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まさおレポート

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臨死体験 虚数 心と肉との分離

2018-05-29 | バリ島 不思議な話・死後の世界・輪廻・自己とは

死後の世界を説明する輪廻に限って言えば、信頼できそうな人の臨死体験、例えば米国の神経外科医、エバン・アレキサンダー氏の臨死体験に関する手記からはあの世の存在を示唆する話がある。しかしあくまでも臨死であり死後の世界とは一線を画する。従って近くまではいけるが到達できない不全感が残らざるを得ない。

次の中村真一郎の言は横の広がりに目を向けたものだ。つまり 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だから事実であると 結論する。

中村真一郎は「死を考える」の中で、次のようなことを言っている。「それが私を不愉快にしている。」というのがいかにも作りごとではなさそうな気配を漂わせる。

『ところで、私は四十歳の大患中に、心と肉との分離の経験が幾回かあったり、入院中に私の副身(ドッペルゲンガー)らしい存在の出現が、病院外で、目撃せられるというような事件があったりで、死は単純に私の願っているように、肉と魂との同時消滅を意味しないかも知れない、死は肉体にのみ発生する現象かも知れないと疑うようになり、入手しうるかぎりの、古代から現代に至る死後の世界の記述(チベットの『死者の書』など)、あるいは死の世界の訪問記(スエーデンボルグなど)、又、一旦、死んで甦った現代の人たちの告白の医師による膨大な報告、又、甦る際に、同時に甦った別人と魂の入れ替った記録、自己の前生や、更にそのまた前生への記憶の回復の記述などを、次から次へと各国語の文献によって検討して行った。
そして、極めて興味ある事実に気付くに至った。それは、ほとんどの古代から現代に至る記録が共通して、肉体の死後に、私の希望に反して魂だけ生き残るらしいという事実を示しており、その魂のこの世からあの世への移転の状況が、無数の実例によって、酷似しているという、これまた奇妙な事実である。
これは、 歴史上の時代や文明圏の相違を考える時、 まことに不思議な一致だということになり、このような、相互に全く影響のない経験のあいだに、このような一致が見られるとすれば、それは客観的な事実であると結論するのが常識だと、私は考え、それが私を不愉快にしている。』


どうやらこれ以上の議論は不必要らしい。いや、量子力学などでメタファとして利用することもあるかもしれない。量子力学は因果を超える世界があることを連想させる。

猫は蓋を開けたときに一時間以内の過去に遡った生死が決定する。これは空論の縁起が時間を超越している、つまり因果を超える世界がある。

ボーアをはじめとするコペンハーゲン派の見方では電子の波は「収縮」し、電子はどこか一点で発見されるのだという。世界では多様な関係を通じて、諸々のものが生じ発見され、成長し、滅している。量子論では「場」と呼び「素粒子とは場に起る状態の変化として出現するものである」とされる。

初期仏教では事物を法(ダルマ)と呼ぶ。この法について、「諸法無我」ということが云われる。つまり、事物の本性は無我であり、実体がない、と。三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)の一つとする。「諸法無我」は、実体のないものの相続という意味で、量子論の「素粒子とは場に状態の変化として現れるもの」という見方に通じる。

縁起を引き起こすネットワークを場のメタファとしてみることもでき、また場を心としてみると、唯識の基本思想は「三界は虚妄にして但だ一心の作るところ」が連想されてくる。

「もの」がアからイへ「動いた」ように見えるが、実際には、夫々の場所で、そこに固定されている電球が一瞬、点って消えただけである。素粒子とはこの電光板の上に現れる光点のようなものに他ならない。『量子力学的世界像 朝永振一郎』

有刹那なるが故に、定んで行動すること無し。然れば無間に異方に生ずる中に於いて、草を焼く焔の行くが如く、行の増上慢を起すもののみ焔の相続の中に、仮に燈の号を立つ。燈が異処に於いて相続して生ずる時を、説いて燈行ずと為す、別に行ずる者無きなり「草を焼く焔」倶舎論

距離の離れた粒子のスピンの方向の話は空論の縁起が空間を超越していることを連想させる。

縁起とは因果関係というよりも、それは関係一般のことだというほうが比較的には正しいと言ってもよい。(梶山雄一「瞑想と哲学」『仏教の思想3:空の論理<中観>』角川書店)

量子力学は認識する者の存在自体、すなわち「こころ」を語り始めています。数はいったいどこからやってくるのかいまだ闇の中です。アインシュタインはいいました。「この世で最も不思議なことは我々がこの宇宙を理解できることだ」と。

数学をつくりだす我々人間の頭脳は宇宙の法則の支配下にあります。自然(宇宙)、我々の心、そして言葉(数学)が絶妙に絡み合う神秘は永遠に解かれないのかも知れません

複素関数Ψ(プサイ)の物理的意味とは何なのでしょうか。「実在」を表すのです。量子である電子がいる場所、ある時間に存在する確率を与えるのがΨ(プサイ)なのです。存在(実在)の根源にせまる理論が量子力学なのです。
自然がもつ二重構造 自然はその結果として一つの客観的データを返してきます。その背後に仕組みがあることがわかったのです。量子はいってみれば潜在的可能性をいくつも持っているのです。その可能性のうちどれか一つが観測によって現実化するということなのです。電子についていえば、確定した軌道をぐるぐる回っているのではなく、空間的に拡がりを持って存在しているということです。理論的には地球上のある一つの電子がアンドロメダ大星雲に観測される可能性(確率)は0ではないということです。量子はここにもあそこにも存在しようとしているのです。われわれがその量子を観測してはじめてどこそこに在るといえることになるのです。この量子の二重構造を表すのに複素数がぴったりなのです。

虚数iは2乗すると-1すなわち実数になって目に見える数に変身します。複素数それ自体見えないことがψ(プサイ)自体が表に現れない影の存在であることに対応します。そして複素数を2乗すると実数になることが、ψ(プサイ)の2乗が存在確率になることに対応するのです。

「コペンハーゲン解釈」とは「観測者が観測した瞬間に、重ね合わせの状態が解除されて、現実が一つに決定される」波動関数の収縮

ψ(プサイ)自体のことが実はよくわかっていないのです。これが観測問題といわれる未解決難問です。1928年ディラック(1902.1984)はディラック方程式を発表します。相対性理論を量子力学に組み入れた量子を説明する方程式です。方程式のおかげで彼は反粒子の存在を予言しました。それは発見され、1933年ノーベル物理学賞を受賞しました。

現在とは過去と未来からやってくる波動関数ψ(プサイ)がぶつかりあってうまれるというものです。

アインシュタインはいいます。「この宇宙で最も不思議なことは、我々人間にとってこの宇宙を理解可能であるということだ」と。考えてみれば、我々の脳もこの宇宙の仕組みのもとに働いています。人間の頭がつくりだす言葉ー数学ーがこの宇宙につながっているのは当然のことなのでしょうか。

「数学は神が宇宙を書くためのアルファベットである」”La Matematica ? l’alfabeto nel quale Dio ha scritto l’universo.”とはかのガリレオ・ガリレイの言葉です。

数はどこから生まれてきたのかいまだにわかりません(リーマン予想)。光すなわち量子なる存在もその根源がいまだ解明されていません(統一理論)。数学も物理学もその対象の根源に迫ろうとする学問です。根源も行き着く終着駅もわからない旅が続いているということです。

シュレーディンガーの波動方程式の解釈として、この宇宙はエネルギーが0の状態つまり無からできたことを表す。左辺のψ(プサイ)は宇宙波動関数で右辺の0が無を表す。無からの宇宙創世の方程式、過去と未来が現在をつくる方程式と解釈できる。


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