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絵日記

「世の中の役に立つ」ものではなくただ「絵でしかない」ものを描いてみたいな、と。

ひとみ座「華氏451度」を観て その6 人形衣装・他

2025-04-07 08:16:33 | 人形劇

人形衣装 

 

    ★

素材・色彩・フォルムとも、よく工夫されていた。

ミルドレッドの緑の衣装は、人形自体のフォルムになっているようで、興味深かった。ヘアバンド(?)が髪の毛の質感とあいまって、病的な感じが良く出ていた。

現代ものの女性の衣装は、舞台衣装としてボリュームがつけ辛く難しい。そのあたりがうまく処理されていた、と思う。

    ★

昇火士たちの作業衣、上に羽織る防火服。質感が良く出ている。

他の衣装にも言えるが、袖の部分の皴の寄せ方もうまい。

舞台上での衣類の脱ぎ・着は、とても厄介なものだが、客席から見る限り、スムーズに行われていた。衣装の側の工夫と、それをこなす演技者たちの確かな技術。

    ★

ヘルメット・ゴーグルなどの〈着け・はずし〉も、鮮やかだった。芝居の流れを損なうことがなかった。

こういった技術は、演技の内容とは関係ないのだが、もたついてしまえば芝居の流れが滞ってしまう。神経を使うところだ。

人形に被せたりするものは、大きくなりがちで、人形自体のフォルムになじまないバランスになり兼ねないのだけど、ヘルメットもゴーグルも、不自然な感じはしなかった。かなりよく計算されている。

これだけたくさんの登場人物を製作すると、こういったところまでは、なかなか手が回り切らないものだが、よく行き届いていた。

     ★

ロボット犬2体は、企画・制作部の田坂晴男さんが、主に美術製作に当たったらしい。田坂さんは、人形美術もできるし、からくりの技術も持っている。

人形美術の小林加弥子さんは、美術工房の専従者ではなく、ふだんは演技者として上演活動に参加している。本格的な人形美術の担当は初めてだと思う。

片岡さん不在となった現在でも、「ひとみ座」の美術製作の裾野は、担当部署を超えて広いようだ。小倉悦子さん、小川ちひろさんを中心とした「アトリエ」(美術工房)が、あればこそ、だろうと思うが。

これから、どんな人形、どんな作者が突然現れるのか、楽しみです。もちろん、小林加弥子さんには、次作のあることを期待したい。

   ★

以前、ひとみ座がシェイクスピアのシリーズを上演していたころ、

「なぜ、背伸びしてまで大人の人形劇をやるのか」と、アマチュアの方に批判されたことがある。

日本でも、人形劇はもともと大人を対象として上演されてきたし、別に、子供が対象の人形劇だからと言って、簡単な訳でもない。市場として子供が主な対象になるのは事実だが、その市場から離れた場で活動することがあっても、悪い理由はない。

まあ、「意余って力足りず」な部分とか、余分な気負い、生硬さ、観客に対する配慮の足りなさ、などは、あったのかもしれない。シェイクスピアというレパートリーの選択も、やや、安直だったか。

「下手だ」「詰まらない」と言われたなら、力不足を反省するしかないが、批判は「人形劇なのに難しい芝居をやるな」と決めつけられたようで、後々まで私の中でしこりとなった。

今回の「華氏451度」の上演は、そうした意見に対して、この演目を選ぶこと自体が答えになっているようで、爽快だった。

「華氏451度」のような作品を、何の衒いもなく上演できる時代になったんだな、と感慨深い。上演する側の意識も、観客の側の意識も、変わってきているな、と。

企画・制作部の田坂さんによれば、今回の上演では、人形劇関連からではなく「ブラッドベリ」「華氏451度」を入口として観劇に至った方も多かったという。人形劇を初めて観る、と言う人も居たようだ。SNS社会の良い面だと思う。

    ★

来年は、友松正人さんが南米の作家の作品を企画していると聞いた。これまた、むずかしそう。

どんな作品になるのか、楽しみなような、「観るのがこわい」ような・・・

           (了)

 

ひとみ座「華氏451度」

川崎市アートセンター小劇場

2025年3月27日~31日

 

 

 

 

 


ひとみ座「華氏451度」を観て。その5 〈脚本・演出〉

2025-04-05 08:23:25 | 人形劇

〈訂正〉「その4」で、モンターグの台詞を「(主遣いの)照屋さんと高橋さんが同時に言った」としたのは誤りで、正しくは「(クラリス役の)佐藤さんと高橋さんが同時に言った」でした。

