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まさおレポート

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平成テレコムの変遷3 当時のNTTを映し出すリクルート事件 9557文字

2019-05-03 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

平成の初期を揺るがせた、いな大激震させたリクルート事件は江副氏が2013年に亡くなり世間の大方の意見は「釈然としない」まま事件の闇の深さを後世に残したまま終焉した。ここではその闇について探求するのではなく平成初期のテレコム理解特にNTT理解の重要な補助線として記してみたい。

リクルート事件は1988年6月18日に発覚した日本の贈収賄事件でリクルートの関連会社リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡され政界・官界・マスコミを揺るがす大スキャンダルとなった。

リクルート事件

1988年6月18日の川崎市小松助役に対するコスモス株譲渡のスクープを朝日新聞が報じたことをきっかけに発覚したリクルート事件で、1990年10月23日には真藤NTT前会長の判決があり、懲役2年・執行猶予3年が確定した。真藤氏は年齢的な点も考慮してこの判決をうけいれたとあった。他に長谷川寿彦元NTT取締役は一審で懲役2年・執行猶予3年、式場英元NTT取締役は一審で懲役1年・6ヶ月執行猶予3年が確定した。

この事件と逮捕者である両人には多少の感慨がある。長谷川寿彦氏は東京通信局長時代の1984年11月16日に東京で発生した地下ケーブル火災の対応に活躍して、その采配ぶりが当時電電公社総裁であった真藤氏の目にとまる。今風に言えば真藤チルドレンの一人だ。電話8万9000回線が使用不能になり、都市銀行オンラインネットワークが停止するなどの大事件となり港区にあった第17森ビルのオフィスで新聞報道の切り抜きサービスに目を通しながらやきもきした記憶がよみがえる。火災発生9日後には火災障害は終息した。

その後長谷川氏はNTTデータ通信本部長に就任し、堂島電電ビルの一階受付前のフロアに社員が集められて訓示を受けたが当時は氏の絶頂期でなかなか颯爽としていた。それまで赤字続きでNTTの収益面で重荷になっていたデータ通信事業を立て直すための抜擢であったと思う。

式場英・元NTT取締役は長谷川氏と並びやはり真藤チルドレンの双璧で、企業向けマルティメディア営業のスター的な存在であった。当時の業界関係雑誌に登場しないことが珍しいほどNTTの法人向け営業の顔であった。後年リクルートで逮捕後、執行猶予中だったと思うが、新橋の烏森口から歩いて数分の煉瓦敷き道路沿いのとあるビルにコンサルタント事務所をかまえていて、上司の伍堂常務と一緒に訪問したことがある。NTT接続問題に関してなにか相談したいことがあったのだがそれはたいした用事ではなく、伍堂さん持ち前の優しさで慰めと励ましに行ったのではなかったか。式場氏は気のせいか精気が失せて寂しげな印象だった。

 

第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であるとも言われる。なぜこのリクルート事件を補助線として当時のNTTを眺めるのか。この事件からNTTの民営化の理由、米国の外圧に対抗する政府とNTT、真藤社長誕生と終焉の理由、新電電の新規参入と電気通信事業法の関係、NTT法とリクルート事件の関係、真藤社長辞任とその後の新電電との関係など平成初期のNTTが極めてリアルに見えてくるからであり、平成テレコミを語る上で極めて重要な出来事と捉えたためだ。謎の多いリクルート事件を解明しようとの意図ではない。

筆者の40年前の記憶から記してみよう。当時筆者はNTTデータ通信本部に所属し横浜西局にあるコンピュータで電話帳システムの開発を行っていた。横浜西局の向かいには川が流れ、大雨の際にはよく冠水していたことを思い出す。

横浜西局にはリクルート社のスパコンが水冷設備をNTTが負担して新設し設置されていた。運営と保守をNTTが行っていたことや、その後やはり勤務したことがある大阪の堂島電電ビルにもリクルートのスパコンが設置され運営と保守をNTTが行っていた。また日本ダイレックスの時分割多重装置が多数設置されていたことが印象に残っている。ここからNTTとリクルートの親密な関係性や米国製通信機器がNTTに納入され始めていることがわかる。さらにはある日に横浜西局局舎の一階で真藤氏と一団を見かけたことがあるがそのなかに江副氏が混じっていたかどうかまでは記憶にない。

