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政治、経済、歴史、その他

安保関連法の議論に見られた現代日本人の幼児性

2015年09月28日 | 日本のこと
安保関連法の議論に見られた現代日本人の幼児性

今回の国会での安保関連法案をめぐる議論やマスコミの報道は一言で言うと問題の本質からずれた、かなり程度が低いものでした。

これまでも何度か触れたように、そもそもポジティブリストや日本国憲法の絶対的平和主義に毒された世論を持った戦後日本は、個別的自衛権すらまともに行使できません。その欠格した部分を日米安保に身を委ねて自力で自分の身を満足に守ることができない状況です。
安保関連法改正の反対派や賛成派に限らず、ほとんどの日本人が戦後日本の安全保障が日米安保に頼っているという事態を当然のこととして考えてしまっています。
そして、このことの異常さや未熟さに気がつかず集団的自衛権についてあれこれ議論することは分不相応な単なる妄想合戦です。
自分の身を守れない、または「守る気がない」人間が、自分の身を守る資質を備えた他人を助けるかどうか、あれこれ議論することは滑稽ですらあります。

つまり、国防を語ることができるレベルに達していない人間が、国防を達するための「オプション(選択できる権利)」の一つである集団的自衛権について議論をすれば、結局「合憲か違憲か」「強行採決かどうか」といったおよそ本質とはかけ離れた方向に議論が進んでいくことは当然の結果です。対案なんて出せるわけがないでしょう。国防について考えられないからです。

今回の騒動を総括すれば、こうした意味の無い根本からずれた議論によって、多くの日本人の自国の国防に対する関心が多少は高まったかしれませんが、その思考はほとんど深化しなかったと言えます。これは茶番以外の何物でもありません。

日本の安全保障を他国に頼っていることに疑問を持たない思考回路は、親の庇護を受けているにもかかわらずそれに無自覚な子供の精神と同じです。このような子供は自分の感情に左右され、好き嫌いで物事を表面的に判断しがちです。自己の責任感や覚悟を源として自分の感情や欲望に反する判断をする、ということがなかなかできません。(例外的に、親から叱られたり強要されれば嫌々自分の感情に反した行動をとることはあります。)

これは独立国としては異常な状態です。国家主権の一部を構成しているはずの国防についてまともに考えることができない、ということだからです。
こうしたこともわからず、アメリカに守ってもらっていることを当然のこととして考えているため、反対派は平和憲法を守れなどということを恥ずかしげもなく堂々と主張できるのでしょうし、多くの賛成派も反対派の神学論争に引きずられる結果となってしまうのです。

政府は今回の安保関連法に関する議論で、「この法案は日米安保への依存度を下げ、この国に欠けている自存自衛の精神を達成していく機会であり、これまでの日本は国防に対する努力が未熟で怠慢であった。」と言うべきでした。
そのうえでまず個別的自衛権の問題について議論し、日本は安全保障に問題があり主権国家としての体をなしていない異常な事態である事を示すことができれば、国防に関する思考が深化できたはずです。多くの日本人はポジティブリストなど知りませんし、それこそが自衛隊の活動を縛り、その結果自衛隊員のリスクを大きく高めていることなどはもっと知らないでしょう。
そこを飛ばしていきなり集団的自衛権について議論なんてできるはずもありません。

日本はいつまで口先だけの観念的平和主義で茶番を繰り返すのでしょうか?
幼いころ中国の迫害を避け、チベットから亡命した日本の政治学者であるペマ・ギャルポ氏(現桐蔭横浜大学大学院教授)は、「チベットには平和を祈る27万人のお坊さんがいたが、たった2万人の中国の軍隊にチベットは何もできなかった。」と言われています。

今の日本人に安っぽいヒューマニズムや「カワイイ」「クール」などといった薄っぺらい価値観が蔓延しているのは、平和ボケした現代日本人のこのような幼児性から来るものだと思います。過去の日本人は生命よりも尊い価値観がある事を信じて、特攻し身を散らした若者がいました。

本当に戦後日本は平和で良い国なのでしょうか。物質的に豊かであればそれで良いのでしょうか。
今回のあまりにもひどかった安保関連法案をめぐる騒動では、感情的で表面的で無責任で幼稚な見たくもない日本人が多くいましたが、彼らが一刻も早く自分達の馬鹿さ加減に気がついて欲しいと思います。