「その4」の本文はすでに直しています。ストーンマン、フェルプス夫人を演じた田川陽香さん、ご指摘ありがとうございました。

 

脚本・演出

客席で観る限り、脚本家と演出家の仕事を見分けることは難しいので、とくに分けずに論じます。

脚本 佃典彦さん

演出 小林加弥子・中村孝男

    ★

原作

アメリカのSF作家レイ・ブラッドベリの原作(1953年)。

「火星年代記」とともに代表作とされ、州によっては現在、ハイスクールの副読本に指定されているらしい。

反対に、あまり評価しない声があるのも事実。

魅力も多い作品だが、ドラマの原作として見ると、難しいところは多い。

〇主人公の「物語の始まり」時点での位置とエンディング時点での立ち位置の落差が少ない。(結局、おなじところをぐるぐるしている。モンターグはこの物語が始まる前から、本を持ち帰り自宅に隠している。つまり、昇火士の仕事と本の価値について、現状に疑問を感じている)

〇フェーバーや昇火隊長ベイティーの理屈っぽい長広舌。

〇モンターグ、ベイティー、フェーバー、そしてラストに出てくる学者たちの関心と思考形態が似通っていること。

〇物語が、登場人物間の葛藤によってカタストロフを迎えるのではなく、「隣国による都市への攻撃」という外力によって終わること。(この隣国は、詳しく描写されないが、ロシア=ソビエトの影が濃い)

などなど。

これは、執筆当時、実際に行われた「アカ狩り」や「危険文書の焼却」「思想統制」に、ブラッドベリが切迫した危機感を抱いていたから、なのだろう。当時、マッカーシズムによって多くの学者・文化人などが、スパイ容疑や陰謀罪などで逮捕された。

構成の不備や作品の完成度を置いても、「伝えたい」「伝えねばならない」中身があった、破綻するほど追い詰められた熱情がブラッドベリには、あった。

この熱情は、作中、モンターグの一見突発的な訳の分からない暴力的な衝動に反映されても、いる。

思想統制と同時に、TV、ラジオ、コミックなどの、軽薄になりがちな新しい大衆文化への危機感も、この作品には反映されている。搾取と侵略によって経済的に繁栄しながら、文化としては頽廃していく自国の白人中心社会への批判も、あったのだろう。引いては、「言論・創作活動や自由な社会活動の未来」に対する(フェーバーのような)無力感のさえ、感じていたと思われる。

    ★

構図としては、

〇人々の思考・思想の多様さを高め、豊かな感情・感覚を育てる「本」を、焼きつくして、一般大衆の「考え、感じ、表現する心」を奪う立場の行政(昇火所長ベイティーに代表される)。

〇対立項として、規制システムにスポイルされ、都市を逃れる学者たち、グレンジャー、シモンズ博士など。また。隠遁しながらテロのような反撃を狙う非力なフェーバー、社会システムから自由で〈自分自身〉として自然に生きる少女、クラリス。

〇行政の思い通りにコントロールされ、疑問を感じず享楽にふける妻ミルドレッドとその友人たち。(当時の中産階級以上の家庭によく見られた「利己的で、暇を持て余し快楽ばかり追求するお気楽な」典型的マダムたち)

〇自分たちの職務にひたすら忠実で「善良」な昇火士仲間ブラック・ストーンマン。

で、これらの中で悩み、考え、行動し、暴れ、模索する主人公モンターグ。

以上で、構成される。

 

     ★★★

脚本・演出

冒頭、ミリーの血液入れ替え手術は、原作では自宅で行われる。これを「真空移動装置によって瞬時に病院に運ばれた」としたのは良いアイデアだと思う。よりSFらしくなるし舞台処理としてもすっきりする。スクリーンにプロジェクターでモノクロの影絵を投映したのも、効果的だった。

他の場面でも影絵は使われていたが、どことなく古風な絵柄で「1950年代のSF」の雰囲気がよく出ていた。

     ★

昇火隊の出動を、サバイバル番組の実況仕立てにしていた。これも、うまい。第一部のテンポの良さは、このアイデア=仕掛けによるところが大きい。

スリルが増すし分かり易い。それに、昇火隊の活動の「ウソくささ」がうまく強調される。ベイティーが視聴率に拘っているのが皮肉っぽい。マスコミの大衆迎合的誘導も表される。