政界をゆるがす事件に発展したが政界大物にまでは検察の手は伸びず政界では藤尾、池田の両議員が逮捕されたのみであり、NTT法により真藤、長谷川、式場が有罪となり、葬り去られた。中曽根氏の主導する臨調でNTTの民営化が決まり、中曽根氏の押しで真藤氏が初代社長に就き、そして中曽根氏は無罪で真藤氏は有罪判決を受け社長の座を山口氏に譲った。山口氏は2年と短期におわりその後は児島社長となった。

NTT法が平成のテレコムに与えた影響が理解できる。

1985年真藤氏がNTT初代社長になって全社員に一斉放送で挨拶と訓辞をおこなった。自席でその声を聞いたのだが、しわがれ声でとても小さい声で内容が聞き取れないときもあった。その話の中で妙に印象に残った話がある。「NTTが民営化されたがNTT法は残った。このNTT法が残ったことの意味の大きさを殆どの社員は気づいていない。しかしやがてこのNTT法の存在が大きな意味を持ってくることを諸君はしることになるだろう」。

真藤氏はリクルート事件で逮捕され有罪判決が下ったが、これはNTT法違反によるものだ。言い換えればNTTが他の民間会社と同じでNTT法がなければ逮捕されなかったことになる。そう考えるとこのときの挨拶はすごみを持ってくる。

あなたはNTTを純粋な民間会社だと思ってるでしょう。・・・NTTの職員は準公務員なんですよ。・・・確かに私はNTTを民間会社だと思っていた。「リクルート事件・江副浩正の真実」P113

江副氏が執行猶予になった理由として次の記述がある。

NTTの国際調達問題や日米貿易摩擦問題の解消というNTT側の都合も少なからず存在したことを執行猶予判決の根拠に挙げている。p428

私にはやはり便宜を図ってもらいたいとの意図を持っていた、あるいは持ちつ持たれつの関係を期待したのが真実であると思える。下記の記述はその通りには受け取れない。

NTTを通してのスパコンの購入はリクルートにとって別段有利なことではなく、日本クレイ社と直接契約をしたほうが効率的であった。p404

横浜西局にはリクルート社のスパコンが水冷設備をわざわざNTT負担で新設して設置され、運営と保守をNTTが行っていたことやおなじく勤務したことがある堂島電電ビルにもリクルートのスパコンが設置され運営と保守をNTTが行っていたこと、またそれまで日本製が占めていると思っていた日本ダイレックスの時分割多重装置が設置されていたことが印象に残っている。

スパコンを多数の顧客に時間貸しビジネスに利用するためには専用回線や電話回線を通じて回線接続する技術が必要だ。それに回線の手配も通常の手配を待っていてはなかなかリクルート側の意図通りにははかどらない。そうしたことの便宜を暗黙の裡に期待したであろうことは十分伺える。

清廉潔白の経営者真藤氏であれば冒頭のNTT法の意味を深く理解していたはずであり村田氏の一存とせずに断固断るべきであった。「私は金の管理ができない」との理由でIHIから村田氏を私財の管理のためにNTTに連れてきたこと自体いかにも政治家の秘書をまねた形であり、大きな間違いだったと思える。NTTでは政治家向きにせよ表向きにできない金が必要になると思ったのであろう。国会で取り上げられたが結局追及できなかったNTT管理者献金事件なども真藤氏の時代に起きたことであり私の釈然としない事件の体験として残っている。

電気通信事業法がリクルート事件を引き起こした。

新電電が登場する際に稲盛さんに参画を要請するが相手にしてもらえなかったと田原総一郎は書いている。江副氏も一種を含めた通信事業に期待があったことは否めないだろう。期待を交えた親密な関係にあったのだろう。トヨタと建設省をバックに持つ日本高速通信、JRの日本テレコム、京セラの第二電電のみが平成のテレコムを担うに足る資格があると認められたのだ。

