安保関連法の議論に見られた現代日本人の幼児性
今回の国会での安保関連法案をめぐる議論やマスコミの報道は一言で言うと問題の本質からずれた、かなり程度が低いものでした。
これまでも何度か触れたように、そもそもポジティブリストや日本国憲法の絶対的平和主義に毒された世論を持った戦後日本は、個別的自衛権すらまともに行使できません。その欠格した部分を日米安保に身を委ねて自力で自分の身を満足に守ることができない状況です。
安保関連法改正の反対派や賛成派に限らず、ほとんどの日本人が戦後日本の安全保障が日米安保に頼っているという事態を当然のこととして考えてしまっています。
そして、このことの異常さや未熟さに気がつかず集団的自衛権についてあれこれ議論することは分不相応な単なる妄想合戦です。
自分の身を守れない、または「守る気がない」人間が、自分の身を守る資質を備えた他人を助けるかどうか、あれこれ議論することは滑稽ですらあります。
つまり、国防を語ることができるレベルに達していない人間が、国防を達するための「オプション(選択できる権利)」の一つである集団的自衛権について議論をすれば、結局「合憲か違憲か」「強行採決かどうか」といったおよそ本質とはかけ離れた方向に議論が進んでいくことは当然の結果です。対案なんて出せるわけがないでしょう。国防について考えられないからです。
今回の騒動を総括すれば、こうした意味の無い根本からずれた議論によって、多くの日本人の自国の国防に対する関心が多少は高まったかしれませんが、その思考はほとんど深化しなかったと言えます。これは茶番以外の何物でもありません。
日本の安全保障を他国に頼っていることに疑問を持たない思考回路は、親の庇護を受けているにもかかわらずそれに無自覚な子供の精神と同じです。このような子供は自分の感情に左右され、好き嫌いで物事を表面的に判断しがちです。自己の責任感や覚悟を源として自分の感情や欲望に反する判断をする、ということがなかなかできません。(例外的に、親から叱られたり強要されれば嫌々自分の感情に反した行動をとることはあります。)
これは独立国としては異常な状態です。国家主権の一部を構成しているはずの国防についてまともに考えることができない、ということだからです。
こうしたこともわからず、アメリカに守ってもらっていることを当然のこととして考えているため、反対派は平和憲法を守れなどということを恥ずかしげもなく堂々と主張できるのでしょうし、多くの賛成派も反対派の神学論争に引きずられる結果となってしまうのです。
政府は今回の安保関連法に関する議論で、「この法案は日米安保への依存度を下げ、この国に欠けている自存自衛の精神を達成していく機会であり、これまでの日本は国防に対する努力が未熟で怠慢であった。」と言うべきでした。
そのうえでまず個別的自衛権の問題について議論し、日本は安全保障に問題があり主権国家としての体をなしていない異常な事態である事を示すことができれば、国防に関する思考が深化できたはずです。多くの日本人はポジティブリストなど知りませんし、それこそが自衛隊の活動を縛り、その結果自衛隊員のリスクを大きく高めていることなどはもっと知らないでしょう。
そこを飛ばしていきなり集団的自衛権について議論なんてできるはずもありません。
日本はいつまで口先だけの観念的平和主義で茶番を繰り返すのでしょうか?
