Drマサ非公認ブログ

日本立場主義人民共和国

 映画「れいわ一揆」の終盤で、安富さんが言った言葉、それは「日本立場主義人民共和国」である。

 一度見ただけで、ぎょっとした瞬間だったので、「大日本帝国立場主義人民共和国」だったかもしれない。どちらにしても的を得た命名だ。

 本ブログでも【「役割」「地位」は不幸の元】というブログを書いたばかりであるが、立場は役割や地位で決定するので、おこがましいが、同じような見方をしているのかとも感じた。違いは、僕の方は社会学者ゴフマンの分析が近代批判に向かうのに対して、安富さんは現日本に向かっている。

 ただ現日本が現日本であること、つまり「大日本帝国」は日本が近代化を無理やり取り入れる中での富国強兵や殖産興業によって構築された価値意識に焦点を当てている点で、やはり近代批判でもある。ちなみに「大日本帝国」という言葉を使っていたのが正解なら、日本の支配構造への皮肉だ。

 これら富国強兵と殖産興業が経済学批判から、あるいは経世済民という本来の経済のありようから観察した場合、表層的には人々を幸福に導くように見えるが、その深層では、日本人を壊してきたのではないだろうか。

 これについては、きちんと研究が必要であるから、示唆に止めるとして、立場主義の具体的例を挙げておこう。

 諸外国でも、あるいはいつの時代でも立場は存在しているし、社会的機能を果たしている。ただこんな場面を想像してほしい。

 米国の警察ドラマでの1シーン。型破りの刑事が上司に呼び出されて、「二度とこんな真似はするな。今度やったらクビだぞ!」と。その刑事は渋々ではあるが「ボス、わかったよ」と。

 ところが、仕事が終わって一杯飲むシーンになると、二人が肩を組んでいたりする。しかも和気あいあいに。お互いファーストネームで呼び合っている。

 仕事の場面では立場が優先され、上司と部下の関係になる。ところが、プライベート、つまりは仕事を終えれば、ただの友人関係に変貌する。

 これを日本で考えて見てほしい。仕事が終わった後も、上司は上司。部下は部下。それはそれで信頼や親しみもあるだろう。しかし、プライベートでも立場が優先する。というか、これはプラベートではない。

 ある社交の場面で、2人の妻同士は夫の立場に従った行動をすることになる。部下の妻は上司の妻に従ったり、やけに気を使う必要に迫られる。ここにも立場主義がある。こういう立場を守れば、それなりに上から目をかけてもらえる。つまりはパターナリズムだ。立場主義は労働と余暇全般を覆うのだ。

 かつて渡辺京二の本を読んでいたら、江戸時代に武士と町人がコミュニケーションするとき、最初は身分の違いを意識するが、すぐにも対等に話をしただけではなく、いじったりしたようだ。

 そうだとすれば、立場主義が日本文化かどうか、伝統であるのかどうか?少なくとも疑問は生じる。

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