはずだ。

ところが近年の社会主義者や共産主義者は、現実への不満から出発している。
そのため、彼らの見ている「世界」は『素敵ではない』物なのだ。
『素敵ではない』物をどう並べ直しても『ユートピア』など作れない。
彼らに出来るのは『ネバーランド』を語る事と不満を述べる事だけだ。
『ユートピア』を作るには、世界から『素敵』を見出す力が不可欠なのである。


世界が素敵に見えない人には、『ユートピア』など作れない。

「死刑執行のサインはしない」

2005-11-01 00:00:00 | しあわせって?
新しい法務大臣が就任会見で言ったそうだ。

「(死刑執行のサインしないのは)私の心の問題。宗教観、哲学の問題だ」と。


この様な人を偽善者と言う。

無責任に平和を謳う人もそうだが、この様な人達は綺麗事を言う。
しかし、実の所自分が手を汚したくないというだけなのだ。
そして汚い事は誰か他の人に押しつけて無かった事にするのである。


現在の日本国の制度として死刑は存在する。
そして、死刑執行のサインをするのは法務大臣の仕事だ。

「宗教観や哲学の問題」であるなら、サインをしないのではなく、
法務大臣に就任する以前に、法改正をしておくべきだろう。
少なくとも、それを職務とする法務大臣を受けるべきではない。
現在の日本の制度において相応の罪を犯したのであれば、死刑を執行しなければならない。

死刑と言うのは国家権力の名の基に人を殺す事だ。
人間の行う事であるから冤罪ということもあるだろう。
法務大臣がサインすると言う事は、国家権力の名の基に行われる
殺人の責任を全てひとりで背負うと言う事なのである。

自分可愛さからの行為を「私の心の問題。宗教観、哲学の問題だ」等と
恰好付けて正当化することは、人として最低である。


『権力』は、本来人ひとりが持っている能力を越えた力である。
死刑の様に人を殺す事を正当化しているのも『権力』だ。
この様に『権力』の行使とは、死刑のように直接的な行為ではなくとも、
多かれ少なかれ他人の人生や生死を左右すると言う事を理解しなければならない。

例え皆の為だと思って『権力』を行使しても、必ず誰かを苦しめる事になる。
誰も苦しまないのであれば『権力』を持ち出すまでもないからである。

『権力』を持つ立場になるのであれば、
自らひとりで人間の不完全さに伴う咎を全て引き受ける覚悟が必要だ。


サイン出来ない様な人は、人の上に立つべきではない。




-(11/1 02:30追記)-
と書いたのだが、どうも撤回したらしい。
面倒なのでこのまま載せておくが、何なんだこの人。

就任会見で「個人としての心情を吐露」したのだと。

この人は本当に法務大臣をやりたいのか?

筑紫哲也氏と「愛国心」

2005-10-28 00:00:00 | しあわせって?
筑紫哲也氏の番組で「愛国心」について取り上げていた。
一週間を通してのシリーズであったようだが、最終日のみを見た。

この中で筑紫氏は以前から積極的に政治的発言をする精神科医に、
「右傾化は個人のアイデンティティを構築できない弱い人間が
集団にアイデンティティを求めたものだ」と言わせていた。

『専門家』だけあって彼女は慎重に発言をしており、
勿論間違った事は言ってはいない。しかし
だからといってそれが正しいと言う事にはならないのだ。

筑紫氏はこのシリーズの意図を「愛国心について自由に議論できるように」
と述べていたが、もし本当にそう思うのなら、
主張する内容の異なる3人以上の専門家に意見を求めるべきであった。

自分の主張に沿った発言をする『専門家』をただひとりだけ呼んで
それがさも『専門的』意見であるかのように見せかけるのは、公正ではない。


私は右傾化について否定はしないが、それは筑紫氏のような左寄りの主張に対する
反動であると考える。
私はこの番組を見て、筑紫氏が左寄りである理由の一端が見えた気がした。


筑紫氏は戦争を通して戦争の悲惨さや酷さを体感し、
きっとそれは筑紫氏の心に強い印象を刻んだのだろう。

「自分は日本政府によって酷い目に遭わされた。」

おそらく筑紫氏にはこの様な感情があるのではないだろうか。
戦後生まれの私などとは異なり、筑紫氏は『被害者』なのだ。
『被害者』と言う意味に置いて、筑紫氏も近隣諸国と立場を同じにしている。


