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河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

視覚的記憶力 2(加筆しました)

2025-07-18 14:27:54 | 絵画

視覚的記憶力は目で見て「正確に観察できる感覚」を意味していて、我々の生活のいろんな場面で必要で、多くの人が自分の生活、仕事などに用いている。しかし美術館の学芸員でも、この感覚力を大事にしない人達がいる。そうした人たちは「言葉で解決しようとする」日常を作っている。そうした人たちばかりではないが、専門職にありながら調査研究する業務であると認識していないと、こういう人たちになる。美術作品を見ないで、資料文献に作られている「イメージの世界」を利用して充分だと思い込んでいるのだ。

特に近代・現代美術を専門としている人たちは「言葉の遊び」が多くて、原稿を書くと読む方に理解が出来ない言葉や表現様式を用いる。

西洋美術館で開催された自主展での話をします。

西洋美術館で開催される展覧会は、館員自ら企画されるとは限らず、持ち込みで多くの入館者が期待できる大衆的で知名度の高い作家の展覧会が年に3本のうち2本は義務的に企画される。残り一本は自主展と呼ばれる開催費用が安価な西洋美術館学芸員の企画で行われる。中でも担当学芸員の個性が発揮されて、「個人的感想」が特出して、私個人の感想である「近現代表現の言葉の遊び」と思う展覧会が企画された。「かたちは、うつる」と題された自主展で所蔵の版画作品から組み立てられている。この「うつる」という言葉が「ミソ」でカタログの館長「ご挨拶(当人ではなく企画学芸員が書いたと思える内容)」に・・・・。

「かたちは、うつる」と題した本展は、「うつる」という日本語に着目しています。「映る」と書けば「反射」や「投影」を、一方で「写る」とすれば「転写」や「刻印」を、さらに「移る」と記すなら、「移動」や「伝染」を意味します。けれども、これらはもとも0と「うつ(空/虚)」という語から派生した同義語の言葉であったと言われます。つまり何かが「うつる」とは「投影」や「転写」、あるいは「憑依」などによって、目に見える「イメージ」や「かたち」が生じることなのです。版画もまた、まさに「うつす」ことによって、「イメージ」や「形」を現出させ、それらを広く伝播させていく媒体でした。本展では西洋版画に刻まれた「かたち」の生成と反復、推移と変容を「うつる」という日本語とともに考えてみたいと思います。

との導入を言葉で置き換えているが、西洋美術を日本語的な観点から考えるというのは「何だろう?」と思ったものだ。

昨今の文春オンラインで「石井光太」氏の「ルポ誰が国語力を殺すのか」から紹介された記事にある、子供からの「日本人の読解力」を憂えていて、読解力以前に基礎的な能力として、「背景を理解すること」とか「自分の考えを客観視する批判的思考」が不足しているという批判に賛同する。だから自分の都合よく展開させることはご法度だと思う。特に日本語は曖昧で(日本人の思考が曖昧なのだが)具体的に論理的合理性が「意味の説明」には必要である。

この展覧会企画で「うつる」という言葉の「移る」に「まねる」という意味が取り上げられていない。絵を描く私としては、作家が絵を描くときに脳の中に記憶されたイメージが紙の上に創り出されて行くのであるから、作家個人の記憶について語られるべきで、資料文献を読んで自らの創出イメージを語ると片手落ちではないかと思う。

昔の作家は美術館のような施設がなく、様々なコレクションに触れて視覚的感性を磨き、記憶することは困難であっただろう。確かに版画が出てきた頃には、少しは単色の白黒であっても見たこともない新しい「かたち」に触れることが出来たであろう。しかしイタリアルネッサンス後期のバザーリが「マニエラ」と呼んだように、「優れた作家の作品を真似る」ことで多くの作家によって新たな作品が生まれている。この視点で企画者は見なかった。むしろ自分の個人的世界を解説に展開し「非常に困難な解説」が作り出されている。カタログの図版に用いられているのは、自分の趣旨に従うイメージの感想(例えば頭に手を当てて何語か悩んでいるようから)を受ける作品をあつめて、テーマ性に引き込んで見せる。実際は根拠に乏しい。調査研究の分野に「個人的感想」が持ち込まれて混乱する。

どちらかと言うと、東京近代美術館の展覧会のカタログ解説もこれに近いから、近代・現代向きなのだろう。

学芸員と話をすると、頻繁に資料文献が先行して・・・・作家、作品の見方、接し方の違いが現前とする。視覚的記憶力が有効に働いていないと感じるのだ。

目の前にあるものを「言葉」で、どこまで伝えられるだろうか?