私は社員に、“外飯・外酒”を推奨し、自らも財界人に誘われ、日本YPO以外に、稲山嘉寛さんを囲む会、永野重雄さんを囲む会、三重野康さんを囲む会、眞藤恒さんを囲む会などに参加していた。それらの会のなかに政治家を囲む会があった。稲山さんは「政治献金は企業にとって必要なことである」と強調されていた。「リクルート事件・江副浩正の真実」P439

 眞藤恒さんを囲む会などに参加していたと答えているがここから江副氏は切実に新規参入を欲していたことが伺える。しかし稲盛さんに参画を要請するが相手にしてもらえなかったために第二種電気通信サービスのVANに進出した。それが結局リクルート事件につながることになる。

稲山さんは「政治献金は企業にとって必要なことである」と強調されていたとの述懐は江副氏の本心を物語り、未公開株の譲渡は政治献金という自覚だったのだろう、実際この事件で中曽根氏をはじめとして大物政治家は逮捕されていない。しかし江副氏には政治献金の延長線上にあった真藤氏への未公開株譲渡はNTT法により逮捕につながる。江副氏自身の「私はリクルート時代、精一杯の背伸びをして、道を踏み外してしまったと、今になって深く反省している。」は新規参入障壁を指しているように聞こえてくる。結局は新規参入障壁の原因となる電気通信事業法とさらにはNTT法がリクルート事件を引き起こしたと言えなくもない。 

自分でないことを証明するのは、悪魔の証明といって不可能なんですよ。 P115

江副氏は見返りを求めて真藤氏に未公開株を送ったのではないという気がしている。真藤氏に未公開株を送ったのはNTT法の恐ろしさを知らなかったためであり真藤氏が政治献金するための資金カンパのつもりだったのではないか。国会で取り上げられたが結局追及できなかったNTT管理者献金事件なども真藤氏の時代に起きたことであり筆者の釈然としない事件の体験として残っているがこの事件も真藤氏の政治献金体質からは納得できる。両氏ともに脇が甘いという責は免れないが。

平成の当初から孫正義氏が通信事業に関心をもっていたことがテレコム史に浮かび上がる。

平成のテレコムを後期に牽引するのは孫正義氏だが80年代から深く参入の期を伺っていたことが江副氏の回顧からわかる。「長谷川さんもその有力メンバーで、古くから親しい関係であった。」とおそらく20代の孫正義氏とその後逮捕される長谷川氏がザ・フォーラムで顔見知りだったことも両氏を知る筆者には新たな驚きであった。孫正義氏はその後CSKの大川功氏とも深く関わっていくことになるがリクルート事件をきっかけにこうした小さな史実が明らかになったことになる。

当時から遡ること20年ほど前、著名な経営学者の野田一夫さんが設立されたザ・フォーラムで私は役員を務めており、CSKの大川功さん、日本ソフトバンクの孫正義君ら活発なメンバーの勉強会を行っていた。長谷川さんもその有力メンバーで、古くから親しい関係であった。・・・私がコスモス株の譲渡の話を長谷川さんに持ちかけたのは、リクルートに来られることが内々に決まってからである。「リクルート事件・江副浩正の真実」P148

私の元秘書の青野史寛はソフトバンクの孫正義社長のもとで人事部長をしていて、江副さんの秘書をしていた経験がいまとても役に立っています」と言っていた。「リクルート事件・江副浩正の真実」p458

米国の日米貿易摩擦外圧がNTT民営化を後押しし、結果としてリクルート事件を引き起こした。

NTTの国際調達問題や日米貿易摩擦問題の解消というNTT側の都合も少なからず存在したことを執行猶予判決の根拠に挙げている。「リクルート事件・江副浩正の真実」p428

NTTを通してのスパコンの購入はリクルートにとって別段有利なことではなく、日本クレイ社と直接契約をしたほうが効率的であった。「リクルート事件・江副浩正の真実」p404

横浜西局にはリクルート社のスパコンが水冷設備をわざわざNTT負担で新設して設置され、運営と保守をNTTが行っていた。おなじく勤務したことがある大阪の堂島電電ビルにもリクルートのスパコンが設置され運営と保守をNTTが行っていた。また後にリクルートに吸収される日本ダイレクトも盛んに時分割多重装置を独占に近い形でNTTデータに納入していた時期であり、真藤氏、日本ダイレクト若山社長、江副氏、長谷川氏とNTTデータを中心に点がつながるようにも見える。