一方で近隣諸国は『反省』を求めている。
では一体、彼らは誰に対して反省を求めているのだろうか。
彼らは言うだろう「日本人に対してだ!」と。

ここには筑紫氏と近隣国民との間に歴然とした違いが存在する。

筑紫氏はおそらく(調べてはいないが)日本人だろう。
だとすれば、近隣国民は右傾化した若者だけではなく
筑紫氏に対しても反省を求めているのである。

ところが筑紫氏は「悪いのはA級戦犯であり、日本政府だ!」と考えている。
筑紫氏は自らが被害者であると考えている限り、反省はどしないだろう。
被害者に反省する理由などないからである。

一方で、右傾化して戦争を正当化しているとされる人は、
少なくとも自分が加害者であると言う事を『自覚』している。
もしそうでなければ『正当化』する必要など無いだろう。


--
『政府』と言う物に実体は無い。
日本政府というものは日本国民の利益代表に過ぎないのだ。

国内的にはともかく、対外的には日本政府の行為は日本国民の責任である。
全てを首相や政府の責任とする事など出来ないのだ。

「愛国心」を憂う筑紫氏は
実の所、自身の意識において日本国民でさえないのではないだろうか?


一方で右傾化しているとされる若者は戦争の当事者ではない。

国家を家族に例えるなら、今の若者は
「祖父が凶悪犯だったからと言って、自分を責められても困る」との思いもあるだろう。
この意味で戦争当時(子供であったにせよ)日本国の構成員であった
筑紫氏の方こそが責任を感じるべきなのだ。
(例えば、同じ日本人でも戦後に中国や朝鮮から日本に帰化した人に戦争責任があるだろうか?)

筑紫氏は若者を非難する前に、自分が(少なくとも近隣諸国から)
反省を促されていると言う事を自覚し、認めなければならない。
心理学者『風』に述べるなら、自分の『罪』を正当化しようとする人よりも、
『罪』自体を認められない人の方が遥かに『弱い』のである。

筑紫氏は自らの問題を自分で解決する必要がある。
公共の電波を使い、自己弁護のための番組を作る事があってはならない。

反省すべきは右傾化した若者だけではない。筑紫氏自身も『罪』を認め反省すべきだ。


私達は『弱者』ではない。

2005-10-09 00:00:00 | しあわせって?
毎日新聞の(10/8付)社説によると、民主党の某幹部は、こう言ったそうだ。


今度の選挙で最大の特徴は、判官びいきがなくなったことだ。
しかも、弱者まで、弱者を切り捨てそうな強いリーダーを支持し、頼ろうとした。
それが小泉ブームを起こした。危なっかしい風潮だ



この『幹部』(や、この発言に同調している毎日新聞)こそ危険である。

この『幹部』にとっての『弱者』とは誰なのだろう。
国民に『弱者』とレッテルを貼り、さも心配している風を装っている人こそが偽善者なのだ。
なにより問題なのは、彼らが『弱者』とレッテルを貼った人の人格を踏みにじっている事である。

人は誰しも自尊心を持っている。そのため *本当は* 他人に『弱者』などと思われたくはないし、
哀れんだり同情されたくもないはずである。
(ただこの『幹部』は例外のようである。「判官びいき」により自分を応援して欲しいらしい)

もし、同情される事を望んでいる人がいたとするなら、
その人はきっと何か『大切な物』を諦めてしまったのではないかと思うのだ。
彼らは自分自身が幸せになれるとは考えられず、せめて同情して欲しいと思っているのだろう。
人はその不幸を同情されるより、本当は幸せになりたいと望んでいるはずだ。


---
『弱者』とは何だろう。


例えば障害者は『弱者』なのだろうか?
病気がちで身体が弱いと言う事はあるだろうが、彼らは断じて『弱者』ではない。

『障害』者の『障害』は、社会参画の機会に『障害』があるという事に過ぎない。
きっと彼らだって、機会さえあればもっと他人や社会の役に立ちたいと思っているだろう。
こう考えれば、彼らも『弱者』と呼ばれて保護される事に抵抗があるに違いないと思う。
『障害者』の特定の部分ではなく人間全体としてみたら、人として何も違わないのだから。


仮に全ての階段をなくし、緩やかなスロープに変えたのなら、
車椅子の人には移動における『障害』はなくなる。

しかし既に存在する階段を単純にスロープにすれば良いかと言えば、そうは行かないのである。
階段と同じ角度の急な坂を車椅子で登る事は不可能であるし、歩いて登るのも危険だ。
車椅子で移動出来るようにするには、階段の何倍もの距離が必要なのだ。

スロープを伸ばす事自体はお金で解決出来る。ただこの事はお金の問題より遥かに深刻なのである。
スロープは老人において階段よりも有益であろうが、若者が歩いて登るには緩やか過ぎるのだ。
フロアを一階上がるのに何十メートルも歩かなければならないとしたら、
若者がこのスロープを使おうと思うだろうか?