安倍首相の施政方針演説とでたらめな議論

2015年02月24日 | 日本のこと
安倍首相の施政方針演説とでたらめな議論

少し前になりますが、2/12に安倍首相の施政方針演説がありました。
その演説で首相は、農業改革・医療改革・エネルギー市場改革・改革推進のための行政改革などの必要性を訴え、この「戦後以来の大改革」の断行こそが日本の将来を確固たるものにする、と主張しました。
この演説の中で安倍首相は「変化こそ唯一の永遠である。」という明治時代の日本画家であった岡倉天心の言葉を引用し、「伝統の名の下に、変化を恐れてはなりません。農業は、日本の美しい故郷を守ってきた、国の基(もとい)であります。だからこそ、今、変化を起こさねばならない。必ずや改革を成し遂げ、若者が自らの情熱で新たな地平を切り拓くことができる、新しい日本農業の姿を描いてまいります。」と、この後に続く演説も含め「改革」という言葉を連呼しています。

確かに伝統に固執しすぎて現実を見ず、ということがあってはいけないとは思います。
しかしだからといって改革がすなわち良いことであるとは言えません。改革が必ず成功するという保証はどこにもないからです。かえってひどい結末を迎えることになる可能性だって充分にあります。
特に農業は、首相も指摘しているように、日本の文化を育んできた大切な「国の基(もとい)」であり、また現実問題として国民の食料安全保障にかかわる重大な問題でもあります。

しかし、首相が演説で農業改革を行わなくてはいけない理由としてあげたのは「目指すは世界のマーケット(中略)内外一体の改革を進め、安全でおいしい日本の農水産物を世界に展開してまいります。」というものです。
これには、金儲けが全てに優先するかのような、ある種の卑しさを感じてしまいます。またこの発言は、TPP参加交渉を進めたい安倍首相が「日本の農業は強い(もしくは強くする)から大丈夫だ。」と言いたいがための虚言、とまでは言いませんが世論誘導的発言でもあります。

思い起こせば、当初のTTP交渉では「農業のために日本の製造業を犠牲にしていいのか!」と、農業はまるで切り捨てるべきお荷物のような存在でした。「聖域」とされたのも同じような文脈です。
つまり、通底しているのは世界の中での「日本の弱い農業」という認識です。

ところがいつの間にか「日本の強い農業」という言葉がマスコミなどで繰り返し流布される様になり、海外で売れている農作物を紹介し、あたかも今後の日本の農作物が海外市場で席巻するかのような報道ぶりです。
こうした議論の進め方は不誠実で節操がないだけだと思います。一部を報じて針小棒大に全体を語り、結論ありきで理由がコロコロと変わることは、TPPを巡る一つの特徴的な事象(最近アジアの成長を取り込むとか、聞きませんよね)ですが、安倍首相が「瑞穂の国」を標榜した以前の気持ちがまだ少しでも残っているのであれば、「強い」とか「弱い」とか抽象論を言わず、何が優先して考えなければいけないものなのか、もう少し真面目な議論をして欲しいと思います。

以前も触れましたが、日本の農業が衰退しているのは非効率性ばかりが原因ではありません。
海外に比べ低い補助金も大きな問題です。

「日本の農産物への補助金はEUやアメリカよりも小さく、(中略)農業所得に占める政府からの直接支払いの割合は、フランスで8割、スイス山岳部では100%、アメリカの穀物農家は5割前後というデーターがあるのに対し、日本では16%前後(稲作では2割強)となっている。」(鈴木宣弘 「現代の食料・農業問題〜誤解から打開へ〜」)

ねつ造レベルとも言えるようなマスコミ報道により、日本国民のほとんどは農業が手厚い保護をうけている産業だと誤解しています。
もちろん日本の他の産業と比べれば手厚い保護かもしれませんが、外国の同業と比較すると手厚いどころか、かなり悲惨な状況となっています。これでは価格競争力も持てず、安い国外の農作物におされて生産の現場が厳しくなり、若者の農業従事者が増えるはずもありません。
また、首相演説では農業の株式会社化にも触れられていますが、そういった改革が、いま、最優先すべき事でしょうか。(農業の株式会社化の問題点として指摘されている、国際資本の参入による食の安全保障の低下や、効率重視による中山間地の耕作放棄の問題などについて、その解決の方針すら示されていません。)
上記のように各国政府と日本政府との農業産業に対する取り組みが違うことを考えれば、まず何を議論すべきかは明白だと思います。