麺パン主義の功罪(加筆しました)

2025-07-14 17:07:21 | 絵画

麺とパンで我慢して、5,6,7月と続けて、なんと76kgから72kgに成っていて「ひぇー!!うれぴい!!」てことになった。掛かりつけ医の処で「はい!体重!」と言われて、別に期待もしていなかったのに4kgも減るなんて可笑しい。

食生活に期待はしていないが、麵とパンではお腹がすぐに空くから、朝のコーヒーに昼はしっかり麺やパンを食べていたが、間食が激しくカウチポテトから焼き菓子、せんべいに飴玉まで口に入れて寂しさを満たしたから、太ったに違いないと思っていた。しかも出っ張ったお腹が妊娠五か月を超えて、横の腹部にもべろべろの脂肪が付いてきたので、瘦せるなど考えられなかったのだが・・・4kg減ったとは・・・・・何がそうした???

日本御食事は米があって、漬物から佃煮、焼き物、煮物、刺身、あえ物、汁ものも味が出来上がっていて、そうめんやうどん、ラーメンにパスタに付け合わせて食べるのに、脳細胞が破壊されてしまう。この国にはパンと言えば「菓子パン、食パン」であって、本物のパン食ではない。バゲットや全粒粉のパン(パン・コンプレとフランス語では言う)がない。洋食に菓子パンや食パンは向かない。

考えてみれば画学生のころ、9年以上ベルギー、ドイツで過ごして、「麺パン仕方なし」の時代があって、何によって食欲の不満が中和できていたのか?・・・考えてみると和食の恩恵は忘れていた。要するにお足がなくて、イタリア米で我慢し、醤油は鉄道とドーバー海峡の船を乗りついでロンドンまで醤油を買いに行くしかなかったから「醤油は贅沢、和食は許されない」で過ごした。そういう訳で人生に「障害」があって我慢していたのだ。そしてイタリア米だが「我慢が出来ない」ほどに味は悪くてまるで「えさ」を食べているようだった。イタリア米でも醤油をかけて食べるのは贅沢だった。

しかしそれを救ったのはアカデミーのクラスメイトのモロッコ人学生から教わった「クスクス料理」であった。住まいの近くにアラブ人の食料品店があり、クスクスを簡単に変えたし、そばに簡易モスクがあった。ムスリムのラマダンには夕方6時ごろには「炊き出し」があって、モロッコ人のだちから誘われて行列に並んだ。大きなモロッコパンの半分とボール一杯の野菜スープを振舞ってもらった。モスクに何故日本人が並んで炊き出しを食べに来ているのか、だれも問わない。この博愛主義がムスリム(モスレム)だった。

家ではイタリア米に醤油をかけて食べれば贅沢であったから、すぐにモロッコ味のクスクスが日常的になって、クスクス鍋を購入して、二段の下で野菜スープ(たまには鶏肉を入れる)に上は蒸し器になっており重宝した。このクスクスはブリュッセル時代の主なメニューになって、貧乏学生の食事を支えてくれた。ある時、小麦粉を水に溶いて置いていたのを忘れていたら、ブクブク膨らんでいたので、蒸し器に入れて蒸したら「蒸しパン」に成っていて感激した。そこで豚のひき肉と玉ねぎを炒めて、砂糖と塩で味付けして「豚まん」を作ってみた。いける!! どうして、何もしないのに小麦粉が発酵したのか未だに分からないが、ベルギーの小麦粉はそのように出来ているのか・・・? そういう訳で、無いところに和食の絶対欲が失せて、他にも日本のウスターソースを真似て、器に書かれた内容説明に従って、材料を集めて自家製ウスターソースを作った。これもそこそこの味が再現できた。こうして和の食欲は止まなかったが、近所の日本食レストラン「都田川」で皿洗いのアルバイトを始めて、和食はそれほど餓鬼にならなくても身近に得られるようになった。都田川が日本人向けの食料品と魚屋を始めて、魚を調理する技術を身に着け、鯛はもちろん、ウナギまで開けるようになって、今日に至るまで魚を下せるのは感謝している。この魚屋ではブリュッセルで手に入らなかった日本のコメ以外にカルローズ(カルフォルニア米)を売り始めて、安くはなかったが「寿司」を作るにはイタリア米では不可能であったのを、炊き方次第で美味しい寿司米になってくれた。ブリュッセルに5年もいて、やはり食事には我慢が付き物だったが、今現在の「米の高騰」に比べると許せた。

