絵日記

「世の中の役に立つ」ものではなくただ「絵でしかない」ものを描いてみたいな、と。

対象が増えると

2024-06-16 14:39:05 | 絵画

どうせ、大勢の人に閲覧されるブログではないのだが、

ほとんど、自分の為の創作メモと化してきているなあ。

ま。文句言ってくる人も無いだろう。

というわけで、勝手な展開に・・・

 

描く対象が一つのものであると、絵は比較的簡単になる。

「簡単」と言うのは、「だから価値が下がる」とか「面白くない」とかの意味ではない。

それらことは、描いている本人にとってコントロールできないことなので、

考えても仕方ない。

「簡単」と言うのは、「描くのが比較的容易である」という意味だ。

もちろん対象がひとつ、と言っても、リンゴをひとつ描くのと角の生えた巻貝をひとつ描くのとでは、

かなり「描き辛さ」が違う。

それでも、角の生えた巻貝が画用紙よりも小さければ、

画用紙の左側に置いて写生すれば、かなりリアルに描き写すことが出来る。

中学生くらいで私もこれをやって「俺でもこんな絵が描けるんだ」と、

うぬぼれたりしたものだ。

しかし、少し根気があれば、実は誰でもこの程度はクリアできる。

「見やすい描きやすい角度に対象を置いている」

「等寸大である」だから、比率の狂いを修正しやすい。

「対象がひとつである」したがって、他との関係性を計らなくて良い。

つまり、大きさや位置関係、質感の違いなどに留意する必要がない。

 

2mほど離れたところに花台を置き、布をゆるやかに波打たせて乗せ、

その上にさきほどの角の生えた巻貝を飾り「さあ、描こう」とすると、

写生はとても難しくなる。

絵の内容が難しいわけではない。描くのが難しい。

巻貝は斜めの角度から見ざるを得ず、描き辛い形に縮んで見える。

布の上には巻貝の影が落ちる。

布はただの平面のように見えて柔らかな質感がある。波打ち、厚みがあり、

巻貝の置かれたところはくぼんでいる。

木でできた丸い花台の天板は楕円に見えるが、ほとんど布で隠されている。

さあ、どうやって描こうか。

 

写生の技術、リアリズムへの格闘は、ここから始まる。





 

 





 

 


写生

2024-06-10 15:59:20 | 絵画

小学校では写生をさせられる。

教室で、花瓶に挿された花とか、果物なんかを描かされたり、

学校の外に引率されて、公園や河原で風景を描かされたり。

写生はいわばリアリズムへの第一歩で、

花は花らしく、葉は葉らしく、樹は木らしく描くように方向づけられる。

このころから絵は「上手に描けた」かどうかが基準になる。

絵は「うまい・下手」で評価される。

学校では点数を付けなければいけないからね。

ほとんどの生徒はべつに画家になることはないから、

何も絵がうまくなる必要はないような気がする。

じゃあ、写生なんか無駄か、と言うとそんなことはないと私は思う。

ふだん、花なんかをじっと見たりしない生徒でも、

その時間はいやでも見つめざるを得ない。

そうすると、例えば単純な形の葉っぱでも、様々な角度で生えていて、

ねじれたり、反ったり、捲れたり、閉じたりしていて、

「ひとつとして同じものはない」つまり「同じ形の繰り返しでは描けない」ことに気付く。

その形全体をある程度正確に画用紙に描き写すのは、とても難しい。

まして、図工の時間の一時間や二時間では、まず、描くことができない。

植物は一時間くらいでも形を変えるし、

教室の光の当たり方もどんどん変わる。

「花瓶に挿された花」といういわば「切り取られた自然」でさえ、

とても複雑で捉えがたいものなのだ。

そうしたことを、「教わる」のではなく「体感する」ことが

たいせつなんじゃないだろうか。たとえ、絵がうまくならなくても。

 