なお、農務省のHPによると日本の食料自給率は40%前後で「先進国と比べると、アメリカ127%、フランス129%、ドイツ92%、イギリス72%となっており、我が国の食料自給率(カロリーベース)は先進国の中で最低の水準となっています。」とのことです。
なぜ農業を変えようとする時に、海外に商売する事や株式会社の参入ばかりに焦点があてられ、日本の食料自給率の話題が出ないのでしょうか?とても不思議です。

ところで、この演説で首相が引用した岡倉天心の「変化こそ唯一の永遠である。」という言葉は、「伝統の名の下に、変化を恐れてはいけない」という意味では全くありません。
この言葉は天心の著作「茶の本」(この本は「The book of Tea」という題名で英語で書かれ、1906年にアメリカで出版されました。)第6章「花」の中に登場しますが、「変化」は「死」の比喩として使われていて、日本の諸行無常という感覚や死生観・宗教観を説明したものであり、前後は以下のような文章となります。

「われわれはいずれに向かっても破壊に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵(ブラーマン:司祭者。バラモン教。)の昼と夜である。(中略)われらの屍灰(しかい)の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。」
(青空文庫「茶の本」村岡博訳)

つまり「死は生である」という、死を考えるときに現れる日本の特徴的な思想について述べた文章です。今回のような演説の文脈で引用するようなものではありません。
シュンペーターの「創造的破壊」を言いたかったのかもしれませんが、もしそうだとしてもイノベーション(新結合)で知られるようにシュンペーターは「生産」にこだわった経済学者です。
イノベーションにより創造的破壊が発生すると言っているだけで、創造的破壊(死)はイノベーション(生)を産むとは一言も言ってません。これも安倍首相の演説には当てはまりません。
最近の日本は「変化が何かを生み出す。」という何の根拠もないことが無条件に是認されているようですが、何故なんでしょうか。

ともかく、こうした天心の言葉の引用のしかた一つとってみても、今回の演説には誠意や一貫性を感じません。
本当の、誠意ある、まともな議論をぜひともしてほしいものです。


一票の格差と一校の格差

2014年12月02日 | 日本のこと

<1票の格差>13年参院選は「違憲状態」…最高裁判断 (2014年11月26日 毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141126-00000036-mai-soci
選挙区間の「1票の格差」が最大4.77倍だった2013年7月の参院選の定数配分は法の下の平等を定めた憲法に反するとして、二つの弁護士グループが選挙無効を求めた16件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は26日、「違憲状態」と判断した。(後略)


上記の記事は2013年に行われた参議院選に関する記事ですが、今度の選挙に関しても「一票の格差是正」「定数削減」などが足りない、といった報道がよく話題に上がっています。
マスコミは、こうした不公平な状況で衆議院解散選挙に打って出た安倍政権を批判したいのだと思いますが、本当に一票の格差はそれほどまでに不公平なのでしょうか。
別に現政権を擁護したいとか、既に0増5減の対応を行っているからとかそんなことを言いたいわけではありません。
そもそもこの問題については、良く考えもせず、結論ありきで性急な議論だけが先行しているように思います。

一票の格差を是正するためには、人が多いところから相対的に多くの議員が選出されなくてはなりません。
これをもっと具体的に言えば、地方出身の議員を削って都市部の議員をもっと増やすべきだと言っている事になります。
しかし何故かマスコミはこの事をキチンと伝えません。

これをわかりやすく季節外れの夏の高校野球で例えてみます。
(少し古いデーターですが)2009年の全国の出場校は4041校で、出場校1校あたりの学校数を県別で見ると、最も少ない県が鳥取県で25校、最も多い県が神奈川県で189校でした。
もし「一校の格差」があるとしたら実に7.56倍です。(ちなみに少ない県は福井県29校、高知県31校と続き、多い県は愛知県186校、大阪府185校となります。)

