11/28の日本経済新聞の記事です。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27021_Y3A121C1000000/
「1票の格差」が最大4.77倍だった7月の参院選を巡り、升永英俊弁護士らのグループが岡山選挙区の選挙無効(やり直し)を求めた訴訟の判決で、広島高裁岡山支部(片野悟好裁判長)は28日、選挙区の定数配分は「違憲」と判断し、同選挙区の選挙結果を無効とした。参院選の1票の格差を巡る訴訟で、選挙無効を命じる判決は初めて。
昨年の衆院選を巡っても同じような訴訟が各地で引き起こされ、「違憲」とする判決が相次ぎ、さらには選挙無効であるとする判決もありました。
テレビのコメンテーターは、このままでは、民主主義に反し、憲法に定める法の下の「平等」に反するので、判決に従って一刻も早い是正をしなければならない、などとしたり顔でコメントをしています。
あまつさえ参議院はいらない、廃止して一院制にすべきだ、との声も聞こえますがこんなものは物を知らないか何も考えていないかどちらかしかありません。
そもそも民主主義は、自由と平等という思想から生まれた多数決による意思決定のシステムです。
大多数が間違いを犯すときには、当然に間違った意思決定がなされるわけであって、民主主義が正しく機能するための前提として「成熟した国民が存在すること」が不可欠です。
民主主義そのものが崇高な思想をそのうちに含んでいるわけではなく、いわゆる「世論」に流されやすいシステムが民主主義だと言えるのです。
健全な民主主義が達成されるかどうかは国民のレベル次第で、国民が成熟していない場合、民主主義はしばしば暴走します。
民主主義=世論が暴走した最近の事例は、マスコミに政権交代を煽られ、民主党の甘言に騙され、熱狂した国民があのおぞましい民主党政権を生み出してしまった事だと思います。
なお、マスコミを中心とした世論(すなわち一番パワーを持った世論)は熱しやすく冷めやすく、反省もしません。
今回の特定秘密法案を巡って、尖閣諸島漁船追突ビデオ流失事件の際には、あんなに流失したことを問題だと騒いでいたマスコミが、今回は一転して「知る権利ガー」などと必死になっている姿を見ると、このことがよくわかります。
こうした「民主主義=世論の暴走」を食い止めるために、2院制とし、衆議院で可決通過した法案をもう一度参議院で審議する機会が必要なのです。
さらに参議院は「良識の府」とも言われますが、それは良識に基づき中立で公正な審議をする場を設けることを目的とし、衆議院とは違い解散がなく、6年間という長期間の任期を与えられ、長期的な視野で審議・調査ができるという大事な役割があるからです。
少し考えればわかる事なのに、ちょっとしたきっかけで暴走しかねない民主主義というシステムを金科玉条のように扱い、まるで絶対的な正義であるかのように信じ込んでいる今の世論は想像力に欠け、思考が停止していると言えます。
ちなみに戦後、日本国憲法が公布された1947年に、当時の文部省から新生中学校に社会科の教科書として配布された「あたらしい憲法のはなし」という日本国憲法の解説本(「あたらしい憲法のはなし」は、iTunesやkindleなどの電子書籍で全文無料でダウンロードできます。)に「民主主義とは」という章があり、こう書かれています。
「おおぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおおぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおおぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。」
悪夢のような3年半の民主党政権を経験した現代の我々に、果たしてこの言葉は素直に受け入れられるものでしょうか?
