特攻を美化することは軍部と同罪なのか?
『特攻70年:「神風」犠牲4000人 9機に1機だった命中率』10月24日 毎日新聞
http://sp.mainichi.jp/feature/news/20141024mog00m040005000c.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
この記事でも伝えられているように、ちょうど70年前の1944年10月25日、神風特別攻撃隊がフィリピン沖で米海軍の艦艇に初めて特攻をしました。
記事では、特攻隊は「9機に1機の命中率」であったため、「特攻は日本の恥部。美化することは、それを命じた軍当局と変わらない。」と伝え、また命中率の低い特攻は非合理で無謀な作戦であり、この作戦を美化し肯定することは再び同じような作戦が繰り返されることになる。特攻隊を美化してはならないと主張しています。しかし私はこの考えには全く賛同出来ません。
そもそもこの記事で多用されている「美化」という言葉使い自体がおかしいと思います。
恐らく靖国神社へ参拝している人々などを指しているのでしょうが、彼らは特攻という「作戦」そのものに賛同して参拝しているのではなく、特攻隊の自己犠牲の「行為」に何かを感じずにいられず参拝していることは、常識を少し働かせれば直ぐにわかる事です。
「特攻は素晴らしい作戦だった。もっとやるべきだった。もう一度やろう。」と言う人を私は寡聞にして知りません。
そしてむしろ、英霊に感謝の念を抱く人々ほど、彼らの不可逆的な悲運に対して憤りやある種の申し訳なさを感じ、このような作戦が再び繰り返されない様に強く願うと思います。
「(特攻)隊員を思うと涙を禁じえず、軍司令官や参謀には怒りを感じる。十分な検証がなくては、同じような過ちを繰り返してしまう。」と彼らへ思いを寄せるような文章も記事には書いてあります。
しかし、この記事はただ単に命中率が低かったから美化してはいけないといっているだけで、それならば命中率が高ければ美化しても良いということでしょうか?
まともな神経をもっていれば特攻という「作戦」を肯定してはいけないということは、わざわざ「検証」しなくとも直ぐにわかります。
この記事は、特攻という「作戦」と「行為」を意図的に混同させ、英霊達の尊い犠牲を貶め、話題にする事すらを封じ込めようとする悪意に満ちた記事です。彼らの自己犠牲の精神から何かを汲み取ろうとする人として当たり前の気持ちを全く感じません。
もし仮に意図的に混同させたのではないとしたら、この記事の記者や記事で紹介されているジャーナリストは、想像力に欠けた近視眼的な物のとらえ方しかできない、思考停止に陥っている人間であると言え、それこそ「前線に行かず戦争を美化する」たぐいの人間と同列なのではないでしょうか。
私はこうした軍部(記事では特に軍部のエリートを指しています)にだけ戦争の責任を押しつける考え方は大いに間違っていると思います。
この記事に見られるような、いわゆる「戦争指導者」批判を行う態度は、自分を埒外に置き傍観者を決め込む卑怯な人間の典型的な態度です。とてもまともな思考や心をもっている人間であるとは思えません。
この記事は、一見すると平和を謳ったかのような記事ですが、実際は国のために尊い犠牲を払った英霊を利用しただけの醜悪といえる類の記事です。
ただ単に、愛国心を牽制し、旧日本軍やエリートを糾弾したいがために作文しただけでしょう。
(「『海軍のバカヤロー』と叫び、突入した隊員もいる。」という「秘話」をこのジャーナリストは披露していますが、何故突入した隊員がそう言ったとわかったのでしょうか。詳細は不明ですが、普通に考えれば不自然な話です。もしかすると従軍慰安婦レベルのねつ造なのではないのでしょうか。)
特攻隊の出来事を「作戦」などという視点から検証するのではなく、人類稀に見る自己犠牲という高い徳を表現して見せた「行動」そのものが特攻隊の真髄であるという事を感じ、そこに合理主義や個人主義といった近代思想とは違う考えや道徳観がある、という事を知ることが大事です。
そして、この考えや道徳こそが、恐らく戦後日本が一番失ってしまった部分だと思います。
ところがこの記事はそういったことには触れず、「繰り返してはならない」と言う薄っぺらい、わかりきった事を最後に主張するだけです。
この国の悠久の歴史を支えてきた、こうした先祖たちの尊い犠牲に対し、この記者やジャーナリストは何も感じないのでしょうか。
