Drマサ非公認ブログ

エティエンヌ・ド・ラ・ポエシ『自発的隷従論』

 この本は16世紀に書かれている。多数者が1者に隷従する、実に不思議なことだ。なぜなら多数であるのだから、1者より強いではないか、そういうあまりに当たり前な事実から、どうして現実が1者(つまり少数の支配層)に隷従するのかと問うている。

 そもそも自発的隷従は「自発」と「隷従」が同一地平で成立している変な言葉である。「自発」すれば、普通自由に生きられるはずではないか。特にヨーロッパでは、「自由」は奴隷として扱われていないことを意味している。だから自発的隷従は自ら自由に選んで隷従するという意味だ。フロムの『自由からの逃走』を思い出させる。

 ラ・ポエシは隷従を次のように言う。人は最初は力に負けて強制されて隷従する。しかし、それ以上に問題なのが、その後の人々はその隷従状態をただ受けいれて隷従することになり、そのことに疑問を持たない。そのためそういう隷従状態の元で成長する人間は、隷従状態さえ隷従であることに気づかず、それを自然として受け止めて生きて行く。

 とすれば、隷従を自然とする人は、他者が隷従であると主張したとしても、その他者が何をいっているのかわからないだけでなく、異常な人間とさえ見てしまうだろう。

 ある哲学者が常識的な見解を否定するような語りをした際、その哲学者に対して多くの批判がなされることがあった。暴言まであった。ちょうど死に関する事だったので、人々の気持ちを逆なでしてしまったのだろう。ところが、そのような中で、その哲学者を批判する者達に対して「時代や社会の枠組みを考えるのには向いていないようだ」と批判を返す意見があった。

 自分たちが信じている価値観や人生を傷つけられると、このような状況を生み出すのだと思う。だから「時代や社会の枠組み」を考えるには、それらを対象化する必要があるのだが、そういうことに大抵の人々は向いていないというか、学んではこない。

 だから自分たちが隷従しているなどとは思わず、現状を肯定する立場になってしまう、そういう心理が働くと思う。そして、この構造の中で良いものを探ろうとするが、結局構造としては隷従であるから、良い奴隷になるよう生きることになる。ちょうど日米安保や地位協定が隷属であるにも関わらず、日本の生き方はそうあるしかないとでも言うように。

 自発的隷従は権力的な支配構造を可視化する道具にはなる。彼がこの本を描いてから400年も経つけれど、僕たちが隷従している現実を今も照らしている。

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