現代社会の特徴にマクドナルド化がある。マクドナルドとは皆が知っている、あのマクドナルドである。社会学者リッツアーが提唱する概念で、現代社会はマクドナルドが象徴するように、徹底的な合理化、効率化がなされているということである。
かつて工場で働く人は組み立てラインの中にあって労働することで、大量生産が可能になったので、人々は豊かなモノを享受できるようになったのだが、これは近代社会の特質のひとつである合理化の表れである。もちろん効率的にモノを生産することができるようにという事である。
このような効率化は、モノの生産だけでは留まらず、飲食業やサービス業、生活全般にも広がる。これがマクドナルド化である。前回はコスパをあげたが、今回は効率的なっている事に過剰や価値をおく社会になったけど・・・という話である。
ついにはマクドナルドのようなファストフードが象徴するように、食事も組み立てラインのようになっているというのである。例えば、「並ぶ→注文→商品受け取り→席を探し座る→食べる→ゴミを捨てる」という一連の流れである。
一昔前なら、飲食店に入れば、客は勝手に席に着いたし、ゴミを捨てたりはしない。これらは店員の行動を客が行う飲食店の中での効率化である。人件費削減にもなる。なんせアルバイトも多いし。こういうあり方が「脱人間的な状況」という。なぜなら、店員も客も誰でもいいのであるから、ひとりひとりの人間の顔が見えなくなるからである。
こういう社会になっていて、これがデフォルトになっているので、そういう状況になんら疑問を持つこともないのだが、それでもやはり、「昔と変わった」とか「店員のマニュアル通りの接客が気に食わない」とか、そういう思いは抱くものでもある。このデフォルトが規範として身につき、それを規範とすれば、接客等サービスを、その規範のみで評価してしまう。なんせ若い人にとって、そういう世界がデフォルトだから。
そこでオモウマい店である。登場人物に顔がある。人間臭さがある。まさにマクドナルド化されていない。そこに視聴者は魅力を感じるのだろう。ただ今のデフォルトから見れば、批判も出てくるのだが、そうすると、「人間の顔」が現れることを忌避し、社会学者リッツアーが指摘した「脱人間的な状況」に適応していることになる。つまりかつての「人間」が否定される。
でも、人間は効率的な存在ではないし、システムの効率性に従属しなければならない、そんなわけはないでしょう。
そうこの番組では、昔の日本が現れているように思われてしまう。タレントのヒロミが「昔こういうおじさんいたよね〜」と思い返すのが、そのよい例である。