そう考えると、この「民衆権力制度」とも言える、民主主義の前提となっている「自由と平等」という思想も、よほど注意して取り扱わないと利己的で功利的となり、行き過ぎると単なる個人主義となりかねません。
学校などに対して自己中心ともいえる理不尽な要求をする親達を指すモンスターペアレントなどは正にこの代表格とも言えます。
マスコミ報道では、彼らを変わった、困った親だという文脈で整理していますが、戦後教育で義務を教えず「自由平等」に基づく権利ばかりを強調した教育を受けた世代が親になっただけだと思います。
しかし、もともと日本では自由平等がこうした側面持ち合わせていることを暗黙のうちに皆が理解している国柄でした。
例えば「自由人」という言葉の響きに、崇高で高貴な印象を持つ人は少ないと思います。
それどころかなにか身勝手な振る舞いをしそうな印象を持つ人がほんとんどでしょう。少なくとも、今のところは、他人を称賛する時に使う言葉ではありません。
また、今回の一票の格差問題の発端は「法の下での平等に反する。」という事でしたが、これを違う言葉に置き換えると「人が少ない地方を切り捨てよ。」と言っていることと同じです。
たまたま人が多く住んでいるからと言って、その数を頼りに意見を押し通す、という行為は「弱きを助け強きをくじく」を美徳としてきた国柄の発想とは思えません。単なる数の暴力につながる発想だと思います。
「地方の自己責任だ。地方が努力をしなかったから経済的に発展せず、いつまでたっても人口が増えないんだ。」と主張する市場経済至上主義の方にはわからないかもしれませんが、都会に住んでる人がそんなに優れているんでしょうか。
もちろん何をもって人の優劣を判断するかは難しい問題ですが、地方に住みその地域を支えているという事は、むしろ敬意を払うべきことではないでしょうか。
誰が瑞穂の国を支えているのでしょうか。
なお、アメリカでは下院は1.85倍となっていますが、日本の参議院にあたる上院では一票の最大格差は約67倍となっています。
アメリカの各州における上院の定員が州の人口に拘らず、2名と決まっているからです。
上院は各州の代表としての顔があるため(下院は国民の代表)、各州の人口だけで単純に議員の定数を決めてしまって各州間の不公平が生じるのを防ぐためです。
もちろん、自由・平等は大事なものです。
何もないがしろにしたいわけではなく、自由・平等が常に一番最上位にくるものではない、という事を言いたいのです。
自由平等主義が生み出すもの、たとえば経済政策で言えば、新自由主義に基づく市場自由化・公共インフラの民営化・関税や規制を撤廃し自由貿易主義を掲げるTPP・その他の規制改革,構造改革などといった類のものは、本当に正しいものなのか疑ってかからないといけないものばかりだと思います。
自由平等を主張するが余りに、利己的になり、自分の利益を得ることばかり主張しているように思いませんか?そこに公の気持ちは含まれているのでしょうか。
特にTPPについては、賛成者の理由が、「アジアの成長を取り込む」というソフト帝国主義っぽい言い方も気にいりません。
「日本がアジアに貢献していくために参加するんです。」と言われたほうがまだ納得できますが、そうした論調で語られているのを見たことがありません。
こうした思想にとことんまで染まる事が、取り戻すべき日本の姿なのでしょうか?
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27021_Y3A121C1000000/
「1票の格差」が最大4.77倍だった7月の参院選を巡り、升永英俊弁護士らのグループが岡山選挙区の選挙無効(やり直し)を求めた訴訟の判決で、広島高裁岡山支部(片野悟好裁判長)は28日、選挙区の定数配分は「違憲」と判断し、同選挙区の選挙結果を無効とした。参院選の1票の格差を巡る訴訟で、選挙無効を命じる判決は初めて。
昨年の衆院選を巡っても同じような訴訟が各地で引き起こされ、「違憲」とする判決が相次ぎ、さらには選挙無効であるとする判決もありました。
テレビのコメンテーターは、このままでは、民主主義に反し、憲法に定める法の下の「平等」に反するので、判決に従って一刻も早い是正をしなければならない、などとしたり顔でコメントをしています。
あまつさえ参議院はいらない、廃止して一院制にすべきだ、との声も聞こえますがこんなものは物を知らないか何も考えていないかどちらかしかありません。
そもそも民主主義は、自由と平等という思想から生まれた多数決による意思決定のシステムです。
大多数が間違いを犯すときには、当然に間違った意思決定がなされるわけであって、民主主義が正しく機能するための前提として「成熟した国民が存在すること」が不可欠です。
民主主義そのものが崇高な思想をそのうちに含んでいるわけではなく、いわゆる「世論」に流されやすいシステムが民主主義だと言えるのです。
健全な民主主義が達成されるかどうかは国民のレベル次第で、国民が成熟していない場合、民主主義はしばしば暴走します。
民主主義=世論が暴走した最近の事例は、マスコミに政権交代を煽られ、民主党の甘言に騙され、熱狂した国民があのおぞましい民主党政権を生み出してしまった事だと思います。
なお、マスコミを中心とした世論(すなわち一番パワーを持った世論)は熱しやすく冷めやすく、反省もしません。
今回の特定秘密法案を巡って、尖閣諸島漁船追突ビデオ流失事件の際には、あんなに流失したことを問題だと騒いでいたマスコミが、今回は一転して「知る権利ガー」などと必死になっている姿を見ると、このことがよくわかります。
こうした「民主主義=世論の暴走」を食い止めるために、2院制とし、衆議院で可決通過した法案をもう一度参議院で審議する機会が必要なのです。
さらに参議院は「良識の府」とも言われますが、それは良識に基づき中立で公正な審議をする場を設けることを目的とし、衆議院とは違い解散がなく、6年間という長期間の任期を与えられ、長期的な視野で審議・調査ができるという大事な役割があるからです。
少し考えればわかる事なのに、ちょっとしたきっかけで暴走しかねない民主主義というシステムを金科玉条のように扱い、まるで絶対的な正義であるかのように信じ込んでいる今の世論は想像力に欠け、思考が停止していると言えます。
ちなみに戦後、日本国憲法が公布された1947年に、当時の文部省から新生中学校に社会科の教科書として配布された「あたらしい憲法のはなし」という日本国憲法の解説本(「あたらしい憲法のはなし」は、iTunesやkindleなどの電子書籍で全文無料でダウンロードできます。)に「民主主義とは」という章があり、こう書かれています。
「おおぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおおぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおおぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。」
悪夢のような3年半の民主党政権を経験した現代の我々に、果たしてこの言葉は素直に受け入れられるものでしょうか?
