河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

学生時代のデッサン 1976

2018-04-29 10:37:43 | 絵画

まる一年間、デッサンをし続けると確かに良くなってきた。与えられた45分間が有効に使えるようになってきている。デッサンする場合には必ず「まずよく観察する。10分観察して30秒間描く・・・。」といった具合だ。かつて現代美術の教育で「クロッキーで瞬間的に感性でつかむ」などということは「時間と労力の無駄だ」と書いたが、45分間で「観察の集中力を保って描く」ことで初めて「感じ取る」実力がが付くわけで、一年間実行したことは「私の宝」だ。

そして確実に描写力と早い手の動きが得られていた。一年前のデッサンと比べれば一目瞭然だ。

そもそも、こうしたデッサンの修業を厳しく自分に課せたのは、東京造形大学時代の先輩、青木敏郎氏が先にベルギーに留学していたからだ。年間千枚のデッサンを描くことや、一枚一枚を誰かが買ってくれるレベルに完成度を高めることを口にしていた。彼のゲントの下宿で男のヌードモデルを雇って、デッサンを描いたこともあった。そのデッサンは何処に行ったか分からないが、私はとにかく千枚を実現した。しかしその半数は気に入らなかったので、ニュールンベルグのゲルマン民族博物館の研修生として引っ越すことが決まって、ごみとして出したら、その何年か後にブリュッセルの泥棒市で売っていたのを見つけた。「いくらです?」と尋ねたら1000フランだという。ちょっと高すぎやしないかと思ったが・・・・まあいいか・・・とその場を離れた。

後で考えたら、やはり「へたくそも自分のうち」と教訓として残すべきであった。しかし他にも気に入らないものは、その時々によって変化し、戒めなければすべて捨ててしまうだろう。

紙が大変貴重な画材であった中世期から、画家は自分の描いたデッサンを大事にした。16世紀半ばのネーデルランド地方で猛威を振るったイコノクラスム(偶像破壊)で多くは失われたのだろうが、わずかでも残っているデッサンは、それほど作品と同じく大事にされたことを意味する。何事もデッサンで始まったと思う。紙が世間に現れて、画家の制作手法は格段に拡大したのだから。そしてデッサンは制作見本として、画家のアトリエで貯えられ、様々な制作に活用された。大きなアトリエを運営したリューベンスなど、デッサンの他、オイルスケッチと呼ばれる板に描かれた構想画がたくさん残っていた。日本画の画家たちも画帳をたくさん作って制作のモチーフにした。なにしろ画家たちは外で制作するのはデッサンやスケッチの段階で、本作はアトリエで行う「構想画」が主な手法であったからだ。

そのそもデッサンは「練習」ではなく下絵であり、制作の武器であり弾薬であった。私は学生時代のデッサンを制作の元絵にすることはないが、ブログの為に段ボールの箱から引っ張り出して、こうしてみると実物を描く下絵の必要さに気持ちを改める。

 

76年12月250x350mm ここに掲載のデッサンはすべてこの大きさ。紙はボール紙のような質の悪い安い紙だ。

鉛筆の「のりの良さ」を重視したため、更に裏面を使って描いた。40年経って紙の変色が気になる。

76年1月

76年2月

76年2月

76年2月

 

76年2月 45分ポーズでここまでしか描き切れなかった。観察に多くの時間を割いて、実際の形を理解してから鉛筆を動かすからだ。

76年4月

76年8月

76年10月まる

76年11月

この作品は77年2月とある。ブリュッセル王立古典美術館でブリューゲルの《反逆天使の墜落》の模写を終え、次にニュールンベルグ・ゲルマン民族博物館の研修が決まって引っ越す前に、王立美術館のギャラリーの中を歩きながら模写をさせてもらった一枚である。優れたデッサン家の作品を模写することは、デッサン力上達の最も早い方法である。

