昨日、手紙についての感想を書いていて色々と思うところがあり
新しいカテゴリー作ってブログに綴っていこうかな・・・なんて思ってみた。
(続くかどうかわかんないけど・・・とりあえず
)
昨日の『手紙』でも問題になった【差別】について・・・
感想を書きながら、そして書き終わった後も色々考えてて
思い出した事なんかもあって・・・
うちの息子の小学校時代の同級生に、
生まれつき右手に障害のあるお友達がいました。
仮にその子の事をA君と呼ぶ事にしましょう。
初めての参観日の日、普段接する事のない障害を持つ子供を目にし、
正直ビックリしました。
五体満足に元気に生まれてくる事が『当たり前』だと
思っていた自分がいました。
A君の事はもちろん、他の子の事もまだ何も知らない時でした。
小さな小学校ですから、学校へ行くたびその子達と接する機会も多く、
子供達も各親の顔を覚え、私自身も子供達の顔を覚えていきます。
そのうちにA君とうちの息子もお互いの家に泊まりに行くような
仲良しさんになって行きました。
そして、いつの間にかその子が障害を持つ子だということを
すっかり忘れている自分がいました。
・・・というか、クラス中の子供達が、A君のことを障害児だと
思っていないんですね。
障害があるという事実は変えることができません。
障害があることによって、物理的に無理な事も当然出てきます。
しかし、それをクラス全員が上手にカバーしてるんですね~
そんなある日、事件(というほどのものではないのですが)が起きました。
ある女の子がA君に向かって言いました。
『○○、これ出来んやろ?あっち行っちょき(山口弁丸出し
)』
それに対して先生が窘めました・・・
『□□さん、そんな事言ってはダメでしょ!!!』
訳が分からず女の子は泣き出してしまいました。
なぜ窘められたのか分からないのです。
先生は、障害のある子供に対して、そういう差別的なことを言っては
ダメじゃないかと窘めたかったのでしょう・・・
しかし違うのです。
その時既に、子供達の中でクラス全員の役割が出来上がってるのです。
暗黙の了解というものでしょうか?
その時はたまたまA君には無理な事が生じたから
それを補うために別の子が私がやるからあっちに行ってて良いよ・・・
というごくごく自然な流れであったし、言われた側も
それを『差別』として捕らえてはいなかったはずの
ごくごく日常的な場面だったのです。
さて、ここで疑問です。
本当に差別をしていたのは誰なんでしょうか???
往々にしてありうる場面です。
たとえばそれが障害者に向けられた言葉ではなく
ただ単に怪我をしたために手が使えなかった人物に
向けられた言葉であったなら、先生は注意したでしょうか?
細かく言うなれば『かわいそう』と思う事自体
差別に値するのかもしれません・・・
でも、人と違うところがあれば、それに対して
人は何らかの感想を持ってしまうのは仕方のないことです。
それを差別と呼ぶならば、差別をしない人は世の中にはいないし、
差別をなくそうと叫んだところで無くなるはずはありません。
それでは、どこからが『差別』でどこまでは
それではないのでしょうか???
とっても難しい事だと思います。
ある人に言われてもなんとも思わない一言が
別の人に言われるととても悔しく悲しい一言に
変わってしまう事もあります。
親切心でいった言葉(あるいは行動)が
相手に対しては不快極まりない事になる事が無いとは言えません。
あるいは自分より優れた人物の事を『凄い
』と思い
「この人は特別に恵まれているから・・・私たちとは違うから」
と思う事はどうなのでしょう?
こういった現実を踏まえて、先生方は指導しているのでしょうか?
何を基準に『差別はいけない』って言っているのでしょうか・・・
自分も含めて考えなければいけないことなのかもしれない・・・
人は千差万別・・・全く同じ人間なんていません。
自分とは違うものを見たとき、驚き、時には逃げ腰になる事もあります。
それを全て差別だから悪いと一括りにしてしまっていいのでしょうか?
だって、それをしない人は居るのでしょうか???
問題はその後なのではないかと考えます。
その『違い』を認められるか認められないか・・・
それでは認められない人は全て悪いのでしょうか???
それもその人の個性です・・・
人には合う合わないもあるでしょう・・・
・・・と考えていくと堂々巡りになってしまうのですが
そんな事を考えているうち、何がなんだか分からなくなってきてしまった
みゅうなのでした・・・
でも、こうやって考える事は悪い事じゃないよね?