やはり農水省の大臣、官僚の悪政とつるんで金儲けをたくらんできた農協が何をしてきたか聞き及ぶと、コメ不足は政治の問題であって、許せないから麺パン主義も確固たる覚悟で迎え撃つしかない。

8月に新米が出てきたら、金儲けのために「日本人の食事」を破壊した連中は損をしてでも「在庫」を出すしかないだろう。彼らが泣くのを見てから、コメは買うことにする。


視覚的記憶力について(加筆しました)(また加筆しました)

2025-06-26 23:32:46 | 絵画

視覚的記憶について、いつだか書いたことがあるが、今日のNHKのBS放送「フロンティア」で「やっぱり」と言えることがあった。

ほんの短い時間の視聴で、言葉が使えない女の子の描いた絵が「素晴らしく正確なデッサン」になっていて、まさに天才的と驚かされた内容。私がかねてより、個人的な意見として「視覚的記憶力」を鍛えることが大事だと言ってきたが、女の子のそれは「写真機で撮影された画像を再現する能力とは異なる創造性を加味したデッサン力」なのだ。医師が「言葉が使えない人の視覚的記憶力は衰えない・・・・と、認知症の老人の言葉が口に出てこなくても、視覚的記憶力はお衰えていない」という。原始時代の壁画の例を挙げて、言葉がなくても視覚的な表現で、獲物である「鹿などの動物」を洞窟の壁に僅かな松明の光で再現描写していて、その肉薄した表現力のすばらしさは美術史の中でも特筆されてきた。

以前、同じくNHKの番組で「言葉の始まり」を語るテーマで、大学で言語学を研究する教授がアルタミラやラスコーの壁画を見ても「言葉が先に出来て、絵が描かれた」という、今回の番組で証明される「言語がなくても視覚的記憶力が働いている」という証明を「真逆」に捉えた意見を言っていたのを、私は「こいつアホウだ!!」と書いた記憶がある。言語学者を名乗ると「自尊心」から、根拠のない嘘が出たのだろう。

絵を描いていると「小学生の描写力」について驚嘆してきた経験を話した。図工の時間に先生から「今回は交通安全のポスターを描いてみよう」と言われて描いた小学生のポスターが「横断歩道前に自分が乗った自転車が止まるところを描いた少年のリアルな自転車と自分の顔」の表現力に驚いて・・・・どうして、小学生はこんな絵が描けるのだろうか?」と不思議に思った。この能力は年を取ると失われて行く。

これは「描写の才能が特別身についている」ということではなく、年を得ると失われて、同じようには描けなくなることは、人の人生においてごく自然なあり様なのだから。つまり教育機関で「言葉を使って表現する」ことを常態化すると、視覚的記憶より言語中枢がより多く働いてしまうということだろう。また「絵」にすることも生活からなくなる。

一つの例として思うことは、美術史を研究している人たちが「視覚的記憶力」があるかどうかと言えば、正直言って彼らには「無い」というべきだろう。なぜなら美術館に居て、自分の部屋で「他人が書いた資料、文献を読んでいるだけだから・・・」で、展示室の美術作品を観察しにいかないのである。例えば西洋美術館の学芸員に「所蔵品のモネのこれこれの図版を略式で良いので描いてみて」と言えば、誰も無能であろう。言語が先で視覚的記憶は不得手なのだ。問題は彼らが評論原稿を頼まれると「印刷物」を見て済ますことだ。