だから絵は面白い

2024-06-07 08:49:24 | 絵画

いま、ある構想を思いついて、一枚の絵を描こうと準備を始めた。

まずは全体の構想図というかラフスケッチを描いてみる。

わりとイケそうだ。

20以上の要素が重なり合った絵なので、こんどは個々の要素の形を追求してみる。

すると、ラフスケッチのときよりその形は、

つまらない、硬い、なんだか味気ないものになってしまう。

ラフのときに、短い時間で気楽にちょこちょこっと描いて、

ちゃんと狙った感じに描けたものが、

どういうわけか、「もう少し線らしく、形らしく」と、整理しようとすると、

だんだんと「自分がどんなふうに描きたかったのか」が見えなくなってくる。

単純な構図の絵なら、ぶっつけ本番で「えいゃっ」と描いてしまえば、

こういうことは起こらない。

でも、複雑な構図の絵を描くとなると、

どうしても個々の要素のバランスだとか、配置、関係性なんかを

コントロールする必要が出てくる。

そうじゃないと、画面上で試行錯誤することになり、

時間ばかり費やして、色は濁り、線は重なるしで、

まとまりがつかなくなってしまう。

途中で投げ出すか、「こんな絵になっちゃった」と、適当にまとめる他ない。

しかし、最初に「こんな絵を描きたい」とイメージしたその衝動こそが、

その絵を描かせる動機だったはずだ。

その、そもそもの動機から外れて「こんな絵になっちゃいました」というのは、

やはり「ちょっと困る」状態だ。いや、ちょっとじゃない。かなり困る。

 

最初に「こういう絵を描きたい」と構想したとき、

絵は頭の中にイメージとしてある。

イメージは身体的なものではない。

イメージはふつう「画像」と同一視されているけれど、

頭の中に浮かぶイメージは、画像よりも空間的な気がする。

そのイメージをラフスケッチにしてみる。それはすでに身体的な行動になる。

そこまではスムーズに行く。

じゃあ、なぜ、それをよりよく整えて「形にしよう」とすると、

難しくなってしまうのだろう。

頭の中のイメージからラフスケッチまではほとんどタイムラグがない。

イメージがまだ鮮明である。

ほとんど「なにも考えず」に描ける。

でもそれぞれの要素をうまく組み合わせ組み立てるには、

どうしても「考える」「試行錯誤する」「調整する」ことが必要になって来る。

しかし「考えている」「試行錯誤している」と、

最初のイメージはもやもやとどこかへ逃げ出して行ってしまうのだ。

頭の中の掴みどころないイメージは、

紙に試し描きされる鮮明な線や形に埋もれて見失われて行く。

枝道迷路道草ばかり増えてしまう。

「この絵を描こう」という出発点が「頭の中のイメージの顕在化」

であったはずなのに、とんでもない矛盾が起きてしまっていることになる。

絵を絵たらしめている根本の土台が、描き手である自分自身にさえ、

ともすれば見えなくなってしまうのだ。

こうしたことを何度か経験すると、

さすがに、これを回避する方法を考えるようになる。

それぞれの要素や全体の構図を、

デタラメであれ何であれ「とにかく何枚も何枚も繰り返し描いてみる」。

そうしているうちに「なにも考えなく」なり、

何枚か描いているうちに最初のイメージに近い形が必ず見つかる。

もともと「私」という同じ人間がイメージしたものなのだから、

探しているうちにいつかは見つかるものだ。

イメージがよみがえり、構図や個々のフォルムも決まって

「いざ清書(笑)」となっても、また次の壁が待っている。

「生きた線・生きた形」が描けない。

ラフスケッチと違って「こういうふうに描く」「こんな形に描く」と

決まっているのだから、そのとおり描けば良いようなものだが、

ただなぞるだけなら塗り絵と同じだ。

絵画はおおもとは、身体性の運動から出発したもので、

一回性のパフォーマンス、偶然の出会いのような要素は、

どんな絵にも少なからず求められるだろう。

道路などに描かれたこどものデタラメないたずら描きが面白いのも、

身体的運動の痕跡が見てとれるからだ。それは精神の解放、自由さとも繋がる。

身体が自由に動くのは精神が解放されている時(何も考えないとき)だけだ。

その点では、「書」とも似ている。

「書」は絵と違って、決まった文字、決まった書き順など

細かな決まりがあるけれど、筆に墨を含ませ、呼吸と姿勢を整えて

紙に一息で書いていく「一回性の身体的なパフォーマンスの痕跡」

であることに変わりはない。

どんなに習熟した名人であっても、墨の垂れやかすれ具合、

末尾の撥ねの調子などを100%コントロールすることは不可能だ。

偶然が入り込む。

でも、それこそが「書」の魅力なのだろう。

ただきれいなだけなら、PC用の書体がいくらでも用意されている。

しかし、それは「書」とは言わない。

同じように、どんなに緻密に描かれたものであっても、

絵には偶然とか身体的運動の痕跡とかが、必ず残る。

逆に言えば、そうした要素があるから、絵は生き生きと感じられるのじゃないだろうか。

 