実際問題、障害者に限らずある人の『最適』と別の人の『最適』とは異なるのである。
社会生活において、私達はこの『最適』の違いについて折り合う必要があるのだ。

政治における『弱者』とは、この違いを顧みられず不便を一方的に押しつけられる人の事である。
いくら階段にメリットがあるからといって、階段を全く移動出来ない車椅子の人の存在を
無視して良い事にはならない。階段の他にスロープを作るとか、階段をスロープに変えて
皆がスロープを使うとか、車椅子の人にはエレベータで我慢してもらうとか、議論すべきなのだ。
結論として、主張が通らない事は当然ある。


『弱者』とは救済対象ではない。政治によって作られるものである。
民主主義における政治の役割とは『弱者』(顧みられない人)を作らない事なのであり、
言い替えると、皆にすこしづつ譲り合って『我慢』してもらう事なのだ。
(社会主義や共産主義を夢見る人達は、全ての人が満足出来る状態が存在し、
自分ならそれを実現出来ると考えているようではあるのだが、、、)


『弱者』とレッテルを貼られるに値する人は存在しない。
レッテルを貼るとするなら、『自分勝手な政治家』がいるだけだ。
このため強いリーダが弱者を切り捨てると言うものではない。
これは弱いリーダほど弱者にとって望ましいとは言えない事でも明らかだ


この『幹部』は単に人格攻撃として「弱者を切り捨てそう」と言っただけかも知れない。
政治家が『弱者を切り捨てる』と主張する時は、決まって自分の意見が通らなかった時である。
自分が無能である事に対する責任を回避し、さも自分が良い人であると見せたいが為に、
この様に『弱者』を持ち出して相手を非難するのだ。
正当な主張であれば、別に弱者の代弁者である事を強調する必要などないのである。

これは強いリーダであればあるほど相対的に自分の影響力が行使しにくくなると言うだけの事なのだ。
(『(審議拒否などの)影響力の行使』が民主的であるかの議論も必要だろう)


---
『弱者』と似た言葉に『負け組』がある。

先の選挙で野党はどこも「『勝ち組』ではなく『負け組』の為の政治」等と謳っていたが、
『負け組』と言う概念も作られた物だ。
『負け組』も「諦めてしまった人」であり、諦めない限り『負け組』にはならない。

自分自身を諦めてしまうほど、哀しい事はない。
まともな政党であれば「諦めてしまった人」の為の政治ではなく
「諦めなくて済む社会」の為の政治を提案すべきなのである。


私は野党の主張は危険であると考えている。
彼らが『負け組』を言う場合、それは常に『勝ち組』との対比となるのだ。例えば、
「年収x千万以上の『勝ち組』が増えた一方で、年収x百万未満の『負け組』も増えて二極分化している」
等と言うのである。

政治としては年収の多い人が増える事は問題が無いばかりか喜ばしい事であるはずだ。国民にとっても
年収の多い人が増えたからといって、直接(年収の変わらない)自分の生活が悪くなるという訳ではない。
問題とするなら年収の少ない人の存在のみであろう。だが彼らは別に『負け組』ではない。
ところが野党は、現状に不満を持つ人達に対し成功者(勝ち組)に対する嫉妬を煽っているのである。

嫉妬というのは、自分はそうはなれないと諦めてしまった場合に起こる感情である。
そうなろうと努力している人は嫉妬などしない。自分もそのうちその立場になるのだから。
野党は「お前は成功など出来ない」と訴え、あなたを無理矢理『負け組』に区分しようとするのだ。

野党こそが国民に成功者に対する嫉妬心を起こさせ、自分が『負け組』であると思わせる事により、
私達を『負け組』に仕立て上げたのだ。
そしてこうも囁くのである。「税金は(あなたではなく)金持ちから取れば良い」と。

これらは国民を勝手に『負け組』に仕立て上げ、
「負け組に優しい」とする彼らの党に投票させようとする企てである。
自分達の票を得る為に私達に欲や嫉妬という醜い感情を煽り、私達の自尊心を傷付けているのである。


---
『悪魔』という概念がある。

『悪魔』というのは禍の元凶であるとされる一方で、とても魅力的な人物に見えるのだ。
なぜなら『悪魔』はあなたの望む事を言ってくれるからだ。

そして『悪魔』自身は絶対に悪い事を行わない。
『悪魔』は嫉妬や欲望など人の弱さを刺激して、人間自身に『悪い事』をさせるのである。
そして私達はその『悪い事』に対して苦しむだけではなく、
悪魔ではなく私達人間がその『悪い事』をしたと言う事実に対しても二重に絶望するのである。