スパコンを多数の顧客に時間貸しビジネスに利用するためには専用回線や電話回線を通じて回線接続する技術が必要だ。それに回線の手配も通常の手配を待っていてはなかなかリクルート側の意図通りにははかどらない。そうしたことの便宜を暗黙の裡に期待したことが事件の背景にあると語られている。

1973年GATT・東京ラウンドがスタートし、GATT協定が採択される。、1981年1月より、GATT協定に基づく調達方式をトラックⅠ、日米取り決めに基づく市販品ベースの電気通信設備の調達をトラックⅡ、開発が必要な電気通信設備の調達をトラックⅢとし、「オープン」「公正」「内外無差別」をうたった調達手続きがスタートした。2001年7月をもって完全に失効した。

NTT資材調達についても随意契約を原則廃止して必ず入札を行うようにこの頃法制化した。

1981年、田中氏の後を継いだ中曽根首相と米国レーガン大統領はロンとヤスと呼び合い蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティーベルから電話会社運営の基幹システムソフトの導入を決めたのもこの頃で、同様に米国からスーパーコンピュータをリクルート社が購入して、横浜西電話局と大阪のNTT堂島センターに設置した。

調書の段階では真藤、長谷川に逮捕が及ぶとはかんがえていない。NTTから買う必然性があったと国会証言。一転して裁判ではこれを否定し素通しを強調する。平成以前の日米貿易摩擦解消を中曽根氏から依頼されて、あるいは忖度して動いていることが推測できる。

昭和60年ワシントンとサンタ・クララで開かれるセミナーに参加するために真藤恒社長が渡米されることになっていたが、その直前に営業部長の式場さんから出勤途中の私の自動車電話に連絡が入った。「真藤が明日アメリカに出発するが向こうで記者会見を開くことになったと先行して渡米していた北原安定副社長から連絡があった。真藤にカラのかばんで行かせるわけにいかない。NTT経由でクレイを買ってもらえないだろうか」との依頼だった。式場さんの電話を受け、私はクレイ社のスパコンXMP16もNTT経由で購入することを決めた。富士通製品だけでなく、クレイ社のスパコンも購入したのは、XMP16は十三億円と価格がさほど高くなかったこと、ビッグネームの会社の製品でデザインも優れているので、入社案内にクレイの写真を入れれば工学部の通信・制御系の学生の採用にプラスになると考えたこともあった。

リクルートがをNTT経由で購入した本当の理由は、日米貿易摩擦問題回避に協力したもので、NTTは単なる素通しである。しかし、新たな政治問題にならないよう、私は国会証言の際、クレイ社製品についてNTTからバックアップを受けるつもりだった旨の証言をしている。法廷で国会証言とことなる供述をすると国会証言法違反になる。だが、私はのちの法廷で検事に真実を話した。 P149

なぜかくも前言を翻してまで素通しを強調しなければならなかったのか。NTTから購入する利点を挙げれば真藤氏への贈賄が成立するからだ。素通しを強調すれば贈賄立証が難しくなるとの判断が働いたものと思う。そしてそれがまんざら嘘でもないので、つまりもちつもたれつの関係なので江副氏の頭の中では素通し説が定着していったと考えられる。そうでなければ江副氏自身の「私はリクルート時代、精一杯の背伸びをして、道を踏み外してしまったと、今になって深く反省している。」の文章がしっくりこない。このあたり江副氏の儒教的倫理観が垣間見える。法律よりも尊敬すべき人が大事なのだ。

「リクルートがをNTT経由で購入した本当の理由は、日米貿易摩擦問題回避に協力したもので、NTTは単なる素通しである。」との回顧は当時の米国の外圧の凄さを示す。当時のNTTは政府ともども米国の外圧に苦しんでいたのだ。そしてこの外圧がNTT民営化の圧力ともなったことを推測させる。

