森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない 精神科医「自殺希少地域」を行く』青土社2016という本がある。
徳島県の旧海部町(現海陽町)は、自殺で亡くなる人が少ない町だそうだ。そこに精神科医が行ったルポ兼研究の本が、これである。おもしろい。
そこの町の人の特徴は、人のことや小さいことを気にしないというのである。初対面の人に「お菓子を食べて」とお菓子をくれる。でも賞味期限切れ。まあ大したことではないだろう。でも賞味期限を気にして生きているのが、僕たちだ。
人に親切に何かしてくれるが、してくれたはいいが、やりっぱなし。相談を受ければ、親身に聞いてくれるが、何も答えを与えることもない。説得することもない。聞きっぱなし。でも相談した人が納得するまでは付き合う。これがコミュニケーション能力かとも思う。
この本を読むと、生きやすいとは気にしないことである。そして、自分がしたい事をする事であると思わされる。
それと比較して、僕たちの社会は何でもかんでも気にしながら生きている。道路は危ないとか、泥棒が家に入るかもしれないとか、消費者ん趣向はどのようなものであろうかとか、友達に嫌われるんじゃないかとか・・・
そういえば、僕は子供の頃友達に嫌われたらどうしようかと思ったりはしなかった。今は、そういうことが人の関係の規範になっている。だから「嫌われる勇気」なんかが言われるのだろうと思う。アドラーはどう思うのだろうか。
このような他者の心を気にしたりすると、おもてなしや思いやりとか、気配りが大切なように思えてくる。でも、そのような思いが過剰になれば、自分の生きやすさは損なわれていくだろう。あげくは消費者の気持ちになってというが、実はその前提が儲けることになっているだけだ。そして、気配りが大切という価値観と儲けが交換関係になっている。損得勘定だ。
そんな事を考えさせる本だ。
そこでオモウマい店である。そういう交換関係があまりみられないのだ。
あくまでオモウマい店で働いている人が、大盛りにしたいから大盛りにしているだけ。安くしたいから安くしてるだけのように見える。お客さんの喜んでいる顔が見たいだけ。そういう「自分がどうしたいのか」それが先行している。
それでお客さんが喜んでいる。「お客様」ではない。顔が見えるお客さんなのである。客側が喜ぶのだが、そのサービスのあり方は自分勝手である。なぜなら、あの大盛りは残ってしまう。客の胃袋の容量は関係ないかのようで、「さあ、食うてみろ」とでも言うのかのように、大盛り登場である。あげたいから、あげているだけだ。
人を気にしているようでいて、それほど気にもしていない。僕たちが住む都会生活では需要と供給でできていると信憑するが、それはどうも重要ではないように見える。
そういえば、アダム・スミスは人々が自由に経済活動すると、結果的に需要と供給のバランスが取れて、適切な金額になると言っていた。人間は自由に、勝手にやりたい事をやると、社会は意外とうまくいくということを言いたかったのではないかと思ったりするのである。
僕たちの社会はなんだか気にしすぎの社会になっていると思う。そして心配りに偏った価値を与えているのではないかと思わせるのだ。