私は年収何億円と言う人を羨ましく思うし、税金も(積極的には)払いたくはない。
ただ、私達は少しずつ我慢しなければならない。
どの程度が適切であるかどうかは、きちんと政治の場で話し合うべき事であり、
『適切な』税金を私も払わなければならないのである。
例え『弱者』や『負け組』と分類される事で優遇されるとしても、
それは悪魔に魂(自尊心)を売る事と同じなのだ。

これは行政に頼るなと言う事ではない。困った時には行政に要求すべきである。
ただ、それはあなたが『弱者』や『負け組』だからではない。
国民として正当な権利を行使すると言う事である。
例えあなたが障害者と『区分』される立場であったとしても、あなたは障害者としてではなく、
ひとりの国民として要求すべきなのだ。


野党の主張は一見『優しい』ように見えるが、その内容は『悪魔』的なのである。
私達の誰一人として『弱者』でも『負け組』でもないのだから。


成功者を素直に祝福出来る人に、私はなりたいのだ。

毎日新聞は「ムラ意識」から脱却すべきだ

2005-08-24 00:00:00 | しあわせって?
毎日新聞「社説:自殺サイト殺人 露呈した「匿名化」の危うさ」について
(http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20050824k0000m070160000c.html)

毎日新聞は「匿名」が嫌いらしい。
インターネットの自殺サイトで知り合った人を殺すという事件が「匿名社会」の
せいであるとの主張の様であるが、いつもの如く全く関連が見出せないのだ。
この『社説』も事件をダシにして、「匿名社会」を非難する目的である様に思う。

以降「相手を充分に理解出来ない事」を『匿名』とする。(**1)


>  事件は集団自殺に限らず、生い立ちも生活環境も知らぬ者同士の出会いが生まれる
> 「匿名社会」の危うさを浮かび上がらせた。
人が知り合う時点において「生い立ちも生活環境も知らぬ」事は当然であり、
これを問題とするなら、既知の人以外はつき合うべきではないと言う事になる。

顔を合わせる全ての人の生い立ちや生活環境を知っている社会を『ムラ(村)社会』と言う。
これは、閉鎖的な社会であり、確かに犯罪の抑止は期待できる。
でも、その様な社会を私達は望んでいるのだろうか?


> プライバシーや個人情報の保護を過度に追求すれば、
> 人情が失われるのではないかとも気に掛かる。
毎日新聞が考える『人情』とは、地縁、血縁、学閥、民族、知人など、
特定の人を贔屓(ひいき)する事なのではないだろうか。

これは、有害な思想と言える。
誰かを贔屓する事は、それ以外の人を排除する事であるからだ。
本当の人情は、名も知らぬ(匿名の)他者に対しても行われるものであろう。


> 自衛のため、あるいは社会防衛のため人付き合いのあり方を問い直し、
> 匿名化の流れに歯止めを掛ける工夫を検討したい。
おそらく「匿名」が嫌いな毎日新聞は、これを主張したかったのだろう。

より多くの人と知り合う事は悪い事ではないし、
知り合った全ての人に「生い立ちや生活環境」を知らせる必要もない。
「匿名社会」は、情報化社会の裏返しであるといえる。

問題なのは、情報化社会であるにも係わらず『ムラ社会』の様に振舞う点にある。
私は毎日新聞の様に『ムラ社会』に戻るべきであるとは思わない。


--
毎日新聞は現状を正しく認識しているとは思えない。問題は、
> 人と人が信頼し合うには、ある程度自分をさらけ出さなければならないことも
> 忘れてはならない。
と言う事が成立していない点にある。

実際問題彼らは、自分の『生』の集大成であるはずの『死』を
「生い立ちも生活環境も知らぬ」相手と共有してしまうほどに『信用』しているのである。

彼らが身内ではなく、他人をより信用してしまうのは、身内に絶望したからだろう。
彼らはきっと肉親や親しい友人とは、分かり合えない事に気づいたのだ。
でも、それは彼らの身内の責任ではない。赤の他人であっても同様なのだ。
ただ、良く知っているが故に、分かり合えない事に気づいてしまったに過ぎない。

> そもそも情愛もない他人同士が一緒に死ぬこと自体が不自然、非合理だ。
なぜ彼らは一緒に死ぬ相手を望むのだろうか?
『死』という個人的な出来事を、誰かと共有したいと願う事は、
寂しさ(孤独)の裏返しと考えられる。

