Drマサ非公認ブログ

杉田水脈、小川榮太郎、新潮45について思った事⑻

 僕は杉田氏、小川氏両者の議論からニーチェの超人思想を想起していた。

 超人は畜群を徹底的に批判する。畜群とは皆と同じとすることを良しとする人間の群どものことである。畜群は私たちの時代の大衆の存在様式に当てはまる。権利を主張するLGBTを畜群のように見ているのではないかと。

 僕自身がこのように思ったということに過ぎないかもしれない。しかしながら、このこと以上に僕が考えてしまったのは、杉田氏や小川氏は自らが超人思想を持つ者として、我々を畜群としみなしているのではないかという疑問である。いいや、権利を主張する者すべてを畜群であるとみなしているのではないかと。そのことを彼らが超人という概念から理解していたということではないかもしれないが。

 先の淵源が内容を規定できない不可思議な存在様式であったのと同様、ニーチェは超人自体の内容を規定していないということを思い出す。あくまで否定弁証法的に畜群を否定するところにおいて、超人を説明する。つまり、ニーチェは超人が何であるのかを決して語らないのだ。ただ何でないのかということだけを語る。

 超人思想が人類にとって負の遺産を作り出したと評価されることがある。

 超人は自己超克を極め、向上心を抱き続ける。そのとき、彼は超人の反対にある畜群を具体化して、自らのイメージを確定しようとする。畜群は永遠化されるものとして有徴化される。その時、呼び出されるのが弱者である。当時のドイツが呼び出したものはユダヤ人である。歴史的にどのような出来事が生み出されたかは説明不要であろう。

 このような意味内容を確定できない事態に陥ったとき、その反対側に弱者を呼び出し、彼らを排除することで、自らの思想を普遍化しつつ、正義化する。ゆえに結婚や家族の淵源であれば、LGBTは有徴な存在として呼び出され、プロパガンダされる。それは無意識的な機制には違いない。

 そして繰り返すが、彼らが想定する現代の畜群は権利を声高に主張するものに違いない。それは大衆社会の中の具体的な大衆像である。大衆の道徳は「万人平等」でもある。

 どうして、杉田氏、小川氏の思想が左翼批判に向かうのかというと、弱者を忌まわしい者として、否定することによって、自らを高き者とする倒錯があるからではないだろうか。そうすると、現代社会において、権利を主張する者たちは都合のいい対象になってしまう。自らを高き者とするためには、その反対に低き者が具体的に存在していることが必要になるわけだ。

 ニーチェが高き者(貴族)という時、高き者には外的な刺激は不要である。しかしながら、淵源のような、超人のような超越的な存在を想定した時、その反対にいる弱者を具体化してしまおうという弱き精神が入り込む。ここを回避することこそが、高き者としての最後の分かれ目であろう。

 あの日本会議的な同調圧力に身を寄せる者は、自らを高き者として、誤った自尊心をくすぐられているに違いない。あるいは、面白いと感じたに過ぎない者がその面白さを繰り返すうちに、ベタに信じるということもあるに違いない。

 ただ僕たちが繰り返してはいけないものは、ニーチェ思想が反ユダヤ主義となり、アウシュビッツを生んだような惨劇である。そして、ここは日本である。日本的な排外主義が日本的な表現を持つ惨劇を生み出さないように見張る必要があるかもしれない。

(この項、とりあえず終わり)

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会問題」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事