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Drマサ非公認ブログ

頭のいい若い人について

 リテラ(https://lite-ra.com/2019/01/post-4464.html)というサイトを読んでいた。

 テレビでもよく見かける若手の学者、古市憲寿さんと落合陽一さんが差別的であり無知を晒したとの批判記事である。何についてかというと、高齢者の終末期医療に関してであった。金の無駄遣いなので、社会保障費削減が必要な時代にあって、やめた方がいいとの指摘を『文學界』(2009年1月号)でしたとのことで、命の選別を肯定する差別性に批判をあびせたわけだ。

 その後、落合さんのほうは一部誤りを認めて訂正したとの事だが、詳細はリテラの記事で読んでほしい。ちなみに僕自身もまた終末期医療の中には無駄なものがあるのではないかと疑っているし、生死を医療というシステムに決定されることにも違和感を抱いている。

 また、長生きが目的となるようの生のありようはラディカルな批判が必要だとも思う。プラトンではないけれど、「よく生きる」ことが大切なのであって、僕たちはそのことを忘却して生きているとも思うからだ。

 ただ僕は彼らと違って、無駄遣いであるとかコストという観点から終末期医療の削減を指摘する気はさらさらない。なんかLGBTの生産性の問題と同じような論理が控えているような気がする。

 僕は人間の命は誰から授かったのかもわからない摩訶不思議な存在だと思う。生まれて来た時はもちろん自分の意志ではないし、親の意志かというと、そうとも言い切れない。何だかよくわからないのに与えられた命だと思う。まあ一応親から授かったとしておくことが約束事ではある。

 また死ぬ時もまた自分の意思で死ぬというのにはなんか無理があるし、誰かの意思で死ぬというのも何だかやっぱり無理がある。なぜなら誰の力で生まれて来たかもわからないのだから、死もまた誰かの勝手にしていいとは到底考えられないからだ。もちろん国家の予算の都合で死ぬ時期が決められるなんて、そんな馬鹿な話があるかと思う。

 この話をちゃんとやりだすと哲学になると思うけれど、そんな力もないし、ご容赦いただくとして、僕は若い高学歴の人々にある特徴があるのではないかと疑っている。ちなみに僕は最高学府出の人を数多く知っている。ただ実証されたことではないので、勝手な意見にすぎないことは断っておく。

 彼らは頭が先行していると思う。よく言われるようなことではあるが。すぐに具体的出来事に理念的なことや法則などを適応する。僕などは経験がないことはわからないという部分が大きいと思うのだが、彼らは理論的な議論を適応して理解したと思っている。

 だから、終末期医療にある老人について意見を述べることになると、理論的な問題として考察することになる。僕であれば、社会経済的な統計から導かれる理論や思想の前に、実際に今死に直面している人物のありようや思い、そしてその家族などの共同体の思いなどを想像しようとするし、そういう経験もあるので、そこから考えてしまう。僕はこのような思考方法を直(じか)の思想と名付けている。

 だから、彼らは今目の前で死に直面している具体的な人間よりも、抽象化された統計的事実としての人間を優先させる。国家のコストとはこういう思想から導かれる。これが頭が先行しているということだ。これに国家というバーチャルな存在を接合するわけだから、予算の無駄遣いという考えを導き出すのではないだろうか。多くの人たちの思考方法でもあると思う。

 国家の前に、目の前にいる人間こそが存在としての第一義である。このことを知っていることの方が、本当に頭がいいということだと思う。そんなことを思ったりしてみた記事であった。

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