VIVA! HOUSEKEEPING

根来寺と覚鑁について想う


さて本日は 梅雨らしく雨模様 未明から シトシトピッチャンシトピッチャンである
娘を連れて どこか子連れ狼しようと思っていたけど フタ じゃね ランドセルを開けて ビックリ

娘の習熟度が いまいち低いことがハンメー!!! 小学校のテストが来週にせまっているというのニダ!!!
お出かけどころではなく オベンキョタイムになった わからないという娘と じっくり向き合う

まぁ 親ながら 難しい事やってると思うわ ホント 自分ならできなかったと思うし 子どもながら尊敬するね

さて こんな雨の日は毒書に限る この処 紀ノ川のあたりの事を考えている
紀ノ川流域と言えば 古来より様々な文化風土事象があげられるけど 興味があるのは "根来衆"について

根来衆というのは 戦国時代に 紀ノ國北部 今の岩出市にある根来寺を中心そして居住した 僧兵集団である
雑賀衆と同様に 鉄砲などで武装し 傭兵集団として活躍した で 根来寺である 

根来寺は平安時代に 空海以来の高僧と言われた 覚鑁(かくばん)大師が興した

ねごろ っという音は 日本語としては 丁度いい頃合い っとでも言おうか 〇〇〇の食べごろとか そういう風に
古来より木地師が活躍したこの地は 山の木(根)を見つけるのにちょうどよい頃合いの処 っという解釈ではなかろうか

覚鑁大師に深く帰依した鳥羽上皇が この地に紀ノ川沿いの荘園を寄付した 覚鑁の死後も領地は増え続け
ついに 戦国大名並みの大勢力に發展する 江戸時代の石高で言うと約70万石 薩摩藩ほどの規模である
その後秀吉によって 滅ぼされるまで 抜きんでた鉄砲集団として 四方から恐れられた

覚鑁は佐賀の人で 生家の伊佐家は土地の豪族だったようだ 9歳で土地の寺に入り 仁和寺 興福寺と学んだ
その後仁和寺に戻り 真言密教を学び 空海以後 行と学の両方で 最大の人物になったそうだ 

よほどベンキョするのが スキだったのだろう

空海の密教学は 彼が完璧に仕上げたようで 後継者はなすべき事がなく 後を追うだけだったようだが
彼はそこへ浄土思想を加える事で 大きく新展開させた 彼は日本人には少ない 思想家的資質があったのだろう

この間に鳥羽上皇というパトロンを得て 声望も厚く 荘園の寄進も続いた
とにかく 彼が高野山大伝法院の座主になったという事は 密教大学の総長になったようなもので さらに鳥羽上皇は
院宣(天皇の発する宣旨に相当)で 金剛峰寺の座主にした しかし 短期間で異例の出世に 周囲の反感を買う

高野山を揺るがす排訴運動に 彼がやったことと言えば 千日無言の行くらいで その後追われるように 山を下り
そのままこの根来の地に入り 以後ここを法城とした そんな 数奇な運命をたどった 覚鑁の研究は 非情に少ない

櫛田良洪 『覚鑁の研究』 1975(復刊1992) が有名な処かな 

覚鑁は根来寺で死んだ 1143年 頼朝が生まれる4年前で 平安期は終わろうとしていた
覚鑁は 8月4日に發病し 12月12日 東方に向かい(西方ではない)定印を結んで 入滅した

彼の死後 寺は隆盛した 武士の勃興までは 僧兵の時代だったといってよい
彼の流派は 新義真言宗で 京の智積院 奈良の長谷寺 川崎大師や成田山など 有名な古刹がいっぱいである

川崎大師に初詣する人や 成田山に交通安全ステッカーをもらう人のどれだけが 開祖が覚鑁と知ってるだろうか
いずれにしても 彼ほどの高僧が 死してなお 歴史の日陰に佇んでいるのは 歴史のおかしみと言えるだろう

そんなことを 湊川のサロンで 厚揚げつつきながら ぼんやりと 考えた週末でした

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