現代日本で、承認の問題がよく取りただされる。
承認欲求が強いとか、SNSの「いいね」が承認なのか?とか、犯罪の根元に
承認の問題があるとか、子供と親の間の承認についてなどなど。
そこで、より総体的な承認の問題について手短に言及してみようと思う。
僕たちが生きる世界は2つに分かれると考えることができる。1つは形而下(physical,material)で物質的なものである。形而下のものは記号としても現れる。もう1つが形而上(metaphysical)で、形而下である物質や感覚的なものを超えた存在として現れる。
形而下は物質的、身体的である。その意味で、僕たち人間は食べたり、家に住んだりという存在である。身体という点で、食べないわけにはいかないので、人間が物質的存在であるのは必然である。
物質や身体はまた記号化する。そうすると、ブランド物を欲しかったり、綺麗になりたいという欲求へと繋がる。金持ちになりたいとか、有名になりたいとか。これらを手にしていれば、承認されやすいのであろう。
ただ人間は物質的存在というだけでは理解し切ることはできない。そこに形而上的な領域がある。
これは精神的存在であるという「言い方」で理解されるような領域である。だから逆説的に定義できる。つまり、物質的な欲求、あるいはそれを源にする記号的な欲求ではない欲求である。
西洋であれば、キリスト教がもたらす価値意識であったろう。日本であれば、武士であれば、忠誠だろうか。そのような物質的富を乗り越えた価値意識である。素朴にいえば、愛であるとか、威厳であるとか、神、正義、あるいは真理への志向性である。そういう精神的価値である。人によっては、この価値のためであれば、死をも厭わない、そういう超越的な価値である。
超越的な価値にコミットすれば、どんなに貧かしかろうが、承認はなされたものだ。
僕たちの社会では、個人レベルでも、国家レベルでも、このような精神的価値を失い、物質的価値、つまり形而下の価値のみに価値があるかのようになってしまっている。
プラトンが言っていたと思うのだが、金や評判、名誉のことばかり気にして、魂を優れたものしようとすることに無関心なわけだ。
(つづく)