     ★

ミリーと二人の女友達のホームパーティー風場面で、原作には「3面の壁全体がスクリーンになった」ラウンジという映像装置が登場する。この装置は、原作では「大衆を無知化する軽薄な垂れ流し文化」の象徴のように扱われる。

ひとみ座の舞台では、これをゴーグル式の映像装置としていた。

これによって、人形たちは動きを制約されず、「その場に存在しながら現実を見ず、外界とは関係ない世界の享楽に浸っている」感が出ていた。演者たちの好演で、この場面はとても面白かった。

     ★

原作には、ところどころ、ブラッドベリらしい美しい情景描写が出てくる。

舞台では、これをラスト近くの「川と月」の場面だけに集約していた。それも、布と照明だけを使ってシンプルに。これは第一部の少女クラリスの自然愛や感性・詩情を、思い出させるものでもある。

炎の赤に対してのディープブルーの絵柄は、緊迫した場面が続く中で、印象的なシーンだった。

     ★

芝居の大筋を「ベイティーとモンターグの対峙」「ミリーを代表とする、享楽的人々との齟齬」に絞って、ややもすれば饒舌になりがちな原作を、うまくまとめている。

また原作で、学者、ベイティー、フェーバーらがたびたび口にする「古典作品からの引用」は、ほぽ、捨象され、すっきりしていた。

     ★

原作では、

ベイティーらを殺してからモンターグは線路沿いに都市を逃れ、同じく都市を脱出中の「彷徨える学者たち」と出会う。(原作では男ばかりで女性は居ない。脚本で新たにウエスト夫人を登場させたのは、やや男性偏重である原作を修正したかったものか、あるいはキャスティングのバランスの都合か)

隣国の空爆によって、自分たちの居た都市が焼かれるのが遠く見える、その街の現状は分からない。

モンターグと学者たちは、踵を返し、都市に向かう。そこで小説は終わっている。

舞台では、

学者たちとの出会いのあと、いったん終幕のような雰囲気になり、その後突然巨大な炎幕が降りてエンディングとなった。炎幕は舞台全体を覆ったのだから、あるいは世界全体が昇火されたのかもしれない。

まあ、それは、観客ひとりひとりの受け取り方次第、ということなのだろう。

     ★

プロローグに「彷徨える学者たち」を登場させ全体の方向を指し示していたが、これには「ネタばれ」を指摘する声もあった。

観客が原作の内容を知っているかどうか、で受け取り方は違うと思うが、まあ、あった方が親切かな、と私は思いました。

     ★

「主遣いの照屋さんではなくクラリス役の佐藤さんです」と、Xのメッセージで、今回出演されていた田川陽香さんが指摘してくれた場面。

それまで台詞を担当していた高橋和久さんの声に重ねて、女性の声が同じセリフを喋った。
主遣いの声だとしたら、単に「モンターグの心の二重性を表している」と受け取れる。

しかしもし、「少女クラリスの声である」設定なら、もっと別の意味が加わることになる。

この場面、とても印象に残り、効果のある演出だったが、小林加弥子さんの意図はどちらだったのだろう。

 

 

 

 

     

 

 

 


ひとみ座「華氏451度」を観て その4 〈演技〉

2025-04-04 08:11:30 | 人形劇

演技について書く前に、人形美術(小林加弥子)で、ひとつ気付いたことがあるので、補足しておきます。

    ★

今回の人形はいわゆる(文楽式)「抱え遣い」で、人形の背後から遣う形式。出遣い式のopenな舞台ではよく採用される方式だ。

面白いと思ったのは、この人形たちの大きさとプロポーションとデフォルメ。

これは、ふつう、蹴込式陰遣いの「鉄線の付いた棒遣い人形」の様式だ。このまま、「掲げて使う棒遣い人形」としてしまっても、まるで違和感がない。

文楽もそうだが、通常、出遣いの人形では、もっと手脚の長いプロポーションが採用される。蹴込で遣われる棒遣い人形は、大雑把に言って「身体全体で表現」するが、出遣いでは、人形が大きくなり、よりリアルな「手脚」の表現が加わるから。逆に言えば、それらの表現が可能だからこそ、このスタイルを採用するのだと思う。