『孤独』とは自分以外の人間と、分かり合えない事である。
問題なのは「匿名社会」ではなく、『孤独』だ。彼らは『孤独』に耐えられず
「生い立ちも生活環境も知らぬ」相手を『信用』してしまうのである。
もしかすると、彼らが『死』を望む原因の多くも孤独に由来しているのかもしれない。


『孤独』を感じる様になったのは、我々が豊かになって社会が成熟したためである。
確かに必要以上に干渉していた『ムラ社会』において孤独を感じる事はなかっただろう。
このため孤独なのは「匿名社会」のせいであると考えがちであるが、
人は根源的に孤独なのだ。

このため、他人に孤独を埋めてもらおうとしても無駄である。
いくら肉親や配偶者であっても、完全に理解し合う事など出来ないのだ。
「ムラ社会」であっても『匿名(**1)』である事に変わりはないのである。


--
孤独である事に絶望してはいけない。
それは、きっと自分自身(人間)について理解し始めた事なのだ。

毎日新聞の様に、物事の本質に触れようとしない人達には絶対に理解出来ない。
そんな人達の不用意な主張に傷付く必要はないのだ。

我々は『死』ではなく、『孤独』を共有すべきである。
誰しも孤独であると。人を深く知れば知る程、孤独を感じる事を。



実際に口に出して「寂しい!」と、何度でも言ってみよう。


例え理解されなくとも、本当はみんなが孤独なのだ。絶望することはない。


戦争体験を語る意味とは?

2005-08-05 00:00:00 | しあわせって?
戦争体験を語る事が本当に平和に繋がるのだろうか?


私は、戦争で辛い思いをした人達が自分たちの経験や思いを伝えたいと願う事は、
自然な感情であると思う。戦争経験者がその経験を語り
我々がそれを理解し共感することで、彼らはカタルシスを得る事になるのだ。


しかしながら戦争体験を語る事が『平和』に繋がるとは思えない。
なぜなら彼らの語る戦争経験の多くは、おそらく戦争の『被害』についてであるからだ。
このため戦争経験を聞いた人は「戦争の『被害』は嫌なものである」としか感じない。

「戦争の『被害』を語る事」を無理矢理『平和』に繋げると、
「戦争の『被害』は嫌だから、避けなければならない」となる。
しかしながら、この手法は間違っているのだ。

この論法では、以下の2つの方向にしか進まない。
「戦争を回避するためなら、如何なる妥協も厭わない」と、
「『被害』を受けない様に戦争をしなければならない」だ。


前者であれば「如何なる妥協」といっても限度がある。
限界を越えた妥協を行った時点で、きっと日本は耐え切れずに戦争を始める事になる。
そして後者は、明らかに戦争を回避する方向には働いていない。
結局の所、上の2つとも『平和』へは繋がらないのだ。


前者の場合、戦争を回避するには、安易な妥協をしない事である。
妥協をせずに、辛抱強く交渉をするしかないのだ。
ところが、国民に「戦争の『被害』の悲惨さ」を擦り込んだ場合は、
緊張状態に耐えられなくなるのだ。その結果、戦争を恐れるあまり、
本来妥協する必要のない事まで妥協することになってしまう。


一方、後者の事態を回避するためには、自分たちの『被害』を強調するのではなく、
相手に対する『加害』行為を強調しなければならない。

戦争をすると言う事は、自分たちが『加害者』になると言う事なのだ。
戦争の相手も私達と同じように血の通った、親兄弟や妻子のある『人間』であり、
彼らを攻撃すると言う事は、その『人間』を殺す事なのである。


このため『不戦』を目的とするなら戦争体験を『被害者』の文脈で語るべきではない。
自分たちが『加害者』にならない事、これこそが「戦争をしない事」なのだ。

同じ戦争体験でも、『加害者』として実際に人を殺め、
深い罪悪感を伴った体験を語る事が出来るのなら、それは『平和』に結び付く。
しかし現在の戦争体験の多くは『被害者』の文脈で語られてはいないだろうか?
これでは戦争を回避することにはならない所が、戦争を引き寄せる事になるのだ。


「戦争をしない」というのは、戦争被害の『加害者』とならない事である。
また、歴史から外交交渉での安易な妥協が戦争に繋がる事を学びさえすれば、
粘り強く交渉を重ねることこそが唯一の戦争回避の道である事が理解できるだろう。

