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Drマサ非公認ブログ

杉田水脈、小川榮太郎、新潮45について思った事⑺

 実は僕たちが看取しているのは、それぞれの現象でしかない。これを結婚や家族に適応すると、僕たちは結婚の様々な現象、家族という様々な現象を見ているだけである。ところが、そこで人間が想定しまうのが、それぞれに本質が含まれているという考えである。

 これはプラトンのイデアを思い出させる。イデア論は観念論にすぎないとの批判を受けるが、イデア論からすると、美には美のイデアが本質として存在しているとの考えになる。ここで重要なのは、その美の本質を具体的な言説として表現できないとの考えが含まれていることである。結局のところ、美という現象しか僕たちは見られないのである。

 だから、結婚も家族もその本質を具体的な言説にすることは難しいし、その始原こそが本質であるとは言えないのである。

 だからといって、僕は淵源を否定しているわけではないし、淵源などないと言いたいわけではない。ある鋭敏な知性は歴史的淵源を志向すると思う。

 ただ淵源は特異な存在様式をしていると考えた方がいい。人間の経験においてその始原でありつつ、超越的であるということは、じつは具体的な様相を露わにしないということだ。淵源は志向される形式であるが、具体的な内容を拒否する。

 例えば、ドーナツの穴のような存在だ。丸く真ん中に穴のあるドーナツにとって、ドーナツの穴はドーナツではないのに、ドーナツであることを示してしまう。ドーナツの穴には何もない。そもそもドーナツではない。そういう無として存在している。

 そもそも無は存在しないのだから、「無として存在している」との表現は明らかに矛盾する。しかし、そのような表現をしてしまうしかない(非)存在である。

 淵源もまた同様である。淵源の内容は無のように何でも取り込むことが出来るが、じつのところ、何かに占められてしまえば、本来の淵源から遠ざかる。人間には具体的な様相を見ることもできず、想像するしかない。プラトンのイデアである。本質であるが、内容を規定してしまえば、本質から遠ざかる。洞窟の穴の比喩の通り、具体的には見ることが出来ない。

 なぜ小川氏の家族の淵源という考えに違和感を持つのかというと、彼は淵源を異性愛や子供を生み育てる生殖家族に限定してしまうような言説を唱えてしまうからだ。

 そもそも淵源は規定不可能であり、人間を超越している。それなのに、超越した不可知な存在、形式として「淵源」との言葉でその匂いを感じるしかできないにも関わらず、「歴史的淵源としての家族」を規定してしまうからである。規定できないものを規定してしまうのは錯誤であり、認識における政治的な振る舞いに過ぎない。

 構造主義的に言い換えてみよう。じつのところ、パロール(現象)でしかない家族像をラング(構造)の本質としての家族に読み替えているのである。パロールはラングから生成するが、パロールこそがラングを変容させる。ラングもまた変容するのだが、そこには、この場合家族だが、家族の本質を具体的像もないまま想像するのである。僕たちは同性愛者の結婚をいまや結婚とみなすことに慣れはじめている。

 小川氏もまた時間をかけ、人々が認めるようであれば、同性愛者の結婚を認めざるを得ないとしている。それはパロールとしての同性愛者の結婚がラングとしての結婚の有り様を変化させるからである。

 そうであるにも関わらず、現象を本質化してしまっている。そこに問題が忍びこむ。結婚を異性愛や子供を産み育てることという一つの現象の形式を本質としての結婚にしてしまうこと、そこに問題が生じる。

(つづく)

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