鳥取県で最低1校の代表校を選出することにして、一校の格差問題を解決しようとすれば、神奈川県からは7校の出場を認めなくてはならなくなります。

また、一校の格差を是正する方法を定数削減とするならば、学校数が少ない県の単独の代表校を無くすという事になります。
たとえば今回の衆議院選挙では2倍以内が一つのラインとなっていますが、これを高校野球の例で言うと、一番多い神奈川県の189校の半分、つまり県内の学校数が94校以下の県は、他県と合同で県予選を行わなければなりません。そうすると実に出場枠49校(東京都と北海道は1県あたり2校の代表校があるため。)に対して32県が単独で県予選を開催できなくなってしまいます。
これでは学校数に物を言わせて、地方校を切り捨てているような傲慢さを感じないでしょうか。ここまでやってギリギリ2倍以内です。
今、声高に叫ばれている一票の格差是正
の解決策は、このような事態を引き起こすことになります。
繰り返しますが、相対的に都市部の議員を増やして地方議員を削る事になるのです。
こうした事を考慮せず、単純な平等を要求することは、自分勝手で醜い事だと思いますが、今の報道は表目上の平等性ばかり報じる非常に偏った内容です。

以前のエントリー(2013年12月2日「一票の格差と自由平等」 http://blog.goo.ne.jp/mikisonson/e/d6d4c58c48a86dd9496ff069bceb06d0)でも触れましたが、金科玉条のように言われる民主主義は所詮多数決で物事を決める単なるシステム・制度です。高尚な思想や主義では決してなく、もともと数の暴力(=民意の暴走)が生じやすい仕組みなのです。
世の中の多数派の意見が正しいなんていう保証はどこにもない中で、それでも社会主義や共産主義と言った計画主義や理想主義よりも民主主義のほうが幾分マシだ、と思うくらいで丁度いいものです。
それを数の理論で少数意見をないがしろにすることは、全体主義にもつながりかねない非常に浅薄な思いあがりだと思います。(なお、アメリカの下院は1.85倍となっていますが、今回の最高裁の判決の対象となった日本の参議院にあたる上院では、一票の最大格差は約67倍となっています。)

いつから日本においてこのような歪んだ配慮に欠く平等思想が蔓延したのか。ただ単に数字で割り切る事が本当に正しいことなのでしょうか。
もはや冒頭の記事のように日本の司法における最高機関である最高裁判所まで、このような判決を下すまでに至っています。そしてそれに異を唱える声はほとんどありません。

今の政権は決してまっとうな政権だとは言えませんが、しかしだからと言って思慮が足りない理屈で攻撃するのも同じぐらいまっとうなものではありません。




憲法改正について2

2014年07月13日 | 日本のこと
憲法改正について2

安倍内閣が集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更について閣議決定をしました。
この閣議決定まで、様々な議論が各メディアにより報じられましたが、これらの議論は一貫して日本の自主防衛の在り方についてどうするのか、という根本がすっぽりと抜け落ちているため空理空論に陥った酷いものでした。
反対派も賛成派も自主防衛という姿勢とは真逆の前提である「アメリカに協力するか、しないかの議論」に終始することとなり、反対派は日本が(戦争する国になるという主張は論外として)アメリカの戦争に巻き込まれるから容認できない、賛成派は日米安保体制の更なる強化を図る(つまり、見捨てられないようにする)ために必要だと主張するような有様です。

今回の集団的自衛権議論のきっかけは、ただ単に経済的・軍事的なパワーが落ちたアメリカがその負担を日本へ求めただけのことであり、また、今の日本ではこの要求を拒否することはできるはずもないので、結論は最初から決まっていたようなものです。
(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140712/plc14071208170005-n1.htm 7/12 産経新聞 集団的自衛権容認、ガイドラインに反映へ 米国防長官「強く支持」)