我々は『戦争』が問題解決の最終手段であると言う事実を認識する必要がある。
安易な妥協をすることは、不満(問題)を残す事になる。
交渉で問題を解決出来なければ、最終的には戦争で解決する事になってしまうのだ。
互いに納得するまで交渉を続け、安易に妥協しない事は、
単に自分たちの利益の為だけではなく、戦争を予防することに繋がるのだ。
戦争を回避するためには、全ての事柄を戦争以外の方法によって
完全に解決しておかなければならない。


『平和』というのは、たゆまぬ努力の賜である。
戦争の悲惨さを語る事が『平和』に繋がるとか、
憲法9条を変えず、戦力を持たなければ『平和』で居られるなどと言う事は幻想だ。

粘り強く交渉するためには、相手にも交渉を続けさせなければならない。
そのためには強力な軍事力が役に立つ事もあるのだ。
軍事力は戦争の為だけにあるのではない。

持たないで済めば、より好ましいのだが。。。


人権擁護法案の問題点

2005-07-29 00:00:00 | しあわせって?
> 人権侵害に苦しむ人びとは、救済の法律を待ち望んでいる。
(『人権擁護法 救済の法律は必要だ』 朝日新聞【社説】 2005年07月28日(木曜日)付)


人権侵害に苦しむ人びとに救済の法律は必要である。しかし、
『人権擁護法案』が「人権侵害に苦しむ人びとを救済」する法律であるのかは疑問だ。
現在の法制度において救済出来ず、『人権擁護法案』がなければ救済できない
「人権侵害に苦しむ人びと」とは、どの様な人びとなのだろう。


私には『人権擁護法案』は、国家が「差別主義者」を『認定』する制度にしか思えないのだ。

人権擁護法案では、差別したとされる人を人権委員会が調査し、勧告し、公表する。
ここで、なぜ『公表』する必要があるのかについて考察すべきなのだ。
差別をした人を『公表』する事が、直ちに『人権擁護』とは成らない事は自明だ。
では、差別者を『公表』する事が『救済』にあたるかといえば、それも違う。


ここからは私の『推察』であるが、『人権擁護法案』においての『公表』は、
差別主義者に「社会的制裁」を与える事により、
同様な行為の抑止を目論んでいると言う事なのではないだろうか?

では「社会的制裁」がどの様に働くかと言えば、人びとが差別をした人を知れば、
「あの人は『差別』をしたらしいから、近付かない方が良い」と、思うだろう。
すると、『差別主義者』は孤立し、社会生活に支障が生じる。
これでは困るので、そうならないように人びとは行動し、
結果として『人権侵害』は抑止されるのだ。

ただ、考えてみて欲しい。その人は確かに過去に於いて『差別』をしただろう。
しかし過去に『差別』をしたからといって、今後も『差別』をするとは限らない。
統計を取れば、かなり強い正の相関が認められるかもしれないが、
今後『絶対に』差別をするとは限らないのである。

この様な事を『差別』と言うのではないだろうか?
これは「あの人は前科者だから、つき合うべきではない」と言うのと違いはない。
人権侵害を無くす事を目的とする『人権擁護法案』の規定する制度自体が、
人権侵害を利用しているのではないだろうか?
これでは国家自ら差別の助長行為をしているとも言えるだろう。


それに『差別主義者』と『前科者』に違いがあるとすれば、
『前科者』は刑に服して「罪を償う」事をしているが、
『差別主義者』には「罪を償う」事が出来ない点だ。
これでは人びとは、彼らを許す『きっかけ』を持つ事が出来ない。

人によっては「たかだか氏名を公表するだけだ」と言うが、「罪を償う」事が出来ない為、
『差別主義者』とのレッテルを一生を貼られ続ける事になるのだ。
こちらの方が遥かに苛酷な仕打ではないだろうか。

一方で「人権侵害の事例」を公表することには意味がある。
どの様な場合が人権侵害であるかを知らしめ、国民に理解を促す事になるからだ。
この場合、差別者や被差別者等の個人情報は必要無い。

加害者とされる人の個人情報を公表することは、止めるべきだ。


--
『人権擁護法案』で「人権擁護」や「人権救済」に成り得るのは、「訴訟援助」位だろう。
(話が逸れるので説明は省くが、調停や仲裁については充分に機能しない様に思う)

『勧告』後『公表』するのではなく、人権被害者の「訴訟援助」こそをすべきだ。
一般人には「訴訟」というのは敷居が高すぎる。このため何等かの援助が必要なのだ。

裁判も通常の裁判と同様に原告は(人権委員会などではなく)被害者本人とし、
(勧告の範囲内での)原告の裁判費用は国が持つべきだろう。
そして裁判の上ではあくまで参考人として「人権委員会」が見解を述べるのだ。
人権委員や人権擁護委員が被害者に助言を与える事は構わないが、
人権擁護委員や人権委員は被告を斬罪するのではなく、原告の援助に徹するべきだ。

