視覚的記憶力は目で見て「正確に観察できる感覚」を意味していて、我々の生活のいろんな場面で必要で、多くの人が自分の生活、仕事などに用いている。しかし美術館の学芸員でも、この感覚力を大事にしない人達がいる。そうした人たちは「言葉で解決しようとする」日常を作っている。そうした人たちばかりではないが、専門職にありながら調査研究する業務であると認識していないと、こういう人たちになる。美術作品を見ないで、資料文献に作られている「イメージの世界」を利用して充分だと思い込んでいるのだ。
特に近代・現代美術を専門としている人たちは「言葉の遊び」が多くて、原稿を書くと読む方に理解が出来ない言葉や表現様式を用いる。
西洋美術館で開催された自主展での話をします。
西洋美術館で開催される展覧会は、館員自ら企画されるとは限らず、持ち込みで多くの入館者が期待できる大衆的で知名度の高い作家の展覧会が年に3本のうち2本は義務的に企画される。残り一本は自主展と呼ばれる開催費用が安価な西洋美術館学芸員の企画で行われる。中でも担当学芸員の個性が発揮されて、「個人的感想」が特出して、私個人の感想である「近現代表現の言葉の遊び」と思う展覧会が企画された。「かたちは、うつる」と題された自主展で所蔵の版画作品から組み立てられている。この「うつる」という言葉が「ミソ」でカタログの館長「ご挨拶(当人ではなく企画学芸員が書いたと思える内容)」に・・・・。
「かたちは、うつる」と題した本展は、「うつる」という日本語に着目しています。「映る」と書けば「反射」や「投影」を、一方で「写る」とすれば「転写」や「刻印」を、さらに「移る」と記すなら、「移動」や「伝染」を意味します。けれども、これらはもとも0と「うつ(空/虚)」という語から派生した同義語の言葉であったと言われます。つまり何かが「うつる」とは「投影」や「転写」、あるいは「憑依」などによって、目に見える「イメージ」や「かたち」が生じることなのです。版画もまた、まさに「うつす」ことによって、「イメージ」や「形」を現出させ、それらを広く伝播させていく媒体でした。本展では西洋版画に刻まれた「かたち」の生成と反復、推移と変容を「うつる」という日本語とともに考えてみたいと思います。
との導入を言葉で置き換えているが、西洋美術を日本語的な観点から考えるというのは「何だろう?」と思ったものだ。
昨今の文春オンラインで「石井光太」氏の「ルポ誰が国語力を殺すのか」から紹介された記事にある、子供からの「日本人の読解力」を憂えていて、読解力以前に基礎的な能力として、「背景を理解すること」とか「自分の考えを客観視する批判的思考」が不足しているという批判に賛同する。だから自分の都合よく展開させることはご法度だと思う。特に日本語は曖昧で(日本人の思考が曖昧なのだが)具体的に論理的合理性が「意味の説明」には必要である。
この展覧会企画で「うつる」という言葉の「移る」に「まねる」という意味が取り上げられていない。絵を描く私としては、作家が絵を描くときに脳の中に記憶されたイメージが紙の上に創り出されて行くのであるから、作家個人の記憶について語られるべきで、資料文献を読んで自らの創出イメージを語ると片手落ちではないかと思う。
昔の作家は美術館のような施設がなく、様々なコレクションに触れて視覚的感性を磨き、記憶することは困難であっただろう。確かに版画が出てきた頃には、少しは単色の白黒であっても見たこともない新しい「かたち」に触れることが出来たであろう。しかしイタリアルネッサンス後期のバザーリが「マニエラ」と呼んだように、「優れた作家の作品を真似る」ことで多くの作家によって新たな作品が生まれている。この視点で企画者は見なかった。むしろ自分の個人的世界を解説に展開し「非常に困難な解説」が作り出されている。カタログの図版に用いられているのは、自分の趣旨に従うイメージの感想(例えば頭に手を当てて何語か悩んでいるようから)を受ける作品をあつめて、テーマ性に引き込んで見せる。実際は根拠に乏しい。調査研究の分野に「個人的感想」が持ち込まれて混乱する。
どちらかと言うと、東京近代美術館の展覧会のカタログ解説もこれに近いから、近代・現代向きなのだろう。
学芸員と話をすると、頻繁に資料文献が先行して・・・・作家、作品の見方、接し方の違いが現前とする。視覚的記憶力が有効に働いていないと感じるのだ。
目の前にあるものを「言葉」で、どこまで伝えられるだろうか?