キ上の空論

小説もどきや日常などの雑文・覚え書きです。

告げ口

2006年12月20日 | みるいら
 電話口の兄さんの言葉はやけに歯切れが悪い。
 レポートを書く手が留守になっているのは、盗み聞きのためではなく、単に書くことを思いつかないからだ。
 哲学は男の学問だとか言った人がいたけど、嘘っぱちなんじゃなかろうか。石飛に「イデア論て、分子の構造図を思い出さない?」と言われたとき、ぼくは彼女の思考回路を本気で疑った。何語で話しかけられたかわからなかった。多分、高校で化学は習わなかったせいだと思う。思うことにした。
「実鳥」
 突然呼ばれて顔を上げると、兄さんが手招きしている。
 仕方なくこたつを出て、受話器を受け取る。
 電話は河合さんからだった。どうして歯切れが悪かったのか、なんとなくわかった。
 近況と、今レポートに詰まっていることを伝えると、
「そんな風に悩めるのは学生のうちだけだからね」笑っているのが伝わって来るような声だ。
 それから「なんだか決まり文句みたいだけど」と言い添えた。
 ぼくが鼻をすすったのに気づいたのか、「風邪かい?」と問う。
 河合さんの声を聞いていると何だか安心する。
「寒いだけです。エアコンないんで」
 兄さんがハッとぼくの方を向いたのが気配でわかった。
 ごめん、もう言っちゃった。

 二つの部屋両方にエアコンが設置されたのは、その翌日。
 河合さん、行動が早すぎ。でも、ありがとう。


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2007年1月10日ジャンルを変更。
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身も蓋もない

2006年12月16日 | みるいら
 風呂上がりに急いで寝間着を着て、こたつに潜り込む。ついさっき浮かんだレポートの続きを書き込むべく向きを変えて、筆記具を引き寄せる。
 できればこたつからは出たくない。
 夕食後の片づけをして、机を拭く兄さんは素足だ。
「足、寒くないの?」
 見ているだけで寒い。
「寒いよ」
 のんびりと返る。それほど気にしている様子もない。
 机を拭いた台ふきんをそのまま流しに持ってゆく。この部屋は畳だけど、台所は板張りだ。
 夏は扇風機、冬はこたつ。
 兄さんは、ぐうたら学生のぼくと違って、一日のほとんどが仕事で、この家(下宿だから〔部屋〕の方が正しいかも)に用事があるのは朝食と夕食と就寝のときだけだ。
 だからって。
「何でここエアコンないの?」
 レポートに書く内容を忘れた腹いせのように言うと、兄さんはちょっと考えたあと、やっぱり何でもないように答えた。
「貧乏だから」
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ひとり

2006年12月10日 | みるいら
 一人暮らしをはじめてすぐ、思ったより家事能力がない自分に気がついた。
 大学がそれほど家から遠くないのに家を出たのは、何となく家にいる気がしなかったからだ。少しでも自立したいとか、一人暮らしがしてみたかったとか、前向きな理由はなかった。家にいても、下宿にいても、一人でいる感じは全く変わらない。
 家事は少しずつ覚えて、少しずつ慣れた。大して楽しくもなかった。
 GWも、夏休みも、バイトを入れて家には帰らなかった。もともと連絡もそう来なかったし、こっちから連絡を入れることもない。
 母はぼくに興味がなかったし、ぼくは母に干渉しないでいれば楽だと分かって以来、話しかけることもあまりない。存在を主張するとうるさそうにされるので、お互いに関わらない方がいいと思うようになった。
 類は一回りも年が違うこともあって、一緒に遊んだ記憶もない。
 父は家に帰ってくることもそうなかった。たまに帰ってきてなんやかや人の進路のことだとか、成績のことだとか、言っていたけど。ぼくはいつも通り「はい」と返事だけして聞いていなかった。進学先が勝手に決まっていたのは、多分父の影響だろうけど、他人事みたいに思っていた。
 家族よりも、ときどき親戚の集まりに来る河合さんの方が、よほど親しみがわくのは、普通だったら「どうかしている」と言われるようなことだろう。
 幼い頃、ぼくは河合さんに「お父さんが河合さんみたいな人だったら良かった」と言ったらしい。河合さんは苦笑いして「ありがとう」と応じた。その声が優しかったので、苦笑いの意味を考えなかったのだけれど。
 大学に通い始めて二年目の冬、河合さんから手紙が届いた。
「成人おめでとう」
 達筆で、そう始まっていた。入学式もさぼった(でもオリエンテーションには出たから困らなかった)ぼくが成人式に行こうと思ったのは、このハガキのせいだ。
 結構、現金だな。
 入学式に着そこなったスーツをみて、ぼくも苦笑いしてみた。
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2006年12月07日 | みるいら
 そういえば。
「兄さん、『エースをねらえ!』はどうだった?」
 ぼくがぐうたら二度寝をしている間に、朝食と伝言と、きっちりそろえた漫画単行本を置いて、兄さんは出勤してしまった。
 というわけで、今は遅い夕食を作っている兄さんに聞いている。
 こういうのは気がついたときに聞かないと、絶対に忘れる。
「宗方コーチの謎が解けた」
 だし汁の味見をしたあと、鍋にふたをする。
「謎?」
「うん」
 兄さんはそれ以上何も言わなかった。
 ぼくには、兄さんの謎は増えるばかりだ。

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12月13日訂正。「文庫」を「単行本」に修正しました。設定年考えたら、多分、まだ文庫版は出ていなかったかと思いましたので。

『エースをねらえ!』集英社公式サイトはこちら
※FLASHから始まりますのでご注意ください
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伝説の先輩

2006年12月04日 | みるいら
「ヒモリ?」
 不意に呼びかけられて、ぼくは思わずその人を怪訝そうにみた。
 年上かな。社会人っぽい。
「すみません、人違いでした」
 その人はそう言って、軽く頭を下げたあと、多分元々みていただろう棚の方へと歩いていった。
 ヒモリ。
 聞き覚えのある名前だと思った。確か、高校の頃、誰かから聞いた名前だ。
 似てない? いや、でも似てる? と、くだんの棚の方からブツブツ言う声。
 自分でも何の気まぐれかと思ったけど、話しかけてみることにした。
 思い出せそうで思い出せない名前が、何だか気になる。
 ヒモリ。漢字だと桧森なのかな。それとも違う字かな。いまいちピンと来ない。
 高校の名前を挙げて尋ねると、ヒモリは高校の同級生だと答えた。それからその人は、アンドウと名乗った。安藤さんかな。
 それからヒモリは桧森ではなく、
「灯台守から台を取っ払って。ヒモリって読めるから、そう呼んでた」
 そう言われても、頭の中でうまく漢字に変換できなかった。ずっとカタカナのように思ってきたからかな。
 安藤さんは、目的の本を数冊手に取りながら、軽く説明してくれた。
 聞いているうちに、ぼくはぼくで、その名前に付随する〈伝説〉を思い出していた。
 ヒモリという人とぼくは、通りすがりの人に間違えられるくらいに似ているのかな?
 安藤さんは少し考えてから、「似てない」と断言した。間違えておいて、それはない。
 ところで、とぼくの名前を聞く。
 ぼくが名乗ると、安藤さんは目を丸くしたあと、笑い出した。そしてそのまま、ハテナに捕まっているぼくを置き去りにして
「それじゃ、君の兄さんによろしく」
 とレジへ去っていった。
 どっちの兄ですか、と聞く暇はなかった。
 どっちの兄ですか、安藤さん。
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