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河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

2.絵画の概念と作家の選択

2016-09-01 02:20:18 | 絵画
1980年代に上野の東京都立美術館で開催された団体展に出品した自称作家たちは40万人からいたといわれた。出品料を払えばだれも参加できるわけだが、その数に身を引いてしまう。あれからその数はずいぶん減ってしまったと思うが、大半の人が絵画作品を出品し、制作方法が素人には難しい彫刻は僅かである。この団体展を見たことがある人は多かれ少なかれ感じ取ったと思うけれど、どれも似たような作品が多いのに退屈しなかったであろうか?
ここにわが国独自の特徴が見て取れる。日ごろから集団の価値観を大切にし、皆と同じことを考え、同じことをするのが当たり前だと考えている国民性は、周りの誰かがやっていることを真似したがる。そうすることで安心して、自分は間違わないと思うのだろう。
しかし真似といっても、古典の巨匠の作風を真似るわけではない。どうしてだろうか?
古典の巨匠の作品と現代作品のレベルを比較すれば、明らかだが古典の巨匠たちの時代は「力量が第一」で、お金を稼げること、つまり当時の金持ちや権力者から注文が来なければ絵具もけ買うことが出来なかったし、生活は無論できなかった。「無いものを在るがごときにする」能力が直接の収入に影響したのだから、今日のように何かの職業で得た収入で大きなキャンヴァスや絵具が簡単に買えるような状況はなかったわけで、厳しさの中で出来上がった美術界だった。その作家たちの力量は具象画を描くにも「デッサン力」が最も大切だった。私が美大を受験したころは石膏デッサンが試験されたが、この石膏デッサンがうまく描けた程度の力量ではない。石膏デッサンは「在るものを在るがごときに描く」能力であって、誰もができる、つまり集団の価値観の中から一歩も出ることが出来ない状況にいる。
デッサン力は「個人性の造形力」で、作り上げていく力であるから、目の前にあるものを右から左に写すのではなく、感性で説得できる何かを付け加えていかねばならない。そうすると一旦、これまで学んで身についてしまった石膏デッサン的な感じ方の殻を破らなければならなくなる。これが意外と難しいが、巨匠のデッサンを多く見て、真似をして学び、ある日、突然感性が変わっていくのを経験するほかない。

静物画が盛んに描かれ始めた17世紀には、静物画というのはキリスト教やギリシャ神話をテーマとした作品や肖像画と比べて、価値の低いものとして扱われた。物を台の上において描く行為は難しい人物や物語を描くのと比べると、その前の「練習」のように評価されたのである。
物語を作り上げて、登場人物を生き生きと存在させるのと比べると、机の上の静物画は確かに「見える通りに描く」行為に近い。
確かにデッサン力も限定的で十分だといえるだろう。

しかし現代の静物画や人物画を見てもらいたい。何とも写真的に描く人が多いことか。在るものを在るがごときに描くところから何一つ進歩しないところで、静物画や人物画が終わっているのである。しかも皆が皆、同じような作品になってしまうので面白くもなんともない。写真的に描く能力は誰にでも身に着けられる能力で、ピアノが楽譜通りに弾けるというのと同じで特段優れたことではないが、技術力が優れた作品と勘違いされる。確かにそこには物があるように錯覚する存在感はある。しかしこれは絵画ではない。写真で代用できるのだから。わざわざ描いて見せる必要がないということだ。
現代具象絵画の行き詰った状況がここにある。
特に写真的に克明に描くことで行き着いたと思っている人たちは、確かに古典の巨匠たちの影響を受けなかった人たちだろう。
影響を受けることが怖かったのだろうか?
だが、巨匠たちの影響を受けることは、周りにいる人たち程度の影響を受けるよりはマシであったであろう。

何事も人の影響を受けずに、新しく物を作り出せる人はいない。
芸術でも科学やビジネスであっても同じだ。
聖書にも書いてある、「陽の元に新しきはなし」と。





1.絵画の概念と作家の選択

2016-08-30 12:15:27 | 絵画

絵画とは何か、問い詰めると皆まちまちな考えを持っている。
問いが難しすぎると思っていて、その先を考えたがらない人が多いことに驚く。少なくとも絵を描いている人や美術史などを専門にしている人に聞いても、答えは曖昧で中途半端に思える。
そういう私も中途半端な定義しかもっていないともいえるが、すこし具体性を与えてみよう。
美術の中のジャンルでは平面に表現されたものが絵画で、立体が彫刻であるが、もっとこれらの概念に広がりを与える人もいる。しかし美術はあくまで視覚表現を基本としているので、目に見えない言葉で修飾して、感覚的な受容の妨げをするくえ表現はこの際除外しよう。
では、基本的条件の一つとして平面であることが出発点であるとしよう。わが国には六曲一双などという屏風があるが、六つに折りたためるということと、二組であるということは、我々の生活空間に溶け込んでいるためと考えるだろう。西洋にもtriptyque(三連祭壇画)というのがあって、三面で一体となる表現で、一面の作品のみが絵画であるという条件は当たらない。これらは長い歴史の中で完成してきたのである。

しかしその一面一面に求められているのは空間である。芸術的な空間である。ドイツの社会学者のアーノルド・ハウザーという人が「芸術の条件として、基本的なこととしていえるのは、表現されたものが錯覚によって、我々の住む現実から離れ、自律した世界を感じさせることが必要で、この錯覚が大きければ大きいほど受け取る側の感動は大きい」と述べている。
絵画は美術であるが、イコール芸術ではないことは誰にもわかるだろう。しかし絵画が芸術表現の一端を持ち得るためには「虚構を錯覚で現実と紛らわしいほどに感じるさせること」が必要のようだ。
もっと昔の話をすれば、14世紀にイタリアの画家、チェンニーノ・チェンニーニという人が「芸術の書」という著作に、「画家の仕事は無いものを在るがごときにすることである」と述べている。彼の時代には《聖母マリア》をあるがごときに描くのがしごとであったが、絵画の空間が確立する条件を述べていることは、今日絵画の制作に当たっている人たちに大きなメッセージとなっているだろう。
現代美術では「無いものを在るがごときにする」に対して「在るものを在るがごとき」している人たちが多いこと・・・・。現代美術作品から誰もが作者の意図したことを感じ取ることは不可能な時代になっている。物を使って観念的に表現することを、受け取る側と共有できなくなっているのである。そこで評論家や学芸員が「言葉」で、つまりまた観念で説明、解説を行う。美術であるためには視覚手段で表現すべきところを、「言葉」の力を借りて、より混乱させるのである。
正直言って、私はこの「言葉」の氾濫によって現代美術的手法から離れて、古典美術に傾倒したのである。
そのプロセスは間違ってはいないと思う。
文学も、音楽も、美術も「無いものを在るがごときにする」というのが基本であったからで、これをさせおいて感じ入るところはないと思う。

私は長い間、油彩画の修復家をやっていて、その間僅かに絵画制作も行ってきたが、画家として自立できるほど制作数も確保できなかった。国立西洋美術館を定年退職し、やっと自由に制作できるようになったはずであるが、画家としての条件には様々な厳しい難問があるのだが、これが解決できていない。
これが解決できない以上、私の絵画は三流の夢に終わるだろう。
何が問題なのか次の項目で考えてみよう。