彼らが購入作品で「偽物」を買ってしまうのが残念だ。彼らが視覚的記憶力を持ち合わせていない証拠だが、その恥ずかしさも感じないのは、日常的に「物を作る、物を見る、そして理解する」訓練がされていないから。絵画や彫刻の作者である偉大な芸術家の制作意図を理解する感性や能力が求められるのに、本来研究者として理解、認識が不十分だと気が付かないのだ。自ら作る現場を持たないのは、美術史の仕事の範疇には「言葉」しかないからだろう。

どうだろうか、言葉で絵画を説明は出来ないが、彼らの言葉を聞いて、美術作品との関係が十分に得られると思うのは、彼らの仕事が「言葉での解説」だからだろう。19世紀初頭のサロンの評論家たちの言葉は「ゴマすりや売り込み」のようであったかもしれないが、ボードレールやワイルドの作品に対する評論の挑発は、もはや「言葉の暴走」だった。これが「近現代アート」の始まりで、作者の視覚的表現から、見る側の言葉が重視されて、そこに後続の作家たちが巻き込まれて観念アートになってしまう。

こうして「言葉の世界」で支配される時代には金や政治力を使う権力者には楽しい世の中なのかもしれない。トランプがいい例だろう。彼は視覚的記憶がないことが「混乱」を招くのだ。

言葉は人間にとって「知性を発達させた原動力」であったが、言葉だけで「身の回りの理解」が十分でないことは皆分かるだろう。

貴方も「視覚的記憶力」を養ってみたら如何か!!

それには「絵を描くこと」がまず一番手っ取り早い手段だ。今。私は水産高校で非常勤教師をやているが、高校生になったばかりの一年生に「意図的に絵を描くこと」で「視覚的記憶力」を確認させている。10分見て、1分で描くように指導しているが、彼らは耳を持たないから、よく見ないで思い付きで描き始めて、小学生だったころの才能は失せた図柄になる。まず「よく見て正確に描こう」と言っても、この「正確」が分からないから、横で「ここをよく見て、こうしなさい」と言い続けて・・・・。最終的に「ぼろくそにけなすか、褒めるか」である。人間褒められると「気持ちが良くなる」らしく、描く絵も良くなっていく。この満足感は「原始的」で、脳に刺激が与えられる。目の前にある「物」が目から脳を通して、スケッチブックの紙の上に展開していくことが「視覚的記憶力」であるから、これを繰り返す。こうして「言葉で表現できないことを画像に出来るようになる」のだ。絵は言葉以上に饒舌となる。

視覚的記憶は「白い紙と鉛筆」で、紙の上に新たな世界を作り出すことが出来るようになる。それが「無いものを在るがごとき」にする「芸術」の始まりなのだ。観念アートのような「言葉」のこじつけで始まらない創造なのだ。

私が山口に引っ越せたら、新しいアトリエに絵画教室を始めて、「貴方の心を描いてみませんか」と問いかけるつもりだ。もしそれが具体的に効果を生んだら、そこが私の死に場所になるだろう。

 

 


麵パン!!麺パン!!

2025-06-16 12:57:59 | 絵画

主義を決めて、それを守り抜くのは・・・食い物のこととなると、厳しくて心が折れそう。

今日はスーパーのコメの棚を覗いてしまった。いやしき心で・・・空になった棚を覗いて、店員さんに聞いてしまった。「あれは5kgの価格ですか???」と、2千円前後の価格だが・・・売り切れ。家の米櫃に3合ほど残っているが、「もう米は食べない!!」と宣言したから、・・・・見るだけ・・・悲しい。

許さないぞ!!農林族議員!!農協たち!!コメの価格を吊り上げて利益を出し、自分たちの組織を固める者たちに「神罰」が当たりますよう!!

昨日の夕飯は食パンのトーストに「塩昆布」をパラパラ載せて食べたら、これが意外と行けて・・・美味しかった。きつね色に焼けたトーストだからこその味かも。

裁判で戦う最中だから、栄養を付けたいが・・・・準備書面提出のためにコピーを取りに行って、スーパーのコメ売り場を覗くあわれ。まあ良い。主義を決めたら守るだけだ。玉ねぎの入った野菜の揚げ物を買った。特別好きという訳ではないから、これで気分を変えられると思い込む。

麺パン主義は私だけではなかろうて。みんな農水省と農協を許すな!!


高校の美術教師とは?