裁判所も、『専門家』である人権委員会の『見解』を過剰に評価すること無く、
独自の判断を行うべきである。裁判所も人権委員会から独立であるべきだ。


--
『人権擁護法案』には、上で述べた「制度自体の問題」の他にも
「人権とは何なのか」(定義)
「誰が人権を規定すべきなのか」(価値)
「『人権擁護法案』の規定する制度のメリットとデメリット」(効果)
「『人権擁護法案』の規定する制度の堅牢性」(リスク評価)
など検討課題は沢山あるのだが、面倒なので省略する。

一例を挙げれば『事務局』の規定がほとんどないため、本来人権委員会を
補助すべき事務局に人権委員会がコントロールされる可能性もあるだろう。
(古参の事務局員が新米の人権委員に、都合の良い法律や過去の事例等を持ち出し、
『助言』という名の介入をするかもしれない。
この様な事は官僚と大臣との間にも、あったりして。。。)


私は現行法に照らし人権擁護法案でしか擁護できない人権侵害は無い様に思う。
もし人権擁護法案でなければ解決できない事例が存在するのであれば、
再考するので是非とも御指摘願いたい。(トラックバックだけなのですが。。。)

私個人としては、現在の人権擁護法案は修正ではなく廃案とすべきと考える。
過去のエントリで(現行法では守れない人を守るための)
対案を検討しているので参考にして欲しい。

命の価値

2005-06-27 00:00:00 | しあわせって?
某国に拉致された家族の方々が座り込みをしていた。無事に終わったのだろうか。。。


私は『命の価値』は数学で言う∞(無限大)と似ていると思っている。
(御存じとは思うが)無限大とは

# a)どんな数よりも大きな数。
# b)無限大同士の大小関係は無い。
# c)無限大にどんな数(無限大を含め)を加えても無限大。(∞-∞は無意味)
# d)無限大にどんな数を掛けても無限大。(∞×0は無意)


となり、無限大を命に言い換えれば、

# a')命は何よりも大切だ
# b')命の価値は比較できない
# c')命を考える場合において、命以外のものは考慮するにあたらない
# d')一人の命と大勢の命と、どちらが大切であるとも言えない

となる。


命の価値はありすぎて、もはや(他の命も含め)何とも比較出来ないし、
ある人の命と他の人の命とは代替出来ないと言うことだ。


だが私は、命の他にも無限大の価値のものが存在すると考える。
それは、人の『生き方』だ。

監禁され、虐待され続けている人がいるのなら、
それは命を失っているのと同じか、それ以上のものであろう。


--
「戦争はいけない。」


確かにそうだ。
では、戦争さえしなければ良いのだろうか。

平和を謳う人は、戦争をしないと言うことに拘りすぎて、
実は「命の重さ」や「生き方」を軽んじているのではないだろうか。

彼らにとって大切なのは『自分の』命であって『自分の』生き方でしかない。
彼らは、『他人の』命の重さや生き方を守るためには何もしないのだ。

彼らは現実に苦しんでいる人を前にしてもなお「争いはいけない!」としか言わない。


拉致され、自由に自分の生き方を選べない人々を放っておいて良いと言うのか?


--
テレビで元米CIA長官が(これ以上進展がなければ)「某国を攻撃すべきだ」と
言っていた。

この国は戦争を好むと言う人もいる。
しかし私は、彼らは親切すぎるのだと思っている。

(今回は拉致ではなく核を問題にしているのだろうが)
彼らは他人の命や生き方が蹂躙されていると思えば、
自分たちの命も顧みず助けようとするのだ。

ただ、親切も過ぎると迷惑となるし、英語の『SPOIL』と言う言葉のように、
甘やかしすぎると人(国)を駄目にしてしまうだろう。


米国は、韓国を甘やかしすぎてはいないだろうか?

現在の韓国は、某国の問題を他人事の様に考えている節がある。
私は彼らに、当時者意識を持ってもらうために、むしろ
アメリカは軍隊を韓国から(脅しではなく実際に)撤退させるべきだと考える。


それに、韓国においても拉致被害者は多数居るはずだ。

もし拉致家族が経済制裁以外の事をも検討するなら、日本政府だけでなく、
韓国の国民に向けて韓国の被害者の問題を喚起し、
協調を訴えても良いのではないだろうか。


拉致問題を韓国と共有することさえできれば、充分に国際的なアピールとなる。

これが出来るのは、拉致被害者家族を置いて他にはない。
被害者家族が韓国政府の心配などする必要はない。日本政府には出来ないのだ。

人はなぜ『奇跡』を求めたがるのか?

