マスコミやネットの言葉は現象であるから、その言葉を鵜呑みにしていては、「考え」ているとはいえないという話。「考え」にとっては現象はいいとこきっかけで、そこから志向するのは本質である。では、本質とはという問いが生まれざるを得ない。
本質は、そのことが何であるのかを指す。ただ直裁に指示する。現象は直截に指示されている世界ではなく、付随する出来事であるから、現象と本質はやはり違う。そのことが何であるのかを「考え」るとは、そのことが自分にとって何であるのか、その価値を”知る”ことである。”知る”とダブルクーテーション・マークで囲ったのは、知るという営みが、自ら捉えるということを強調するからだ。
だから、マスコミやネットの言葉、世論を自分の言葉かのように語る行為とは、全くもって反対のベクトルを持つ行為である。
で、本質を考えるとは、その事物・事象そのものの価値を知ることである。あるいは、そのような本質へ向かう知的営みである。
たまたま目の前に結婚に関する本があるので、結婚の本質についてであるならば、例えば結婚するときに大切なのは経済力であるというよくある言説がある。これは説得力をもって社会に流通している。テレビなんかで女性が「やっぱり大切よねえ」などと述べているシーンを観る事がある。
しかしながら、これは結婚の本質ではない。結婚に付随する現象に対する評価にすぎない。なぜなら結婚における経済力は、人それぞれであるわけだから、相対的なことにすぎない。人によっては、「大切なのは経済力ではない」「どうにかなるよ」と多様な意見が生じる。だから、あくまで結婚に付随する現象である。ということは、多くの人々は結婚に付随する現象の部分をあたかも本質かのように振る舞い、そして生きている。
おそらくそれでも結婚の本質、つまりは結婚の価値が、結婚と経済力の関係を無効化することもある。あるいは、経済力を本質と勘違いするならば、その関係は破綻するしかない。
人間というのは、自分が価値があると思うことを行うこと必定なので、本質ではない付随する現象(それは世間では価値観という)を価値として、それを追い、信じて行動するとは、何を追い、信じているのだろうか。「考え」は、このような狂想から救い出される道になるはずである。
現象、現象に付随するよくある世間の価値観に振り回されるとは、一体何をしていることになるのだろう。本質(人間にとっての価値、大切なこと)ではないことに、振り回されるのだから、生きることの失敗にならないだろうか。
もう少し続けるかなあ