安田純平さんが解放された。本当によかったと思う。それに尽きる。
シリアでイスラム武装組織に3年4ヶ月もの間拘束されてきたのであるから、解放されたといっても、精神的な面は心配だし、彼の家族もまた彼を支えていくことに大きな負担が生じるだろう。家族の周りにまた支える人たちがあって、好循環が生じてくれればなあと切に願うところである。
それにしても、あいも変わらず自己責任論である。例えば有名人が「この人は失敗したんじゃないの?」などと指摘したり、ネットには「プロ人質」との揶揄まであって、近代国家におけるジャーナリズムの位置づけを本当に日本人は知らないと思わざるを得ない。
民主主義が成立するためにはどうしてもジャーナリズムが必要なのである。どうしてか?憲法と同様の理屈がそこにある。
国家はリヴァイアサンに成り得る。我々国民に向かって我々の基本的人権を蹂躙することさえある。そこで憲法を国家(権力)に与えることで、リヴァイアサンにならないよう制限を与えたのである。いわゆる立憲主義であるし、近代国家における知恵である。
一応断っておくことにするが、国家がリヴァイアサンになることなどないと考えるなら、近代国家であることを破棄すると内外に宣言するしかない。この問題については、ここで深入りするのはやめておこう。
国家が国民に知られたくないことがあった場合、それを隠そうとする。そうすると我々は正しい判断をすることができないし、最悪の場合、基本的人権を損なう事態にさえ成り得る。だからといって、国家が隠していることを我々が暴き出すのは難しい。そんな暇は残念ながらない。生活や仕事があるからだ。
そこでジャーナリズムが要請される。ジャーナリズムは我々国民になり代わって、我々に知らしめるべきことを伝えるために活動を行うのだ。この活動なくしてなにがしかの判断すらできないのだ。よって、民主主義が成立するためにどうしても不可欠なのである。我々国民からすれば、知る権利になる。
これは国際社会の問題に関しても同様である。どのような問題が生じているのか、我々に知らしめてくれなければ、自国の姿勢や対応に対して、判断することができなくなる。また、ある国家に他国のジャーナリストが入り情報を提供できれば、世界の視線に晒される。そうすれば、ある国家の暴走を止める力になり得る。
民主主義の成立には必ずジャーナリズムが必要なのである。
ジャーナリズムなければ、民主主義は成立しないのである。
かつてフランスのオランド大統領がフランス人ジャーナリストの解放に際して、空港まで迎えにきた。どうして大統領がそのような対応をしたのかといえば、民主主義を守るために命をかけたことに敬意を表したからだ。
加えて、どうして身代金の支払いに対して、当のジャーナリストに批判が出ないかというと、実は同様の考え方があるからだ。ジャーナリストが危険を冒した結果生じた不利益は民主主義のためのコストであるから、仕方がないという了解である。ジャーナリズムは普通の仕事ではない、民主主義という点で、特別な価値をもつ仕事だ。
これがジャーナリズムの原理原則である。歴史的に築かれたジャーナリズムの意義である。私はそうは思わないといった個人的な実感が出てくる場所ではない。
この原理原則が身についていれば、ジャーナリストに身代金が使われようが、仕事に失敗しようが、民主主義のための活動であるから、しょうがない。その程度の問題は引き受けるしかない。失敗したと非難したり、成果主義を適用して非難したりなど、この原理原則から遠く離れた日常的な実感から生じた価値判断に過ぎない。
この原理原則の元、もう少しうまいやり方があるのではないかと議論するならば、次のジャーナリストの活動にとって有意義なものとなるに違いない。
日本人としての振る舞いとしていかがなものかという批判もあったが、その批判もまた原理原則のもと、その次に行われるべきことだろう。批判するにもプロセスを踏む必要があるのはいうまでもない。それを思ったことを反射的に話しては有意義な議論になりかねる。
日常的な実感の中で、ジャーナリストが民主主義のための活動であるなどと普段は思いもしないだろう、日本人は。しかしながら、このような生命の危機のある時ぐらいは、そのことを思い出してもいいのではないだろうか、日本人も。
昨日、安田さんは記者会見を行った。ここからジャーナリストとして真実の姿を伝えることに全力を挙げてもらえればと思うところである。
それにしても、日本には民主主義が浸透しているわけではないと再確認させられる出来事であった。