「ベルリンの壁崩壊から30年、「東西ドイツ統一」は夢のままなのか」によると東西ドイツ統一の道のりはなかなか困難であることがわかる。写真は私が1989年8月17日に撮ったもので、これから統一に向かう楽観と期待がどことなく感じられる。ところがベルリンの壁崩壊から30年経った今日では人々が待ち望んだ夢の実現にはまだまだ距離があることを教えてくれる。以下記事のなかで気になった点だ。
①この重要な出来事が、東独のスポークスマンの「勘違い」から始まった
②民主化を求めてライプツィヒで始まった月曜デモが急速に拡大したため、独裁者ホーネッカー書記長が武力鎮圧を命じたが、人民軍はすでに従わなかった。シャボフスキーは日中の議会に出席していなかったため、詳細を知らなかった。そのため、記者会見での説明はあやふやになり、「この法律はいつから発効か?」という記者の質問に、焦ったシャボフスキーは、「私の持っている情報が正しいなら、即刻だ」と答えた。
③10時半、コンサートが終わって外に出ると、世界は劇的に変わっていたという。どこを見ても、人と車の群れだった。その2時間の間に起こったのは、まさに奇跡ともいえる出来事だった。まず、8時過ぎから、あちこちの検問所に数万の人々が詰め掛け、あっという間に「開けろ!開けろ!」の大合唱となった。9時20分過ぎに、最初の検問所が群衆の圧力に屈した。
④統一の道はとても長い。6月、ミュンヘンの有名な経済研究所、ifoが発表したところによれば、現在の旧東独地域の人口が、1905年の水準にまで落ち込んでいるという。一方、旧西独地域の人口は過去最高だ。当然、経済の東西格差も大きい。
⑤東の人たちの憤りはよくわかる。西の人々に対する失望や反感は、最近、とみに膨らんできているように感じる。
「ベルリンの壁崩壊から30年、「東西ドイツ統一」は夢のままなのか」川口 マーン 惠美https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68290?page=5 より。
以下の記事は「ベルリンの壁崩壊から25年」と題した拙ブログだが既に30年経ったことになる。
今日はベルリンの壁が崩壊して25年目にあたるそうだ。11月10日が実際の崩壊が始まった日で9日はそのきっかけになった誤発表の日になる。政府の誤発表が引き起こした歴史の大転換だった。写真の壁はドイツ全体で155キロにもわたるという。
1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事によって生じた。実際に壁の人為的・物理的破壊が始まったのは11月10日であるが、崩壊の日付は、その起源であるゲート開放が行われた11月9日とされる場合がある。(by wiki)
24年前の夏にベルリンに旅をしてベルリンの壁とその崩壊を目の当たりに見た。1989年11月9日に壁が崩壊し、私が旅をした1990年10月3日に東西ドイツが統一される。団塊亭日常のブログには旅先での感想を下記のように記している。体制が崩壊するのは突然で、想定外の速さでやってくる。中国、北朝鮮、モロッコ等はどうなっていくことだろう。
1989年8月17日
ベルリンを朝から見学する予定であったが帰国便のリコンファームの電話がつながらない。ロンドンへの電話がなにか番号変更でも有ったのかも知れない。結局3時間ほど試行錯誤したがうまくいかない。次にフランクフルトにかけてみたがこれまたつながらない。クアラルンプール、パリとすべて試したがうまくいかない。徒労感が募るがせっかくベルリンにきてリコンファームで一日つぶすのはいかにもばかくさい。とにかくベルリンの壁を見ることにする。そのあとでリコンファームをトライすることにしよう。それにしても落ち着かないことはなはだしい。
壁に行く途中リコンファームがうまくいかないときに顔が合ったフランス人と再会する。壁の様子や去年来たときの様子などを話してくれる。テレホンカードを集めているので送って欲しいとのことだ。送り先を書いた名刺をもらう。
あるきながら周りを観察すると軍人の像が多いことに気がついた。街の広場にやたらと立っている。
ベルリンの壁はブランディングブルグ門の前は完全に無くなっていた。両翼のみが残っている。壁の残骸が少し落ちているので拾う。日本人の宗教家や戯画しドイツの軍隊の制帽を売っている男、壁の残骸を袋に入れて売っている男がいる。
その夜は夜行寝台車でベルギーへと向かう。長い行列の後でやっと予約が取れる。寝台車はクシェットと余り乗りこごちに差がない。
追記
リコンファーム先の電話番号はいつの間にか桁数が変わっていた。壁の近くで出会った旅慣れていそうな日本人の男性に教えていただいた。
1985年、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ(改革)でソ連の財政の立て直しをはかった。アフガニスタンでの出費が拍車をかけていた 防衛費を減らそうとしたゴルバチョフは、レーガン大統領とともに核軍縮へと向かう。しかし東ドイツは1989年1月、ホーネッカー書記長は「ベルリンの壁は、50年後も100年後も存在し続けるだろう」と演説をしている。
1989年5月には、ハンガリーがオーストリアとの国境を開き、自国民の出入国を認め始めた そしてハンガリーまで合法的に来られる東ドイツ人が、このルートを使ってオーストリアに出ることに。