うちには同じ茶碗が二つある。30年ほど前に買ったものだ。瀬戸物なのに分厚くてしっかりしていて丈夫なので壊れることもなかった。
でもつい最近、片方が欠けてしまった。いつ欠けたのかわからないが、きっと洗い物をしているときだろう。
お皿やコップが割れるときはだいたい洗い物をしていて手が滑ったときだ。
片方が欠けてしまったために、今まですっかり同じ二つの茶碗だったのに、片方が欠けたもの、という個体差が生まれてしまった。
茶碗は私と夫で使っているので、今まではまったく同じ茶碗なのでどちらが誰の、という意識は当然なかった。
しかし片方が欠けてしまった今となっては、なんとなく欠けたほうが自分が使うほう、という意識を持つようになってしまった。
欠けているのがわかって夫にだすのはなんとなくダメな気がした。
といっても夫はそんな細かいことを気にするタイプではないし、欠けていようがいまいが気にしないというか気づかないと思う。
でも私の気持ちの問題で、これは私のほう、という意識が生まれたらそうしないとなんとなく気持ちが悪いのだ。私の性質なのだ。
欠けてしまったがために同じ二つの茶碗がそれぞれの茶碗になってしまった。
そういえば共用の複数あるもの、その中で自分専用を勝手に決めていたことはないだろうか。
たとえば、学校のバスケットボール。ちょっとマークが違うものが一つあって、かっこいいからそれを使う。
たとえば、職場のボールペン。一番書きやすいペン。なるべくそれを使う。
たとえば、いきつけのスーパーマーケット。一番端のレジに並びたい。出入口に近いから。
そんなふうに意識的にか無意識的にか、なにかを選びながら人は生活しているのだ。
茶碗が欠けてしまったことにより、選ぶという行為が生まれたことを少々面倒くさく思う。