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日光・奥州街道の宿として始まる❛❛草加❜❜の歴史

2018年05月13日 | Weblog
みなさん、こんにちは!

いよいよ一学期中間テストですね。
勉強の合間にもう一つ、ティーブレークの話題です。
今朝、古利根の川辺に葦が繁殖している光景を眺めていて、
草加」の地名の由来などが想い起こされましたので、書き留めておきます。



青葦原 流れ続ける 家康の威
Authority of "IEYASU" continues streaming along the plains of reed.

私たちが住んでいるこの地域は、江戸時代まで武蔵国と呼ばれ、
江戸幕府を開いた徳川家康が造成を計画して発展したところです。
家康が祀られている日光東照宮に繋がる日光・奥州街道沿いに宿場町として栄えてきました。

日光・奥州街道の宿場町(武蔵国)
千住宿→草加宿→越ケ谷宿→粕壁宿→杉戸宿→幸手宿→栗橋宿



千住宿は、江戸四宿の一つ、日光・奥州街道と水戸・佐倉街道の初宿です。
松尾芭蕉の「奥の細道」の出発点でもあります。

草加宿は江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展しました。
その誕生は今からさかのぼること400年、慶長11(1606)年のことです。
当時の日光街道の千住と越ケ谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。
そこで、宿篠葉村(今の草加市松江町)の大川図書という人物が、茅野を開き沼を埋め立て、
それまで大きく東に迂回していた日光街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。
この時、沼地の造成に沢山の"草"が用いられたことから「草加」と呼ばれるようになりました。
その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿を設けることが幕府によって命じられ、
寛永7(1630)年に付近の村々によって草加宿が設置されました。
こうして誕生した草加宿は、参勤交代や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きなにぎわいをみせるようになりました。

元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で草加宿に歩みを残しています。
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。
「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」

越ケ谷宿
越ケ谷宿は江戸にも近く、大きな宿場でした。

歌川広重『富士三十六景 武蔵越かや在』安政六年(1858年)刊行。

広重が描いた富士山を私たちも毎日望んでいます。

粕壁宿
元禄2年(1689年)「奥の細道」紀行で、松尾 芭蕉は粕壁宿に一泊しました。
「曾良そら旅日記」からの一文が碑に刻まれています。
泊まった場所は小淵山観音院の他、諸説あります。
松尾芭蕉に随行した曽良の「随行日記」には、
千住を出発した芭蕉は「三月二七日夜カスカへニ泊リ江戸ヨリ九里余」とあり、
春日部市郷土資料館では、粕壁の東陽寺にとまったと紹介しています。

杉戸宿


地域をよく観て、校舎でも地域の歴史をいっしょに学びたいと思います。
ご興味があれば、下記までお気軽にお問い合わせください。

育英進学会 草加花栗校
TEL:048-943-7883
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