今回の舞台では、必要以上の手脚の表現は省略されている。省略されたことの、自由度は大きい。

一番は、人形の踏みしめる「地面」を意識せずに済んだこと。

リアルに近いプロポーションの人形が、脚や左手をブラブラさせていれば、うるさいし、気にもなる。芝居の流れと別のところへ神経を散らされる。各人形の高さのレベルが統一されていなければ、構図が落ち着かない。

けれど、「華氏」の人形のプロポーションとデフォルメならば、まるで気にならない。これは利点だ。

もうひとつは、抱え遣い人形でありながら、軽快であること。これは主にこの人形たちの「小ささ」によるものだ。

劇人形は「大きければ表現力も増す」というわけでもないようだ。

    ★

さて、「演技」について。

私が在籍していたころ(30?年前)の「ひとみ座」演技陣は、プロの劇団としては、それほど高いレベルとは言えなかった、と思う。

ひとりひとりの演技者の技量が不足していたというよりは、統一的な演技指導なり訓練方法が確立されず、個々バラバラな(個性的な)演技スタイルが、一つの舞台で並立してしまっているからだった。

よく言えば、模索状態だった。

今回の舞台では、それは感じられなかった。ある統一性はとれていると思う。

劇団代表であり、優れた演技者である中村孝男さんの影響は、大きいのかもしれない。彼は人を育てることにも熱心だ。もうひとつは、外部のさまざまな演出家、ことに亡くなった遠藤 啄郎氏との交流も、良い結果をもたらしていると思われる。

今回の舞台でも、もと「横浜ボートシアター」高橋和久(現・俳協)さんが客演し、主役のモンターグを好演して、舞台全体を引っ張っている。高橋さんは人形の左手と台詞を受け持った。人形の主遣いは別にいて照屋七瀬さんが、芯のある演技をしていた。

左手遣いが台詞を担当するのもめずらしいが、最後の方の場面では、高橋さんが人形を離れて台詞を言い、モンターグの心の葛藤を表していた。これも、ユニークな表現だった。(クラリス=少女役の)佐藤さんと高橋さんが同時に台詞を言う場面もあった。このあたり、出遣い形式の表現の多様さを、十分に発揮させていた。

斎藤俊輔さんのベイティー。

高橋さんに負けぬ劣らぬ声量で、堂々としていた。人形操作もどっしりとして、細かく動かさず安定している。舞台を支配する力があると思う。

蓬田雅代さんの老婦人。

死を覚悟した老婦人を、抑えた演技で静かに演じていた。人形の(客席に対する)角度の使い方、遣い手の身体の位置など、ベテランらしく細かな神経が行き届いている。

大島まりあさん、ミリー。

ある意味典型的な役なので、やりやすい得な役ではあるかも知れない。でも、それをちゃんとこなせるのは基礎的な力があるからだと思う。モンターグとの完全にかみ合わない会話は成功していた。どこか常に別世界をただようような目線の使い方もよかった。

勝又茂紀さん、 フェーバー。

これ、作者(ブラッドベリ)に都合の良い、したがって「うさんくさい」役処なんだけど、その「うさんくさい」雰囲気は、人形デザインと相まって、そこはかとなく(笑)感じられました。他の人形と大きさもスタイルもやや違うのだが、その特性を生かした遣い方だったと思う。

佐藤綾奈さん クラリス。

元気な跳び跳ねるような動きが印象的。

田川陽香さん ストーンマン。

富木禎義之さん ブラックとのコンビ、ちょっと掛け合い漫才風で、暗いストーリーの中で少し息がつけて良かった。

フェルブス夫人も田川さんが演じた。蓬田さんボウルズ夫人との「軽薄」コンビの、はじけぶりが楽しかった。

   

 

 

 

 


ひとみ座「華氏451度」を観て  その3

2025-04-03 08:55:13 | 人形劇

操作スタイル

 

「演技」について書こうかと思っていたのだけど、ふと、「出遣い」のことで面白いことに気付いて、今日はそちらについて書くことにしました。これは、演出の領域なのかな。

   ★

今ではすっかり当たり前になった「出遣い」。

この形式で一番問題になるのは地面の設定で、セットや衝立などの「拠り処」がない場合、人形の立ち位置が不安定に見えてしまう。つまり、「地面に立っているのか、空中に浮いているのか、区別がつき辛い」ということがある。文楽でさえ、女形人形の足元はだいたい安定しているが、鎧武者などは、じつにフワフワしているように見えることがある。

