
"I felt like angels were lifting me and spinning me round" --Brian Boitano
「まるで天使が僕を引き上げ、スピンを舞わせてくれているかのようだった」--ブライアン・ボイタノ
この程、国際スケート連盟は三回転半以上のジャンプの基礎点を引き上げるルール改定を決めた。四回転サルコーの基礎点は9.5点から10.3点に変更されるが、失敗した時の減点は従来より大きくなる。このことは安藤美姫選手にとって果たして追い風になるのであろうか。
女子では四回転は安藤選手だけが手にしている宝刀であるが、それは彼女に深手を負わせる危険のある諸刃の剣でもある。肩の故障だけではなく、左足ふくらはぎの肉離れ等相次ぐ怪我に見舞われた安藤選手の一年を振り返ると、「四回転は自分にとってライバル」とかつて彼女が語った言葉の真意が汲み取れる。精根尽き果てるまでの四回転の練習が彼女の体を傷つけるだけではなく、その心までも苦しめることがあるならば堪らなく切ない。
「四回転」という至宝が、それなくしては表現出来ない時の為に使われるのならば、その宝を磨く価値もあるだろうが、そうでなければ、美しい大人の女性になった安藤選手にただそれだけを求めるのは酷ではなかろうかという気がする。演技表現と係わりなく、高得点の獲得の為だけに「四回転」にこだわり、そのことが繊細な彼女の心を惑わせ、悩ませ、最終的には演技そのものまで崩れていくようであれば本末転倒ではないかとさえ思えてくる。但し、これはあくまで、アスリートの本質を理解し得ない私の個人的な感想である。アスリートならば、多少の怪我や苦しみは付き物で、それを乗り越え、あるいは抱えた上で、たゆまず、限界にチャレンジし続けることにこそ価値があると考える人もいることだろう。
私自身は首尾一貫して、安藤美姫選手を優しい眼差しで見守ってきたので、「四回転」についてはもうこれ以上立ち入らない。只敢えて、私の言葉で表現するならば、「四回転」が「悪魔の誘惑」のように彼女につきまとい、彼女を苦しめるのではなく、それが「天使からの授かり物」として、まさにここぞという時に、彼女の内に宿り、力を発揮し、氷上で眩しい輝きを放つようにと祈るばかりである。
それに私は、安藤選手の持ち味は華麗なジャンプだけではなく、むしろ内面から沸き起こる豊かな情感が迸る表現にあると繰り返し語ってきた。銀盤はジャンプの為だけにあるのではなく、情念や思索を刻む舞台でもある。また銀盤は深い心の湖を映し出す鏡でもある。時には、選手の全人生が銀盤という鏡に走馬灯の如く、映し出されることもある。
カタリナ・ヴィットが「花はどこへ行った」でみせた兵士のステップは、戦禍で荒廃したサラエボの街を踏みにじる足であるとともに、彼女自身の心を踏みにじった人間のステップのようでもあった。力強く真直ぐに掲げる脚の動きに、彼女の凄まじい憤りが滲み出ているように思えた。安藤選手が2006年のアメリカ杯でみせた狂おしいステップ・シークエンスは彼女自身が今まで歩んできた一途な人生の道筋と重なった。それは秘かに忍んだ苦悩の痕跡をかき消すかのような激しいステップだった。選手の内面や人生がその演技に反映されるからこそ、私達は胸が熱くなり、涙を流す。
新採点法のルールが何度改定されようとも、それに打ち勝つ魂の表現が続くことを私は願っている。
得点や順位は忘れても、美しいものは忘れない。
二十年の歳月を経ても、カタリナ・ヴィットの「カルメン」を鮮明に覚えていたように、私は二十年後も、大阪の地に降り立った安藤美姫の「カルメン」を決して忘れることはないだろう。
そして、タンスマンの協奏曲を聞けば、その優しい音色と溶け合い、響き合っていた16才の美しい少女の姿を思い出し、その面影を懐かしくいとおしむことだろう。
「まるで天使が僕を引き上げ、スピンを舞わせてくれているかのようだった」--ブライアン・ボイタノ
この程、国際スケート連盟は三回転半以上のジャンプの基礎点を引き上げるルール改定を決めた。四回転サルコーの基礎点は9.5点から10.3点に変更されるが、失敗した時の減点は従来より大きくなる。このことは安藤美姫選手にとって果たして追い風になるのであろうか。
女子では四回転は安藤選手だけが手にしている宝刀であるが、それは彼女に深手を負わせる危険のある諸刃の剣でもある。肩の故障だけではなく、左足ふくらはぎの肉離れ等相次ぐ怪我に見舞われた安藤選手の一年を振り返ると、「四回転は自分にとってライバル」とかつて彼女が語った言葉の真意が汲み取れる。精根尽き果てるまでの四回転の練習が彼女の体を傷つけるだけではなく、その心までも苦しめることがあるならば堪らなく切ない。
「四回転」という至宝が、それなくしては表現出来ない時の為に使われるのならば、その宝を磨く価値もあるだろうが、そうでなければ、美しい大人の女性になった安藤選手にただそれだけを求めるのは酷ではなかろうかという気がする。演技表現と係わりなく、高得点の獲得の為だけに「四回転」にこだわり、そのことが繊細な彼女の心を惑わせ、悩ませ、最終的には演技そのものまで崩れていくようであれば本末転倒ではないかとさえ思えてくる。但し、これはあくまで、アスリートの本質を理解し得ない私の個人的な感想である。アスリートならば、多少の怪我や苦しみは付き物で、それを乗り越え、あるいは抱えた上で、たゆまず、限界にチャレンジし続けることにこそ価値があると考える人もいることだろう。
私自身は首尾一貫して、安藤美姫選手を優しい眼差しで見守ってきたので、「四回転」についてはもうこれ以上立ち入らない。只敢えて、私の言葉で表現するならば、「四回転」が「悪魔の誘惑」のように彼女につきまとい、彼女を苦しめるのではなく、それが「天使からの授かり物」として、まさにここぞという時に、彼女の内に宿り、力を発揮し、氷上で眩しい輝きを放つようにと祈るばかりである。

それに私は、安藤選手の持ち味は華麗なジャンプだけではなく、むしろ内面から沸き起こる豊かな情感が迸る表現にあると繰り返し語ってきた。銀盤はジャンプの為だけにあるのではなく、情念や思索を刻む舞台でもある。また銀盤は深い心の湖を映し出す鏡でもある。時には、選手の全人生が銀盤という鏡に走馬灯の如く、映し出されることもある。
カタリナ・ヴィットが「花はどこへ行った」でみせた兵士のステップは、戦禍で荒廃したサラエボの街を踏みにじる足であるとともに、彼女自身の心を踏みにじった人間のステップのようでもあった。力強く真直ぐに掲げる脚の動きに、彼女の凄まじい憤りが滲み出ているように思えた。安藤選手が2006年のアメリカ杯でみせた狂おしいステップ・シークエンスは彼女自身が今まで歩んできた一途な人生の道筋と重なった。それは秘かに忍んだ苦悩の痕跡をかき消すかのような激しいステップだった。選手の内面や人生がその演技に反映されるからこそ、私達は胸が熱くなり、涙を流す。
新採点法のルールが何度改定されようとも、それに打ち勝つ魂の表現が続くことを私は願っている。

得点や順位は忘れても、美しいものは忘れない。


