今職場の友の会だよりの編集をしているのですが、地元京北で「浄瑠璃くずし丹波音頭」の保存に大活躍されている久保義嗣さんに執筆をお願いした。青年時代の思い出なども入ったとても読みやすく、含蓄のある原稿をいただいきました。打合せをしている時にお聞きした次の話が我が記憶にしっかりと残りました。掛け声などや節が丹波各地で少しずつ違うが、同じ京北の中でも峠を挟むと少し違っていたりする。ところが名田庄(文七踊りというそうですね)とは共通点が多い、という話を聞いたのです。
お、これは弓削と名田庄の人の行き来が盛んであった証ではないかと思いました。
昨日、このおおい町名田庄の田歌さんが我が職場に立ち寄られたのをいいことに時間をいただきいろいろ話を伺いました。田歌さんは名田庄村史の執筆をはじめ数々の著作もあり、歴史や昔話、また山の話も詳しい方です。
その中に、名田庄から弓削へ稲刈りに沢山来ていたと言われたのに引っかかりついつい長話になってしまいました。いろいろ聞いていると、早い稲刈りを済ませた名田庄の人達が大勢ここ弓削の里へ稲刈りの手伝いにこられていたそうです。明治・大正の頃ですか?と聞くとなんのなんの戦前までの話だというお返事です。ある人など手伝いに来ていてどうも胸騒ぎがするので帰ってみたら家を預けた子供が秋祭りの提灯の不始末からか自宅が火災にあった、という話もあるとのこと。
どういうルートで来られたのでしょうかねと聞くと、名田庄から知井坂を越え、河内谷~深見峠を歩いて来たと仰っていました。
まさに名田庄と弓削の人の往来を物語る話で、こう言った人の行き来が盆踊りの音頭に影響を及ぼしているでしょう。
峠を挟んでの隣村との行き来は婚姻関係や祭りなどでも関係が深く、あちこちで聞く話ではあり、今更といえばそれまでですが、まあ過去の話は一つ一つ記録しておく価値があろうと思い、日記ならぬ、ノートに書いておこう、という記事でございます。
なおこの久保さん、盆踊りの音符化や各地の音頭のデータ化、地元になかった浄瑠璃作品の音頭化などにも取り組まれている様で(これって凄いことで我が賞賛の的です)、いろいろお教えをいただきたい人が増え、嬉しい事です。
あ、そうそう、田歌さんには石山峠の地蔵さんの位置なども聞き出しました。
いわゆる鯖街道を考える時、この知井坂越えは凄く重要なルートだったと思っています。その為、「稚狭考」を注文しました。また若狭歴史民俗資料館の永江秀雄さん(残念ながらこの2月だったかに他界されたそうです。)の、幾通りもの鯖の道という記事も克明に読みなおさねばと思っています。先の記事でふれた、美山の戎岩、についても高浜街道だけに拘らず、舞鶴街道も視野に入れて考察しなければという気持ちにさせられています。
知井坂は血井だとかいう話を聞いたことがあります。あれ?このブログで教えてもらったのだったかな?知人の知井君、よーく聞いてみるとやはり美山出身だと言っていました。田歌さんとおっしゃる方もやはり土地の人ですか?
この知見と名田庄の槇谷や堂本とは関係が深く盆踊りにはお互いに行き来していたそうで、また漢字表記は違っても同じ地名があると聞きます。
知井坂は血井ではなく血坂と言われたそうです。また戦で流れた血で染まったので染ケ谷(シガタンと発音されます)という名が付いたとも。
田歌さんは知井の田歌という集落と同じ名前ですが、知井とは関係ないようです。知井には田歌という姓はありません。
知井という地名については石川賢司さんの「知井村史」に面白い考察が載っています。
私はこの知井坂越えが小浜~京都を結ぶ街道で一番人の往来が多かったのではないかという仮説をもっています。
私の耳には、「アラ、ヨーホイセーノ ドッコイセー」の間の手だけが、その旋律と共に耳に残っています。
仰る様に浄瑠璃くずしなどとは踊っておられる人は意識しておられないことでしょう。私は盆踊りには全く興味がありませんでしたし、今も踊りそのものに興味がありません。ただ最近その背景に興味を持ち始める様になり、いろいろ書くこともありました。
今回久保さんの原稿を読ませて頂き、その文章に心打たれましたし、久保さんが実行されていることに感銘しました。夏号は発行が遅れますが、友の会だよりを楽しみにして下さい。自分の楽しみがこうして他人様の為になる様な生き方をされている人が発する「気」というものを感じる様になって来たのではと思っています。