構成を考え、それぞれの要素の大きさや形を追求するとき、

100%作りこんでしまうと、私の場合はそれ以上絵が描けなくなってしまう。

やる気が無くなってくるし、無理に仕上げても

「ああ、出来たな」と思うくらいのものだ。

100%出来上がってしまったものを紙に写していくのは、

退屈な作業でしかない。

ミュシャやアングルの絵でさえ、

作者がこだわって苦労して追求した力の入った部分が、

そこだけ妙に浮かび上がって見えることがある。

そこだけ、どこか他から借りてきたように見えてしまうのだ。

あるいは、

いかにも「入念に準備したものを貼り付けました」というように見える。

100%完成させた部品をただ組み組み上げても、絵は完成しないようなのだ。

きれいすぎる絵はつまらない。

長年修行を積んだ専門の絵描きが精魂込めて描く絵より、

幼児の描くいたずら描きの方が魅力的な場合だってある。

だから、絵は面白い。

 


幼児の絵 描きやすい線 描き辛い線

2024-06-02 13:37:36 | 絵画

「おひさまに三角屋根の家、チューリップにおかあさん」の絵には、

まだまだ謎がある。

おひさまはたいてい(向かって)左側の上の隅に描かれる。

おうちは、その下のやはり画面左側。

そして、おかあさんやチューリップは画面右側に描かれる。なぜなんだろう。

おひさまは「一番遠いところ」にあるので、右手で描いた場合、左上の隅が一

番遠くなるからなんだろうか。

そればかりじゃないな。

絵は左上隅から描き始められることが多いのだ。

今、私が絵(らしきもの?)を描いていても、なぜか画面右端は描き辛い。

気が付くと右隅あたりが、どうもおろそかな描き方になっている。

 

 