幼いころ中国の迫害を避け、チベットから亡命した日本の政治学者であるペマ・ギャルポ氏(現桐蔭横浜大学大学院教授)は、「チベットには平和を祈る27万人のお坊さんがいたが、たった2万人の中国の軍隊にチベットは何もできなかった。」と言われています。
今の日本人に安っぽいヒューマニズムや「カワイイ」「クール」などといった薄っぺらい価値観が蔓延しているのは、平和ボケした現代日本人のこのような幼児性から来るものだと思います。過去の日本人は生命よりも尊い価値観がある事を信じて、特攻し身を散らした若者がいました。
本当に戦後日本は平和で良い国なのでしょうか。物質的に豊かであればそれで良いのでしょうか。
今回のあまりにもひどかった安保関連法案をめぐる騒動では、感情的で表面的で無責任で幼稚な見たくもない日本人が多くいましたが、彼らが一刻も早く自分達の馬鹿さ加減に気がついて欲しいと思います。
今回の国会での安保関連法案をめぐる議論やマスコミの報道は一言で言うと問題の本質からずれた、かなり程度が低いものでした。
これまでも何度か触れたように、そもそもポジティブリストや日本国憲法の絶対的平和主義に毒された世論を持った戦後日本は、個別的自衛権すらまともに行使できません。その欠格した部分を日米安保に身を委ねて自力で自分の身を満足に守ることができない状況です。
安保関連法改正の反対派や賛成派に限らず、ほとんどの日本人が戦後日本の安全保障が日米安保に頼っているという事態を当然のこととして考えてしまっています。
そして、このことの異常さや未熟さに気がつかず集団的自衛権についてあれこれ議論することは分不相応な単なる妄想合戦です。
自分の身を守れない、または「守る気がない」人間が、自分の身を守る資質を備えた他人を助けるかどうか、あれこれ議論することは滑稽ですらあります。
つまり、国防を語ることができるレベルに達していない人間が、国防を達するための「オプション(選択できる権利)」の一つである集団的自衛権について議論をすれば、結局「合憲か違憲か」「強行採決かどうか」といったおよそ本質とはかけ離れた方向に議論が進んでいくことは当然の結果です。対案なんて出せるわけがないでしょう。国防について考えられないからです。
今回の騒動を総括すれば、こうした意味の無い根本からずれた議論によって、多くの日本人の自国の国防に対する関心が多少は高まったかしれませんが、その思考はほとんど深化しなかったと言えます。これは茶番以外の何物でもありません。
日本の安全保障を他国に頼っていることに疑問を持たない思考回路は、親の庇護を受けているにもかかわらずそれに無自覚な子供の精神と同じです。このような子供は自分の感情に左右され、好き嫌いで物事を表面的に判断しがちです。自己の責任感や覚悟を源として自分の感情や欲望に反する判断をする、ということがなかなかできません。(例外的に、親から叱られたり強要されれば嫌々自分の感情に反した行動をとることはあります。)
これは独立国としては異常な状態です。国家主権の一部を構成しているはずの国防についてまともに考えることができない、ということだからです。
こうしたこともわからず、アメリカに守ってもらっていることを当然のこととして考えているため、反対派は平和憲法を守れなどということを恥ずかしげもなく堂々と主張できるのでしょうし、多くの賛成派も反対派の神学論争に引きずられる結果となってしまうのです。
政府は今回の安保関連法に関する議論で、「この法案は日米安保への依存度を下げ、この国に欠けている自存自衛の精神を達成していく機会であり、これまでの日本は国防に対する努力が未熟で怠慢であった。」と言うべきでした。
そのうえでまず個別的自衛権の問題について議論し、日本は安全保障に問題があり主権国家としての体をなしていない異常な事態である事を示すことができれば、国防に関する思考が深化できたはずです。多くの日本人はポジティブリストなど知りませんし、それこそが自衛隊の活動を縛り、その結果自衛隊員のリスクを大きく高めていることなどはもっと知らないでしょう。
そこを飛ばしていきなり集団的自衛権について議論なんてできるはずもありません。
日本はいつまで口先だけの観念的平和主義で茶番を繰り返すのでしょうか?
幼いころ中国の迫害を避け、チベットから亡命した日本の政治学者であるペマ・ギャルポ氏(現桐蔭横浜大学大学院教授)は、「チベットには平和を祈る27万人のお坊さんがいたが、たった2万人の中国の軍隊にチベットは何もできなかった。」と言われています。
今の日本人に安っぽいヒューマニズムや「カワイイ」「クール」などといった薄っぺらい価値観が蔓延しているのは、平和ボケした現代日本人のこのような幼児性から来るものだと思います。過去の日本人は生命よりも尊い価値観がある事を信じて、特攻し身を散らした若者がいました。
本当に戦後日本は平和で良い国なのでしょうか。物質的に豊かであればそれで良いのでしょうか。
今回のあまりにもひどかった安保関連法案をめぐる騒動では、感情的で表面的で無責任で幼稚な見たくもない日本人が多くいましたが、彼らが一刻も早く自分達の馬鹿さ加減に気がついて欲しいと思います。