そう考えると、この「民衆権力制度」とも言える、民主主義の前提となっている「自由と平等」という思想も、よほど注意して取り扱わないと利己的で功利的となり、行き過ぎると単なる個人主義となりかねません。
学校などに対して自己中心ともいえる理不尽な要求をする親達を指すモンスターペアレントなどは正にこの代表格とも言えます。
マスコミ報道では、彼らを変わった、困った親だという文脈で整理していますが、戦後教育で義務を教えず「自由平等」に基づく権利ばかりを強調した教育を受けた世代が親になっただけだと思います。
しかし、もともと日本では自由平等がこうした側面持ち合わせていることを暗黙のうちに皆が理解している国柄でした。
例えば「自由人」という言葉の響きに、崇高で高貴な印象を持つ人は少ないと思います。
それどころかなにか身勝手な振る舞いをしそうな印象を持つ人がほんとんどでしょう。少なくとも、今のところは、他人を称賛する時に使う言葉ではありません。
また、今回の一票の格差問題の発端は「法の下での平等に反する。」という事でしたが、これを違う言葉に置き換えると「人が少ない地方を切り捨てよ。」と言っていることと同じです。
たまたま人が多く住んでいるからと言って、その数を頼りに意見を押し通す、という行為は「弱きを助け強きをくじく」を美徳としてきた国柄の発想とは思えません。単なる数の暴力につながる発想だと思います。
「地方の自己責任だ。地方が努力をしなかったから経済的に発展せず、いつまでたっても人口が増えないんだ。」と主張する市場経済至上主義の方にはわからないかもしれませんが、都会に住んでる人がそんなに優れているんでしょうか。
もちろん何をもって人の優劣を判断するかは難しい問題ですが、地方に住みその地域を支えているという事は、むしろ敬意を払うべきことではないでしょうか。
誰が瑞穂の国を支えているのでしょうか。
なお、アメリカでは下院は1.85倍となっていますが、日本の参議院にあたる上院では一票の最大格差は約67倍となっています。
アメリカの各州における上院の定員が州の人口に拘らず、2名と決まっているからです。
上院は各州の代表としての顔があるため(下院は国民の代表)、各州の人口だけで単純に議員の定数を決めてしまって各州間の不公平が生じるのを防ぐためです。
もちろん、自由・平等は大事なものです。
何もないがしろにしたいわけではなく、自由・平等が常に一番最上位にくるものではない、という事を言いたいのです。
自由平等主義が生み出すもの、たとえば経済政策で言えば、新自由主義に基づく市場自由化・公共インフラの民営化・関税や規制を撤廃し自由貿易主義を掲げるTPP・その他の規制改革,構造改革などといった類のものは、本当に正しいものなのか疑ってかからないといけないものばかりだと思います。
自由平等を主張するが余りに、利己的になり、自分の利益を得ることばかり主張しているように思いませんか?そこに公の気持ちは含まれているのでしょうか。
特にTPPについては、賛成者の理由が、「アジアの成長を取り込む」というソフト帝国主義っぽい言い方も気にいりません。
「日本がアジアに貢献していくために参加するんです。」と言われたほうがまだ納得できますが、そうした論調で語られているのを見たことがありません。
こうした思想にとことんまで染まる事が、取り戻すべき日本の姿なのでしょうか?