リクルート事件は平成当初のNTTに至る現代史を垣間見せてくれる。

ロッキード事件は1976年(昭和51年)2月に明るみに出た。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、次期総裁に北原安定氏を押す田中首相の失脚で一気に外部から総裁を招き入れる声が強くなる。さらに1985年の民営化の際にも田中角栄氏は初代社長に北原安定氏を推すが、その田中角栄氏も中曽根氏と財界が強く推す真藤氏の初代社長就任を興銀の中山素平氏を訪れて応諾したと中曽根氏の回顧録にある。

北原氏と全電通の山岸委員長は民営化に反対で、山岸氏は民営化では折れたが分割には断固反対だったとある。結局最後まで民営化反対の北原氏は中曽根総理大臣の時代が到来し、角栄氏は戦いで敗れたということになる。

ロッキード事件もこの頃に起きた。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、北原安定氏を押す田中首相の失脚で一挙に真藤総裁のNTT初代社長が決定した。

電電を分割する必要はないと全電通委員長・山岸章氏は主張したが真藤恒氏が山岸氏にとにかく民営化だけは認めろと説得して山岸氏が折れ、次いで田中角栄氏が初代社長に真藤氏が就任することを承知することで副総裁の北原安定氏が孤立し民営化と真藤社長が実現した。(『自省録・歴史法廷の被告として』 中曽根康弘 新潮社)

その後しばらくして、1978年から1979年にかけてカラ会議やカラ出張あるいは一般人にはなじみのない特別調査費という勘定科目で十二億余万円もの裏金をねん出した金を組織的に金をプールして全電通への接待や部内外幹部への飲み食いに使っていたという大事件で、南町奉行と称する社内の人物なども紹介され、連日賑やかに報道されていた。

実際にはこの事件が電電公社の総裁を外部から迎え入れる世間の空気を一気に盛りあげる役目を果たしたと考えている。真藤氏は1981年に同社出身の土光敏夫名誉会長(当時)に請われ、北原氏を押さえて旧日本電信電話公社総裁に就任が決定した。

1982年1月26日朝日新聞朝刊13版23面 電電不正 部長級は不起訴 大阪地検 41人、裏付け取れず 五十三、五十四年度にカラ会議やカラ出張で、十二億余万円もの裏金をねん出、流用していた日本電信電話公社(真藤恒総裁)の不正経理事件で、大阪地検特捜部は二十五日、背任、虚偽公文書作成など五つの罪名で告発されていた近畿電気通信局などの当時の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴ににする処分を発表した。北原氏追い落としのために暴かれた事件だとも勘繰れる。

1980年土光さんの臨調が始まり電電公社の民営化が議論されだした頃だったか、ある日朝日新聞一面に北原安定氏の脱税問題が記事になっていた。北原安定氏のうっかりミスに近い納税問題がかなり大きく取り上げられていた。

1981年田中氏の後を継いだ中曽根首相と米国レーガン大統領はロンとヤスと呼び合い蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティーベルから電話会社運営の基幹システムソフトの導入を決めたのもこの頃で、同様に米国からスーパーコンピュータをリクルート社が購入して、横浜西電話局と大阪のNTT堂島センターに設置した。いずれも勤務地であった関係で記憶している。

かくして一連の出来事は仕組まれたかどうかは不明だが直接間接にリクルート事件に結びついていく。平成初期のNTTを知るために必要だと考えるのであえて記してみた。

リクルート事件でNTTは新電電に対する横綱相撲を止めた。 

真藤氏は逮捕され失脚する。これによってNTTは再び生え抜きの社長人事に戻ることになる。その頃私は新電電の一つ日本高速通信に転職してNTTとの接続問題を担当することになったが、真藤氏が失脚して相互接続問題の態度が変化したことを感じた。一言でいえばしわくなった。

追記

文藝春秋2018年4月号に立花隆が江副氏についてエッセイを書いている。晩年は痴呆症が進み、自宅では壁を壊すほどの転倒を繰り返しおり、76歳でリゾート地からの帰途に東京駅で転倒し、それが原因で亡くなったと言う。

立花氏が駆け出しのころにあることで記事差止めを相談されたが断ってよかったと書いている。そうでなければ株を送られ断罪されていたとも。

平成テレコムの変遷1 はじめに 6024文字

NTTデータ草創期メモランダム6 リクルート事件
真藤氏 リクルート事件
NTTデータ草創期メモランダム6 リクルート事件

 


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