ホセ・デ・リベラ《聖人00?》サンギーヌ鉛筆


画学生時代のデッサン1975-76

2018-04-29 01:21:07 | 絵画

ベルギー、ブリュセル王立美術アカデミーの学生時代が私にとって最も重要な時期だったと思えるデッサンをピックアップしてみた。年間千枚のノルマを課せて、毎日、休みなく2ないし3枚を描くことにしていいた。幸い、アカデミーの授業で午前の人物画の油彩についで、午後には人体デッサンが3ポーズあった。1ポーズ45分で15分の休憩で、モデルさんは我慢強く動かなかった。週5日、私以外誰も学生が来ない日もあって、モデルは私に好みのポーズをリクエストするように言ったが、やはりモデルにとってきつい45分にならないように気を使った。

ここに揚げたデッサンは皆45分で描いたものである。紙サイズは250x350mm。紙の材質は安く手に入り、鉛筆Bか2Bが良くのるものを選んだ。しかし何十年もたつと酸化で茶褐色になり、漂白と中和が必要になっている。もっとお金があったら、中性のコットン紙の表面がざらついたものを使っただろう。

初期的には石膏デッサンの物の見方を改めることから始まった。石膏デッサンは見た目の現象を追いかける描き方だった。そうではなくて、見えるものから感じた形に作り替えることが創作であり、自分が感じ取ったものを紙の上に作り出せる能力を養うのがデッサンであった。

75年1月 自画像

75年4月 自分の手がモデルだから左手ばかり描いた。

自画像は毎日描いた。75年9月

75年10月

75年10月

全身もこもこした形に置き換えて、現象から離れるようにした。

75年7月

76年2月

線描を主体的に用いて、アクセントのような影を入れて形を感じさせるようにした。

 

 

 


構想画の始まり(作品展示3)1987年

2018-04-28 00:09:17 | 絵画

自分らしく生きることは、自分以外のものすべてとの戦いであり、融和でもある。

下の作品は1987年12月の記述が、左隅のトカゲが口にくわえる石板に描かれている。珍しく画題があって「出口を捜す卵」という題だ。82年にドイツから帰国して、修復業を模索しながらしばらく絵を描いていなかったのを再開し、なるようにしかならないと開き直った頃だ。冥府の入り口で出口を捜す自分を卵に例えて描いた。妊婦は私の欲しかったもので、その横に座る男は死神だ。

この作品は私にとっての絵画の始まりで、物としてではなく、心として描く世界が感じられるようになった記念すべき作品だ。

455x620mmシナベニヤ(フラッシュ板)に胡粉地。油彩。

 

 

 

そう言えば、もっと以前に構想画を描いたものがあって、その後の作品にも影響を与えたと言えるものがあった。

これはベルリン時代(1979年から82年春まで)の作品で完成は1979~80年頃国立絵画館で修復保存の研究生をしていたころと思う。「植物園」という題だ。真ん中の枠の部分がベるリン時代で、外の枠は帰国後が枠に入れたいが・・・・どうしょうもなく中途半端な完成度に「屋上屋を重ねる」がごとき失敗作。

340x465mm板に胡粉地、水彩絵の具に保護ニス。イギリスの有名な風景画家JMWターナーも白地に美しく映える水彩絵の具を下絵に用いて、上に油彩を重ねることをやっているが、保存上最悪な結果が起きる。水彩の具の層がぺろりと剥がれ落ちることがある・・・を私も経験した作品。油彩絵の具の美しさは違った方法で生かすべし。水彩絵の具のメディウムのアラビアゴムは何年たっても水に溶ける。湿気で緩くなって接着力が失われるのだ。ベルリン時代の下宿では臭いがする油絵の具は使わせてもらえなかった。うるさい大家に隠れるようにして、水彩絵の具で描き始めたのだった。

下の枠の内側の部分が基の絵で、200x300mm

ちまちま描く始まりで、絵画修復のリタッチのような根気がこんな絵を描かせたのだろう。確かに細かく描くには絵具が筆にまとわりつかない水性絵の具が適している。しかしメディウムがアラビアゴムでは保存に耐えない困難さが残る。ではアクリル絵の具ではどうかというと、アクリル絵の具はアセトン、トリオールなどの有機溶剤で溶解され、油絵の具のようなメディウム効果は作れないわけではないが、経年変化の結果が見えない。

