では、同調はどのように作られるのか。
他者の存在を感じ合うことで、仲間としての認識が生じるということです。で、感じ合うことであって、一方ではなく、相互的(間主観的)であることが重要です。仮に一方だけが存在を感じているとして、もう一方が感じていないとすれば、感じている方がどのように感じるのか?簡単、無視です。
人間は無視には耐えられないようなのです。無視されれば、どのような気持ちになるのか振り返れば、簡単に理解できることです。
ちなみに動物はグルーミング(毛づくろい)などの身体的接触によって同調しますが、いったん離れてしまうと、群れの中の仲間であると認識できなくなります。人類学者の山極寿一先生からの知見ですが。
人間は何年も会っていなくとも、つながりを感じるものです。僕個人でいえば、40年も会っていなかかった小学校の担任と会って、ホント嬉しくて、嬉しくて。猿じゃなくて、よかったですよ。
人間は身体的なつながりが当然基底に存在するわけですが、ここで人間だけが持つ能力が関わってきます。言葉です。言葉があるので、身体的なつながりがなくても、つながりあっているとの認識が稼働する。
よく言われるのが、ここに脳の発達が関与しているということだ。通常人間の集団規模は150人程度までと言われる。ダンバー数と言われる。古代社会の部族の規模でもある。この範囲では顔を認識し、共同性を確保してきたわけだ。
ところが、言葉を使った情報処理ができるようになると、150人を超える集合性を認識できる。ここで集団に抽象性が与えられるのだ。言葉があるから、集団は拡大し、そのうち国家が成立していく。民族や宗教の大きな集団が。
しかしながら、信頼はもともと同調によって作られる。だから言葉で信頼を作ることはできない。しかし言葉でつながることで、信頼が作られる。だから、この時点で信頼自体が抽象的になっている。聖書の言葉を信じるというのは、人間の抽象化能力それ自体である。ただ、そんなことは意識化することができない。
そこで、言葉を信じるということを自明視するために、言葉を大切にし、言葉で表現したものを約束として重要視して、人間社会の規範とし、法とさえする。
このようなメカニズムは無意識化しているのだろうが、頭の中で言葉を媒介として仲間とつながっているにしても、そこには身体的なつながりの感覚を得られないということになる。翻って、だからこそ言葉を大切にするという規範が強化する。
言葉を使うことで集団は大きくなったが、そこにはお互いが繋がっているという感覚があやふやになる、そんな矛盾に生きているのだろう。