2005-06-24 00:00:00 | しあわせって?
『信仰』というものがある。


これは特定の対象を絶対のもの(『絶対者』)と『信じて』疑わない事らしい。

私はこの文章を打ち込む為にキーボードを叩いている。
哲学者でもなければ、今叩いているキーボードの存在を『信じる』とは言わない。
『信じる』という言葉を使うのは、実感としてその存在を認識出来ない場合に
用いられるのだ。言い替えれば、疑う余地の無い物を『信じる』とは言わない。


このように『絶対者』を『信じ』なければならないと考える人達が、
『絶対者』の存在証明を求めたがる事は容易に理解出来る。

人々は、それが『絶対者』であるのなら「人知を越えた能力を持っているはずだ」
と考える。その結果、『奇跡』を求める事で、それが『絶対者』である事の証明と
その存在を確信したいのだ。


たとえそれが、第三者から『奇妙なパフォーマンス』としか見えなくとも。。。


しかしながら『奇跡』を行えるのが『絶対者』だけであるとの証明はされていない。
『奇跡』は『存在証明』とはなり得ないのだ。

そして、万が一『存在証明』が出来てしまった場合、
もはやそれは『信じる』対象ではないだけではなく、
人間に理解出来る様なちんけな存在になり下がっているのだ。
これを、もはや『絶対者』とは呼べないだろう。

『奇跡』を求め『存在証明』を欲する心は、自分の中の『弱さ』の顕れなのだ。


安易に『奇跡』を強調する宗教に対しては慎重になる必要がある。
あなたが『奇跡』を必要としているのなら、ます自身の信仰心を疑うべきだ。



(私も含めて)皆が、まがい物の『神』に惑わされたりしませんように。。。



--
誤解が無いように補足するが、上で述べた『弱さ』を持つ人間(弱者)こそ
信仰が必要なのだ。このため宗教には、弱者に対する配慮が存在する。

キリスト教では、『奇跡』を(ローマ教皇辺りが)認定している。

仏教では、小乗と大乗(最近は違う呼び方らしいが)に大別されるが、
『強者』を対象にした小乗仏教はもっぱら『仏』について述べており、
『弱者』を対象にしている大乗仏教は『仏』を「奇跡を求める人(弱者)」に対する
配慮から表現しなおした(これを方便と言う)ものだ。

・・・他の宗教は、よく知らない。
(というより、上で挙げたキリスト教や仏教も、実は全く知らないのだが。。。)



--ここで終わり--
『よい子』はこれ以上読まないでね!
==========================================================================




ここから先は、私の『妄言』を述べるので、読まない事をお勧めする。
読んだ事に対する影響については、私は一切関知しない。
あくまで<自己責任>と言う事で。。。


---
上の文章は、本当は『真理』について論じた物なのだが、
『絶対者(神仏)』が『真理』、『奇跡』が『願望』の暗喩だと言っても
(書き方が悪いので)分からないだろうから、それは気にしなくとも良い。



学校では習わないが、言葉には三種類ある。


それは同じ日本語であっても全く異なるもので、以下の通りだ。

# (a)(『真理』とは無縁の)『弱者』が使用する言葉
# (b)(『真理』を正しく表現する為の)『強者』同士で使用する言葉
# (c)(『真理』を理解させる為に)『強者』が『弱者』に対して使用する言葉
(『強者』『弱者』は有名な哲学者のものではなく、前半の文章の用法による)


一つの文章には三つの解釈(メッセージ)があるのだ。


例えば小乗仏教は(b)の言葉で書かれており、大乗仏教は(c)(b)の言葉で、
聖書は(a)(c)の言葉を使っている。(記号の並び順は優先度による)

言葉で仕事をする人はこの三つの言葉を考慮し、自分の書いた文章が
どの言葉として解されても正しく理解されるようにしなければならない。
(宗教書が必ずしもそうはなっていないのに問題とならないのは、
その対象を勧誘の段階で選別しているからだ)


(全ての人に対して言葉を届ける)マスコミ関係者で、上の意味する所が
理解出来ないのなら、是非とも前向きに転職を考えて欲しい。
あなたの『言葉』は、必ずや有害なメッセージを発していることだろう。


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分かりにくい事は承知しているが(自分の文章能力を棚に上げれば)、
喩え(と皮肉)でしか表現できない事もある。


それに、たとえ何を言っているのか分からなくとも気にすることは無い。
そもそも私の『妄言』なのだから。。。