『特攻70年:「神風」犠牲4000人 9機に1機だった命中率』10月24日 毎日新聞
http://sp.mainichi.jp/feature/news/20141024mog00m040005000c.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
この記事でも伝えられているように、ちょうど70年前の1944年10月25日、神風特別攻撃隊がフィリピン沖で米海軍の艦艇に初めて特攻をしました。
記事では、特攻隊は「9機に1機の命中率」であったため、「特攻は日本の恥部。美化することは、それを命じた軍当局と変わらない。」と伝え、また命中率の低い特攻は非合理で無謀な作戦であり、この作戦を美化し肯定することは再び同じような作戦が繰り返されることになる。特攻隊を美化してはならないと主張しています。しかし私はこの考えには全く賛同出来ません。
そもそもこの記事で多用されている「美化」という言葉使い自体がおかしいと思います。
恐らく靖国神社へ参拝している人々などを指しているのでしょうが、彼らは特攻という「作戦」そのものに賛同して参拝しているのではなく、特攻隊の自己犠牲の「行為」に何かを感じずにいられず参拝していることは、常識を少し働かせれば直ぐにわかる事です。
「特攻は素晴らしい作戦だった。もっとやるべきだった。もう一度やろう。」と言う人を私は寡聞にして知りません。
そしてむしろ、英霊に感謝の念を抱く人々ほど、彼らの不可逆的な悲運に対して憤りやある種の申し訳なさを感じ、このような作戦が再び繰り返されない様に強く願うと思います。
「(特攻)隊員を思うと涙を禁じえず、軍司令官や参謀には怒りを感じる。十分な検証がなくては、同じような過ちを繰り返してしまう。」と彼らへ思いを寄せるような文章も記事には書いてあります。
しかし、この記事はただ単に命中率が低かったから美化してはいけないといっているだけで、それならば命中率が高ければ美化しても良いということでしょうか?
まともな神経をもっていれば特攻という「作戦」を肯定してはいけないということは、わざわざ「検証」しなくとも直ぐにわかります。
この記事は、特攻という「作戦」と「行為」を意図的に混同させ、英霊達の尊い犠牲を貶め、話題にする事すらを封じ込めようとする悪意に満ちた記事です。彼らの自己犠牲の精神から何かを汲み取ろうとする人として当たり前の気持ちを全く感じません。
もし仮に意図的に混同させたのではないとしたら、この記事の記者や記事で紹介されているジャーナリストは、想像力に欠けた近視眼的な物のとらえ方しかできない、思考停止に陥っている人間であると言え、それこそ「前線に行かず戦争を美化する」たぐいの人間と同列なのではないでしょうか。
私はこうした軍部(記事では特に軍部のエリートを指しています)にだけ戦争の責任を押しつける考え方は大いに間違っていると思います。
この記事に見られるような、いわゆる「戦争指導者」批判を行う態度は、自分を埒外に置き傍観者を決め込む卑怯な人間の典型的な態度です。とてもまともな思考や心をもっている人間であるとは思えません。
この記事は、一見すると平和を謳ったかのような記事ですが、実際は国のために尊い犠牲を払った英霊を利用しただけの醜悪といえる類の記事です。
ただ単に、愛国心を牽制し、旧日本軍やエリートを糾弾したいがために作文しただけでしょう。
(「『海軍のバカヤロー』と叫び、突入した隊員もいる。」という「秘話」をこのジャーナリストは披露していますが、何故突入した隊員がそう言ったとわかったのでしょうか。詳細は不明ですが、普通に考えれば不自然な話です。もしかすると従軍慰安婦レベルのねつ造なのではないのでしょうか。)
特攻隊の出来事を「作戦」などという視点から検証するのではなく、人類稀に見る自己犠牲という高い徳を表現して見せた「行動」そのものが特攻隊の真髄であるという事を感じ、そこに合理主義や個人主義といった近代思想とは違う考えや道徳観がある、という事を知ることが大事です。
そして、この考えや道徳こそが、恐らく戦後日本が一番失ってしまった部分だと思います。
ところがこの記事はそういったことには触れず、「繰り返してはならない」と言う薄っぺらい、わかりきった事を最後に主張するだけです。
この国の悠久の歴史を支えてきた、こうした先祖たちの尊い犠牲に対し、この記者やジャーナリストは何も感じないのでしょうか。