右利きの場合、紙を机に平らに置いて描くとき、黒線1が一番描きやすく

したがって、きれいに描ける。

肘を紙右隅の位置に固定して、腕をコンパスのように使って描けば良い。

黒線2は、右肘を紙左下隅まで持っていかなければならず、かなり窮屈な姿勢になる。

それでも、身体をちょっと左に移動し直して上体全体を斜め右向きにすれば、なんとか、線は引ける。

じゃあ、赤線3はどうだろう。

身体をひねり、肘の位置を紙右上隅に持って

上腕まで動かして、上腕と下腕の角度を変えながら腕全体で描く。

しかし、紙右下隅に近くなると、それでも足りない。腕が畳まさってしまって、それ以上は縮まなくなる。

今度は肩甲骨を後ろに引くか、上体全体を捻るかしなければならなくなる。

赤線3を描くのは、肘から先だけで描く黒線1より、ずっと複雑な動作が要求されるのが分かるだろう。

同じく赤線4にも、上腕下腕肩甲骨の複雑な連携が求められる。

おまけに、鉛筆にしろクレヨンにしろ、紙に当たる角度や圧力を常に調整しなければならず、

手首の動きもここに加わる必要が出てくる。

では、丸 はどうだろう。

やはり、向かって左側が描きやすく、右側はいびつになりがちだ。

幼児は大人よりも身体能力が未発達だから、これらの特性はもっと顕著に表れるだろう。

しかし、このややこしい身体的な束縛を簡単に打ち破る方法がある。

紙をすごく大きくして、しかも立てれば良い。

いわば、壁とか塀とかにいたずら描きをするような感じ。

この条件だと、腕の関節や手首を複雑に連携させる必要がない。

円を描くなら、肩を中心にして腕を伸ばし、そのまま大きく一周させれば良い。

かなりきれいな円が描けるはずだ。

小さな紙に絵を描くとき、右腕の肘の位置はほとんど常に一番右、つまり外側に置かれる。

つまり、絵は「すべて右側に支点を置いて描かれる」ことになる。

これは、ものすごい縛りじゃあないだろうか。

わざわざ窮屈な姿勢で描いているようなものだ。

人間が線を引くときの可能性の四分の一しか使っていない。

きれいに描けるのは円で言えば、左上の四分の一円だけ。

ピザで言えばクワトロ八枚切りの二切れ分し食べていない。

これに比べて、「大きな紙に向かって立って 絵を描く」とき、自分の臍から下の高さにも線が引ける。

自分の身体より右側にも楽々と線が引ける。自由度がまるで違う。

小さな絵を描くときと違って、むしろ左側より右側の方が描きやすいはずだ。

なぜなら、向かって左の画面に描こうとすると、身体を捻るか横を向く必要があるから。

でも、それも大した束縛にはならない。何歩か移動して描きやすい位置に立てば良いだけだ。

 

ほんとなら幼児には、大きな紙を用意して立てた状態で描かせてあげたい。

それも、大きな筆で水性の絵具で。

長靴とレインコートと帽子が必要かもしれないが。あと、踏み台とビニールシートも。

 

 

 

 



 

 


絵と記号

2024-06-01 10:37:13 | 絵画

幼児はよく、こんな「おひさま」を描いたりする。

でも、絵の教室に通ったり、小学校に上がったりすると、

どうも、こんな絵を描いてはいけないような気がしてくる。

「なんか、幼稚だな」と。

ひとつは、クレヨンという筆記具に限界があって、

基本的に線しか描けない。色を混ぜたり重ねたりできない。

色数も決まっている。

線は力加減である程度太くしたり細くしたりできるが、

大きな面を塗りつぶすことはできない。

クレヨンの先を斜めに大きく削ったり、持ち手に巻き付けてある紙を

はがしたりすれば、面を塗りつぶすことは出来るが、

なんか、親とか先生に叱られそうな気がする。

で、結局、おかあさんの顔とかおひさまの丸い部分とかは、ぐしゃぐしゃと

毛糸がもつれたような線で塗りつぶすことになる。

でも、この「赤〇チョンチョンで、おひさま」「にこにこしたおかあさん」が

幼稚に見えるのは、そんな、クレヨンの限界からばかりじゃない。

「絵というより記号」だから、じゃないかなと、現在の私は思う。

記号は、形や色ばかりじゃなくて音とか立体とかも記号になり得るけれど、

絵とは関係ないから、ここでは、そちらはちょっと脇に置いてしまおう。

記号(シンボル)、「意味を与えられたもの」「対応する〈何か〉を指し示すもの」

漢字は典型的な記号だ。漢字の「木」は樹木一般を指し示す。つまり樹木一般という「意味」を与えられている。

「木」は明朝体で「木」と書こうがゴシックで「木」と書こうか゛

その指し示す意味に変わりはない。木は木である。

で、これと同じことが「赤〇ちょんちょんでおひさま」「ニコニコ顔でおかあさん」

には起きてしまう。これらは記号なので、赤丸が少々いびつになっても、ちょんちょんの数が

多くても少なくてもその指し示す処は揺るぎないのだ。

どれも、おひさま。

で、これの何がいけないんだろう。

いや、べつにいけなくはないんだけど、気になることはある。

幼児の描いた絵を見て、お兄さんや大人たちが、

「これ何の絵?」「なにを描いたの?」と聞いたりはしていないか、と。

こう聞かれるとこどもは「そうか、絵は『何を描いたか分かる』ことが大事なんだ」

そう思い込んでしまうんじゃないか。

ピカソの絵を見たり、現代絵画を見たりして大人はよく「この絵は分からない」

と言う。ピカソだって色々な絵を描いているから、

その「わからない」絵が、どの時代のどの作品を指しているのか知らないが。

絵はわからなければいけないものなんだろうか。

「わからない」というのは「何を描いているものなのかわからない」のか、

「こんな絵を描く意図が分からない」のか。

「分かることが大事」なら「赤〇ちょんちょんでおひさま」式でいいじゃないか。

つまり絵は記号の集積で事足りることになる。

ちょっといたずら心を起こして、こんな絵を描いてみました。

絵は「何を描いたか分かれば良い」と言う なら、これでいいじゃない。

どう? わかりやすいでしょう? 昔、銭湯によくあった「白波に松原、

帆掛け船、富士山」です。

う~ん、お絵描きタブレットではどうもうまく描けないな。これが限界。

もう少し真面目に(笑)紙に描いてみようかな。意外と面白いぞ、これ。