
朝7時前に起床して、7時半ごろ朝食を食べに26階のレストランへ。
さすが26階からの景色はいいですね~



食事は中華のバイキングでした。
俺は朝食はあまり要らないので…。

ウェイトレスはチャイナドレス姿です。
こっちもいい景色?



タクシーで9時前に「偽満皇宮博物院」に着きました。


ここは「溥儀」が満州国皇帝に即位したとき、新宮殿完成までの仮御所として造られたものです。

まず入ると「緝熙楼」があります。
ここは皇帝「溥儀」、皇后「婉容」、妃「譚玉齢」が暮らしていました。
この写真には写っていませんが、「緝熙楼」の前には「江澤民主席」の筆で「勿忘”九・一八”」の石碑があります…



「譚玉齢」の応接間と寝室です。

部屋は、ほとんど入口から中を覗けるだけです。

この部屋は写真の展示だけなので、入れます。
数多くの「溥儀」に関する写真が展示されていました。

「溥儀の寝室」です。
1932年4月3日から1945年8月11日にかけて、「溥儀」はずっとここに住んでいました。



「溥儀」の(左から)トイレ、仏堂、理髪室です。

「溥儀」の書斎です。

皇后「婉容」の寝室です。

皇后「婉容」の喫煙室です。
喫煙て言ったって「阿片」ですよ…



古い建物の階段って独特な、なにかを感じさせてくれる。
そして「緝熙楼」の外にある庭園。

「緝熙楼」を出ると、日本憲兵室もありました。

この「勤民楼」で「溥儀」は政務処理・式典挙行・来賓接待などを行いました。

ここは「西便殿」といい、「溥儀」が平素、事務・学問を行い、非正式的に日本と満州国の官吏及び重要客を招く場所です。



「勤民殿」です。
使節及び重要な来賓、日本国と満州国の高官を招いて任命状を授与する場所です。


「賜宴殿」です。
「即位式典」「重要な祝日」「祝典」などを行ったあと、「溥儀」が日本国と満州国の高官に宴会を賜る場所です。
宴会用の音楽室もあります。


「勤民楼」を出ると、また資料館があります。
1932年3月9日「溥儀」が執政就任式のパレードに使った車です。

1908年3歳の時、「西太后」の意志で「清」朝の帝位に就いた「愛親覚羅溥儀」。


「辛亥革命(1911年)」で「清」朝は滅び、最後の皇帝となる。


革命後「中華民国」臨時政府の「袁世凱」が策した清室優待条件により「大清皇帝」として「柴禁城」に居住していたが、1924年「馮玉祥」のクーデターによる国民軍の北京占領で、優待条件を失って「天津」に移り住んだ。


1931年「関東軍」の接触を受け、「日本公使館」や「日本租界」で暮らす。
1932年「満洲国」成立で執政に迎えられ、1934年「皇帝」即位。

1945年8月の日本敗戦で満洲を脱出し、日本へ向かおうとしたが、ソビエト軍に抑留され、「チタ」、「ハバロフスク」の収容所に送られる。
1946年8月「極東国際軍事裁判」に出廷、日本軍によって「皇帝」となったと証言している。
1950年「中国」に身柄を移送。戦犯として「撫順」、「哈爾浜」の収容所で生活し、1959年釈放される。


「同徳殿」です。第4夫人「李玉琴」の住まい。

「清朝歴代皇帝」の位牌を祀った部屋。


「関東軍」関係者と会談する「溥儀」(右)。


「溥儀」の日本間とビリヤード台。

11時すぎに「偽満皇宮博物院」をあとにします。
“ラストエンペラー”としての「溥儀」の数奇な運命に触れて来ました。

後編では、更に市内をレポートします。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます