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川瀬有希の時の旅


「今日は何の日」と題し、過去のその日に起こった出来事を、自由気ままに語るブログです。

12月15日/ 今日は何の日

2012-12-15 00:15:00 | 忌日

(1975年)井上成美死去

帝国海軍最後の海軍大将。
日独伊三国軍事同盟条約締結や日米開戦に反対し、本土決戦を主張する陸軍・大本営の姿勢にも強硬に異を唱え、終戦工作に奔走した。
軍部が暴走したあの時代、命の危険も顧みず最後まで文民統制の思想を棄てなかった気骨の武人。
米内光政や山本五十六らと同様、井上のような人物がもっと多く存在していれば、あれほどの悲劇は避けられたかも知れない。



(2005年)仰木彬死去

プロ野球選手としてよりも監督としてのイメージの方が強い。
近鉄時代の「10・19」、対巨人・日本シリーズでの「3連勝の後の4連敗」、野茂英雄のよき理解者、オリックス時代のイチロー抜擢、阪神大震災後の躍進そして優勝……など数々のエピソードの持ち主。
また、いろんな奇策を繰り出してファンを楽しませる演出上手な人でもあった。
あんな個性的な、というよりクセのある監督は、この先そうそう現れまい。


12月12日/ 今日は何の日

2012-12-12 00:15:00 | 忌日

(2002年)笠原和夫死去

脚本家。
手掛けた作品では『仁義なき戦い』シリーズが一番有名だろうが、個人的には何と言っても『二百三高地』(1980年公開)。
常人には真似出来ぬ程の圧倒的な取材を敢行、そして出来上がったのが、異様にリアルなあの映画だった。
笠原の脚本あってこそあの見事な作品は生まれた。
日本の戦争映画にありがちな、後世の価値観的台詞で埋め尽さなかった手法が成功の理由だろう。
だからこそ、あおい輝彦演じる小賀中隊長が、参謀の面々に向かい涙ながらに訴えるシーンが胸に迫る(唯一自らの思いを託したのがあのシーンだった)。

ただ、次の『大日本帝国』(1982年公開)ではややブレーキが緩み、思想が過剰に表出したきらいを感じるが、それは、自身が海軍に志願した経験の持ち主であることが深く関わっていると思われる。
あの絶望的な時代を生きた者に客観的になれというのが無理な話で、その点を批判するつもりはない。


12月7日/ 今日は何の日

2012-12-07 00:15:00 | 忌日

(1984年)大川橋蔵死去

歌舞伎・時代劇俳優。

大川といえば何と言っても『銭形平次』。
18年・全888回の長期放送は、ドラマとしては今じゃちょっと考えられない記録だ。
小学生の頃水・日の週2回書道教室に通っていて、水曜夜8時に終わり、家路に着くと、祖母が『銭形平次』を観ているのがお決まりのパターンだった(その為フルで平次を鑑賞することはなかった)。
小6の秋に書道を辞め、代わりに学習塾に通うようになってからも、たまたま水曜8時までという講義スケジュールだったので、帰宅して途中から観るというパターンは変わらなかった。

長く続いた平次も1984(昭和59)年4月4日に終了する。
はっきりと思い出せないが、塾の講義が長引いたか何かで、その日に限り帰宅が遅くなり、結局最終回を観ることが出来ず、現在に至るも未見のままである。
いつか是非じっくりと鑑賞したいものだ。

平次が終わって僅か8ヶ月後、大川は55歳の若さでこの世を去る。
訃報に接した際、まるで平次を演じ切るまで延命させられていたかのように思えた。


12月5日/ 今日は何の日

2012-12-05 00:15:00 | 忌日

(2000年)鈴木その子死去

スタートは料理研究家、後に美容研究家にもなり、そちらの方がより一般的なイメージとなった。
それを決定づけたのは、あの独特の白塗りメイク。
明らかに過剰なメイクだったが、本人にはそうとは思えなかったのだろう。

90年代後半、急にメディア、それもテレビへの露出が多くなり、仕事量が激増したが、もしかしたら働き過ぎで体調に異変が生じたのではないか、とも想像される。
あの横井英樹の邸宅跡地を手に入れたと伝えられた時、何となく嫌な予感がしたが……いや、そういうオカルトめいた話はよそう。
科学的根拠はないのだから。


12月3日/ 今日は何の日

2012-12-03 00:15:00 | 忌日

(1999年)スキャットマン・ジョン死去

スキャットによる独特の唱法で注目を浴びたシンガー。
全く予備知識のなかった当初、失礼ながらただの色物的存在かと思ったが、実は彼は吃音症を患っており、そのハンディを逆手にとって生まれたのが唯一無比のあの歌い方だと知り、認識を改めた。
ハンディを嘆くのでなく、それを肯定的に働かせる発想は素晴らしいし、また、インタビュー等で見せる明るいキャラクターも大変好感を持てた。

デビューは52歳、亡くなったのは57歳という遅咲きだったが、決して不幸な人生ではなかったと思う。
人間どんな困難に遭遇しても考え方ひとつで道が拓けることを実証した彼の姿は、同じ障害を持つ人に限らず、多くの者に生きるヒントを与えてくれたのではないか。