そもそも今の日本は、個別的自衛権において法的・経済的・物理的に様々な制約があり、他国と比べ、まともな自衛権を持っているとは言えません。これを解決しなければ、武力行使に多大な制限が残り、集団的自衛権の行使容認について議論する資格すらない状況です。
有事の際の行動がポジティブリストに縛られて自分の身も満足に守れない国が、他国に協力する事について議論をすること自体がナンセンスです。
まして、靖国神社に参拝するだけで騒ぎ、先人の自己犠牲精神に敬意を払うことをせず、平和憲法を金科玉条のように扱い、自分の身は自分で守るという当たり前の精神がまかりとおらないこの国で、集団的自衛権についてあれこれ議論することは滑稽ですらあります。
つまり、今回の騒動は議論の目的や順番を間違えた、いい加減で、恥ずべきものです。

もしかすると今回の集団的自衛権の行使容認を呼び水として、法的整備を進めざるを得なくなり、少しは個別的自衛権に関する状況が変化(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140712-00000012-mai-pol 7/2 毎日新聞 〈集団的自衛権〉「危険切迫」で行使可能武力攻撃事態法改正へ)するかもしれません。
しかしそれは単なる結果論であって、あまりにも主体性に欠ける態度です。また、仮に主体性に欠く事を百歩譲って
こうした可能性があるとしても個別的自衛権の問題を解決するために今回あえて集団的自衛権の行使容認に賛成だという意見は今回の報道で聞いた事がありません。(それはそれでTPPの時のように「日本の農業は外圧がなければ変われない」という卑屈な主張で嫌ですが。)

現実問題として、そもそも今の日本はまともな自衛権を発動する事が出来ない事を知る国民は少なく、また知ったとしてもその気概もなく、すぐにまともな自主防衛体制を確立することは難しいことだとは思います。
しかし、今回の集団的自衛権に関する議論は「アメリカに巻き込まれたくない」「アメリカに見捨てられたくない」という非常に情けないレベルのものであり、そうした事こそが自主独立とは程遠い、戦後レジーム体制だという事に気がつかなければなりません。
(各論で憲法改憲が筋であるなどという意見がありましたが、こんなものは単なる手段の問題について論じているだけで、何の目的すら持てない更にレベルが低い議論です。また、今の国民意識のレベルでは、マトモな内容に憲法を改正出来るとは思えません。)

賛成派はこうしたうやむやな状態にも拘らず、新たなオプションを手にする事が、何を引き起こす事となるのか真剣に考え責任をとらなくてはなりません。

(文武両道ではなく)「文武一道」という言葉がありますが、この言葉が示す通り、文が武を武たらしめ、文なき武は単なる野蛮であり暴力となります。
今の日本は「武」に対して「文」があまりにも脆弱で、覚悟に欠け、幼稚です。そのため、世界で日本だけがポジティブリストを維持している状況を異常とも思わず、核武装について議論もできず、非現実的な虚しい空論しかできないのです。
集団的自衛権の行使容認を進めるのであれば、まずは、日本の自主防衛の在り方についてどう覚悟をするのか議論し「文」をしっかりとしなければなりません。(そういう点では、巻き込まれないから反対という方がまだ一見マシに見えるかもしれませんが、ポジティブリストに縛られた日本の防衛力を超法規的な運用をしない限り起こりえないような事を心配する、という論の立て方をしているという点と、自主防衛について何も考えていないという点で賛成派と同じようなレベルです。)

恐らく今後、国会での審議や集団的自衛権に関する法整備などを検討していく上で、個別的自衛権に関する論点、ポジティブリストの見直しに関する議論が否応なく出現してくると思います。その時こそ、この国の防衛体制についてまともで真剣な議論を交わし、国民に自主防衛に対する気概が生み出されるきっかけとするべきであり、そしてその事は、国の矜恃を取り戻す事に繋がり、戦後レジーム脱却の第一歩となるはずです。

憲法改正について

2014年05月07日 | 日本のこと
憲法改正について

5月3日は憲法記念日でした。
日本国憲法が施行されたことにちなみ祝日となった日ですが、安倍政権が改憲派であり、とりわけ集団的自衛権を巡り解釈改憲をするとの方針を打ち出していることや、「憲法9条をノーベル賞に」という市民活動も注目を浴びているため、いつになく憲法に関する報道が多く、昨今、憲法を巡る議論が活発になってきています。
憲法に関しては言いたいことは山ほどあるのですが、今回はこの日本国憲法の代名詞とも言える戦争放棄を謳った憲法9条について触れたいと思います。