2025-06-09 12:30:47 | 絵画

どこの高校も、高校教育の文科省の基準に従って、単位は週に一時間程度に定められているようで、「おまけ」の教育であることに違いない。高校教育は現在、理数系進学と文科系進学に分かれて「大学入試に特化した基準」と、あとは実業高校つまり工業高校、水産、商船高校とに分かれている。高等専門学科工、俗にいう高専は理系技術者の即戦力を送り出すという仕組みだ。

芸術系の美術や音楽の芸大・美大、音楽大学に進学することもあっても、それに特化した高校は都市部に僅かあるようだが、大学入学資格試験の基準と同等の学力を満たさねばならないから、特に地方には学校として数は増えない。

で、今私が請け負っている水産高校の美術の授業は、なにやら文科省が定めた教育内容の基準があるようで、私が山口高校の高校生であった1967~70年ごろには「教科書」もなく、まさに進学校教育の適当な一部でしかなかったが、今日は結構分厚い教科書が教科書専門の出版社である「文教出版」から古代美術から現代アートまで「網羅する?」内容で出ていて、私も今回教職(非常勤)にあたって一部もらった。

教科書通りに教えるのは「無理」!!内容は表面的で、高校生にとって面白くもなく、中には「選択制の単位」を満たすだけが目的で、もう一つあった習字の科目より、美術のほうが気が楽で「遊べる」と生徒は踏んでいる。こういう生徒が大半の私の相手なのだ。

この教科の前任者は「プロの美術教師」としてカリキュラムを作り提出している。当の私は「美術教師」としての経験がなく、何故担当することになったかというと、前任者も水産高校での立場は「非常勤教師」であって、ほかの町から通っているとか、いろいろな面倒があるだけでなく、職能内容にも完成度が作り出せなかったと推察した。だから常勤の口があればさらに遠くなっても、そちらを選んで、今の講座が空いてしまったという訳で、私が「年寄りながら」依願を受けたということだ。

という訳で、私には特別、前任者が作っていたカリキュラムなど求められなかった・・・。そこで「私のやり方」で美術を教えることが許されている。要するに東京造形大学は2年中退で海外留学してしまって、絵画修復の専門を身に着けて帰国し、フリーランスから西洋美術館に20年務めたという経験があるものの、文科省の基準にからはみ出るが、美術に関してまあ経験は充分とされたのだろう。

ここで私は自分の能力や体力から無理をしないようにしている。だから年間を通してできる「目標」はかなり絞り込んであります。

生徒にとって、一年間で会得できることとは、文教出版が作った「高校生の美術」の教科書に従うと、全く意味のない時間を過ごすことになり、人生の大事な経験を作ってあげるために至ったのは「実技重視」の時間です。

つまり教科書より、スケッチブックを配給して、「鉛筆一本で紙に表す世界」を感じ取らせることを目標にした。

しかし

選択科目で「習字」か「美術」か二つから選んできた生徒たち。つい3月まで中学生で、今どきの若者は「遊び」が大事らしい。

そこで第一時現に「ダイソーで買ってきたスプーン」を描かせた。そこで生徒の色んな性格が表れてきて、平面的に上から、横から描く者、斜めに立体的に描く者、正確さを重視する者、メチャクチャで何も出来ない者などに分かれた。教師の話など聞きはしない。最初の一時間は席についていたが、連チャンでもう一時間あると、席を立っておしゃべりなど無茶苦茶になる。教務の先生が補助に来てくれて「着席!!!!」と怒鳴ってくれて・・・やれやれだった。

こういう調子で私の非常勤教師業は始まったのだ。

実技の描写の課題は「スプーン」「鳥(想像で)」つぎは「隣に座る級友の顔」「屋外の樹木」「松ぼっくり」という具合だ。ここで私は生徒から風邪をうつされたようで、10日間」寝込んだが、ちょうど中間試験とイカ釣り実習で、美術の時間は休みとなっていたから、差しつかえなかった。風邪をひいたのは何十年かぶりで、恐怖を感じて「コロナ」かもとか考えた。

次の課題は柔らかいものと「ハンカチを持ってきて描く」ことにする。柔らかく形が一定でないところをどう捉えるか見ようと思う。難しいぞ!!