その場に座ったり立ったりしているときは良いが、足遣いが脚を動かし始めると、とたんに空中であがいているようにさえ、見えてしまう。

    ★

今回のひとみ座の公演では、とくに厳密な地面を設定しているようには見えなかった。が、不思議に不自然な感じはしなかった。なぜだろう。

面白いことに気付いた。演技者が「地面」の高さを合わせることを、気にしていないのだ。

    ★

演技者はそれぞれ自分の最も操作しやすい位置に人形を保ち、それを各々の基本ポジションとしている。それ故安定している。そうか、基本ポジョンがあれば良いのだ。安定さえしていれば問題ないのだ。それぞれの高さにバラツキがあっても、それが各キャラクターの座標を表すこととなり、かえって分かり易い。

    ★

考えてみると、勾配の強い客席の劇場で「一貫した地面の設定」など、どうやっても出来るわけがない。そもそも無理。しかし、蹴込芝居の延長からか、長い間、出遣いの芝居での「地面」に、現代人形劇は苦闘してきた(と、思う)。いろいろな工夫はされたけど、観客にとって了解し易いものではなかった(と、思う)。

    ★

人形は、生身の役者と違って引力によって地面に縛られることはない。安定した立ち位置さえあれば、共通の地面など、要らない縛りだろう。自ら表現の自由度を狭める理由はない。

必要ならそのシーンだけ共通の地面を設定すればよいだけだ。

もっと言えば、舞台装置の(例えば部屋の)水平・垂直を狂わせたって良いはずだ。エッシャーや安野光雅の絵のように。表裏・縦横・上下が入れ替わったり歪んだり、人形劇なら、いくらでも対応できるだろう。

    ★

今回の「華氏451度」でのこの操作スタイルは、演出が意図したものか、それとも稽古を進めるうちに自然とこのような形に落ち着いたのか、それは分からない。

でも、人形劇の自由度が、もうひとつ見えてきたように感じられる。要らない縛りがひとつ取れたかな、と。

 


ひとみ座「華氏451度」を観て その2

2025-04-02 11:33:39 | 人形劇

その2 人形美術

小林加弥子さんのデザイン・美術

 

      ★

「乾いた」「クール」「造形的」「ハード」という言葉が当てはまるだろうか。

いわゆる「ゆるキャラ」などとは対極的な、知的な表現方法だと思う。

いま、TVなどで見られる多くの人形は、「甘い」「親しみやすい」「可愛い」「暖かい」「柔らかい」「略画的」「単純」なものが多い。それらがみな悪いわけでは、もちろんないが、あまりに溢れすぎてしまっているとは、感じる。

故片岡昌が切り拓いた、ある種「無機質な」「冷たい」「造形的」人形スタイルを直接受け継ぐ人は、もう現れないのか、と少々寂しい思いもあったが、「おまえだって、やれなかったじゃないか」と、言われそうで、やや諦めもしていた。そこに、小林加也子さんの突然の登場だ。これは大歓迎。

しかし、この演目を選んだ以上、どうしてもこのスタイルに行き着くのだろう、とは思う。作家の意図・物の捉え方その他諸々を、一番自由かつ存分に発揮できるのが、この美術スタイルだから。

      ★

モンターグ、ベイティーの力の籠った彫刻的表現、性格表現は見事。これが本格的な人形美術の第一作目とは、ちょっと信じがたいほど。

      ★

ミルドレッドの眼の表現は独創的。卵の殻のような質感の肌の表現は、この役にぴったりだと思う。帽子を被せてしまったのも「なるほど、この手もあるか」。

      ★

どの人形も、手の指先の表現まで、実に神経が行き届いている。髪の毛は和紙だそうだが、人形頭の原型に被せてさらに髪の毛専用の原型を取り直したものだろうか。ちょっと、製法の想像がつかない。この髪の毛の工夫で、重すぎず硬すぎず、乱れ過ぎないカツラに仕上がっている。これも、今まで見たことのない表現だ。

      ★

二匹の猟犬もユニークで面白い。実は、これが一番、小林加弥子らしい造形なのではないか(笑)。

     ★

フェーバーは賛否あるかもしれない。私の感覚では「これも、アリかな」くらい。

森に隠れた3人の学者たち、「ここまでみっちり作らなくても」とも思うが、みっちり作って悪いことは何もない。

     ★

小林加弥子さん、演出も兼ねている。「彼女、半年間、一日も休んでいないんですよ」と、老婦人役の蓬田さんが言っていた。