日本国憲法が「平和憲法」とも言われる所以となるこの9条ですが、護憲派の方々はよく「平和憲法のおかげで日本は戦争を起こさず経済発展をしてきた。世界平和にもつながる誇るべき憲法だ。だから改憲をしてはならない。」というロジックを使います。教育の場でもこの文脈で「日本国憲法は世界に誇るべき平和憲法です」と教わります。

しかし戦後日本が平和に暮らすことができた最大の理由は、日本国憲法と日米安保条約がセットになっていたからで、上記のロジックはこの現実が明らかに抜け落ちています。

私は別に親米主義ではなく、また日米安保信者でもないですが、この点を無視して「憲法に戦争放棄が書いてあるから日本が戦争をせずに平和になれたんだ」と主張することは、七夕で短冊にお願いごとを書いたら願いが叶うという発想に近いような気がして、子供じみた振る舞いだと思います。
まともな大人は、その願いに対する努力をしなければ願いはかなわない、というごく当たり前の事を知っています。
平和憲法を盲信する護憲派の方々は、戦後の日本がこの平和に対する努力の大部分を他国に依存してきたという現実を直視せず、思考が停止し、このような子供じみたことを恥ずかしげもなく主張しているのでしょう。
9条にノーベル賞を与えたいのであれば、日米安保条約とセットで申請しなければウソになりますし、隣国の脅威に対してこの「9条バリア」はまったく効果がないどころか、逆に助長すらしている側面もあります。日本がこの憲法を維持することにより、喜ぶ国は何処でしょうか?

このように、日本の自主努力が不足していても平和を保てた理由が、憲法9条によるものではなく、他国に不足の部分を依存していた体制であったこと、もっと言えば、それは戦後の東西冷戦構造の中からたまたま生まれた体制であること、そしてその体制はアメリカの国力衰退と共に後退し始め、継続が難しくなってきていることなどの現実をしっかりと認識したうえで、9条について今後改憲を行うかどうかを議論をしないと、どれだけ議論を重ねても現実味のない、空理空論、単なる綺麗ごとになってしまいます。

戦争はしないほうが良いことなど誰もがわかっている当たり前のことで、しかし現実はそうではないということを理解し向き合おうとしない事は、歴史に目を向けず過去から学ぼうとしない怠慢な態度だと言えます。

また9条に限らず、今の集団的自衛権に関する解釈改憲の議論も、日本のこうした現状を把握した上で進められているものとは言えないと思います。
現実の問題に対して、日本の自主的な安全保障上の問題を解決するため、解釈改憲が必要かどうかを議論しなければならない、という文脈であればこの議論の意義はわかりますが、単に同盟関係として片務的だから、アメリカに見捨てられるから、という理由では最優先すべき課題とは思えず、その前に9条そのものに関する議論、すなわち個別的自衛権についての議論(ポジティブリストの撤廃、先制的自衛権、核武装の可否、など)を先行すべきだと思います。

この「戦争放棄」のほか、日本国憲法を代表する「国民主権」「基本的人権」といったイデオロギーも、言葉の意味を表面的に捉えてしまうと空理空論・綺麗ごとに陥りやすい思想であり、また、私心ではなく公共心を持って取り扱わないと権利が暴走する可能性があるものですが、今の報道を見る限り、とてもそこまでマジメに考えているとは思えず、今の日本は憲法改正のために社会的合意が成熟している状態であるとは思えません。国民とは何か、基本的人権についてどこまでの人権主張が単なるワガママとの境界線か、と言った議論をあまり見かけられないのです。
なお、憲法改正にあたり意味ある議論を重ねるためのヒントは、近代的・進歩的と言われる思想や価値観の中ではなく、これまでの我が国の歴史の風説に耐えてきた価値観や歴史そのものを見直すことに多く見つけられると思いますが、西洋の近代思想である自由平等を盲信し、歴史がコントロールされた日本では、今のところ期待がもてそうにありません。

今の日本では憲法改正を議論しても、とてもまともな内容になるとは思えずとても不安です。
報道されている憲法改正論を見る限り、道のりはまだまだのようです。
ましてや9条をノーベル賞に、という主張にはあまりにも馬鹿馬鹿しく呆れてしまいます。