 


作品展示2 1988年

2018-04-09 23:59:54 | 絵画

1988年作《自画像》F20号カンヴァスに油彩。当時私はフリーの修復家で、日ごろから自由な制作時間が取れなかった頃に、ストレス解消に描いた作品。カンヴァスの目をつぶして平らにするためにチタニウムホワイトの地塗りをペインティングナイフで施してあります。

シルバーホワイトは健康のために地塗りの様に、後で磨いて粉が呼気に入るような恐れがある場合には用いない方がよいでしょう。昔は何も知らずやってましたが、修復保存学で学んで絵具の毒性は気にするようになりました。皆さんも気を付けた方が良いです。EC圏ではヴァーミリオン(硫化水銀から作る)が製造禁止になりました。

グレーを基調としたモノトーンで描き始めると、イマージを展開するのは簡単ですが、色彩を加えるのが難しくなり苦労しました。そのぶん完成度は落ちました。


最近作の展示

2018-04-09 00:54:50 | 絵画

全く申し訳ない話、これまで文章ばかりで、自身の作品については、お見せすることがなく申し訳なく思っていたけれど、何とか撮影して、このブログに挿入することが出来たので、公開します。縦80cmx横60cm、板に胡粉地、油彩 最終的題名はありませんが、観ての通り「森の死」とでもしておきましょうか。白い部分は地のままです。制作工程10のうち3程度でしょうか。最終的仕上がりは細かく細部に質感を与えるところまで描き込みます。しかしもっと早く仕上げられる能力が求められます。

素地(基底材とか言う人もいるけど、紙素地、木素地、金属素地などという方が合理的と思う。基底材は建築などに使う。)はランバコア15mm厚、裏表に膠、胡粉地を施している。それほど徹底的に平滑に磨かないで描く。描く前に気川の目止め、亜麻仁油をテレピン精油で10%に割ったもので吸い込み止め。マス目を入れて下絵のペン画をフリーに線描で写してから彩色を始める。

製作途中です。写真写りも今一。色も再現が悪いです。

両方とも向かって左下部分です。

下の作品は同じ構図ですが、別作品で、かつて Le cirage という題で紹介した作法で描いています。

寸法は同寸、胡粉地に卵黄テンペラ、イェローオーカー、ブラウンオーカー、ロウアンバーの三色。何故同じ構図を二点描くのかといわれると困るけれど、これ以外に元絵となるペン画のデッサンに当たるものがあり、デッサンの描写の新鮮さを思い出すために、そちらを参考にしながら描いてみることで、新しい感性が得られないか試しているところです。テンペラ絵具は水性ですので、少しづつ濃くしていくしか方法がありません。こうしたモノクロ状態で描くことで、ヴァルール(明暗)の雰囲気に快感を覚えますが、徐々に細密にするには、困難が待ち受けていると言えるでしょう。しかし描画プロセスが常に成功を導くとは言えない移り気が必ず起きるので、それも制作の楽しみかも知れません。

 

油彩画と何となく細分が異なるのが分かるでしょうか?

 

上に掲載したペン画は油彩画などに起こしている原画です。ケント紙に黒インクで描いています。260mmx365mm

この原画は2007年に制作したもので、職場からくたびれて帰宅して、気慰みに少しづつ描き込んだものですが。このような構想画は最初から完成イメージがあるわけではなく、思いつくまま空間を埋めていくのですが、評論家が言うような思い付きは潜在意識ではありません。感覚的経験から記憶しているものを繰り返し描き入れているのです。

他の作品が出来上がると紹介します。それを見れば絵を描く者が視覚的記憶に頼っていることが分かります。

ペンで描いた原画の方が生き生きしているのが分かるでしょう。ピントが今一なのが申し訳ありませんが、キヤノンEOSでオート撮影、LED照明のせいです。

順次、昔描いた作品の撮影が出来次第掲載します。