まさおレポート

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法華経 薬王菩薩本事品 宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」

2021-04-13 | 紀野一義 仏教研究含む

釈尊は宿王華菩薩に言った。
宿王華よ、もし発心して阿耨多羅三藐三菩提を得ようとするならば、手の指、足の指 を燈して仏塔を供養せよ。そうすれば、国城、妻子、あるいは三千大千世界の珍宝を以ってするに勝るであろう。
また、七宝を以って三千大千世界を満たして供養しても、この法華経の一詩句を唱える功徳に勝ることはない。http://james.3zoku.com/pundarika/pundarika23.html

手の指、足の指 を燈すことを阿耨多羅三藐三菩提を得るための必須手段とするならば普遍的宗教として凡人の救済は到底おぼつかない。手の指、足の指 を燈すことをせずとも「この法華経の一詩句を唱える功徳に勝ることはない。」これがこの薬王菩薩本事品の肝要だろう。


法華経をメタファで讃える譬喩が10示される。2000年も前のインドの、しかもバラモンの素養がある人向きの譬喩が多いのでぴんと来ないかもしれないが、意図は十分にくみ取れる。現代ならどのような喩を用いただろうかなどとフィクションの世界に飛ぶのも必要になってくるだろう。

海が第一であるように

山々のなかで、須弥山が第一であるように

月が第一であるように

太陽が夜の闇を破るように

転輪聖王が 第一であるように

帝釈天が諸天のなかの王であるように

大梵天王が衆生のなかの父であるように

菩薩の修行それぞれの境地に達したものが第一であるように

一切の 声聞や辟支仏のなかで菩薩が第一であるように

仏は諸法の王であるように、この経も諸経の王である。

救済とはなにかを具体的に11例で説明して「一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解く」と結んでいる。

渇いたものがオアシスの水を得たように

寒さに震えるものが火を得たように

裸のものが衣を得たように

商人が守護者を得たように

子が母を得たように

渡りに船を得たように

病に医者を得たように

暗闇に灯火を得たように

貧しいものが宝を得たように

民が王を得たように

貿易商が海を得たように

一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解く

人あってこの法華経を聞き、自分で書き、他人にも書かせれば、 その功徳は計り知れないのである。もしこの経典を書いて、諸々の香料と香油で供養すれば、無量の功徳を得るだろう。


バリでは夕方6時過ぎにきまって夜鷹が飛び交い、ぎーぎーと鳴いた。これは宮沢賢治「よだかの星」の世界なのだが、当時はそれを思わずに今頃になって思い出している。宮沢賢治は「阿耨多羅三藐三菩提を得ようとするならば、手の指、足の指 を燈して仏塔を供養せよ。」のところに深く感じて以下の物語を書いたのだろう。

「人あってこの法華経を聞き、自分で書き、他人にも書かせれば、 その功徳は計り知れないのである。もしこの経典を書いて、諸々の香料と香油で供養すれば、無量の功徳を得るだろう。」こちらに本意があると理解したらまた別の作品が生まれただろうと想像するのだが。

(紀野一義氏は宮沢賢治に暗さを認めているがそれでも大好きだと言う。)


「よだかの星」

ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓て死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html


「ビヂテリアン大祭」は法華経薬王菩薩本事品で薬王菩薩が仏への供養としてわが身を火に投じて焼身供養したことにインスパイアされて書かれたらしい。(ビヂテリアンはベジタリアンのこと)

もしたくさんのいのちの為にどうしても1つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその1人が自分になった場合でも敢て避けないとかう云ふのです。 ・・・ふだんはもちろん,なるべく植物をとり,動物を殺さないようにしなければならない 「ビヂテリアン大祭」

動物には意識があって食ふのは気の毒だが、植物にはないから差し支へないといふのか。なるほど植物には意識がないやうにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるやうだと思って見ると又実にあるやうである。元来生物界は, 1つの連続である, ・・ビヂテリアン諸君、植物を食べることもやめ給へ。諸君は餓死する。「ビヂテリアン大祭」


「銀河鉄道の夜」

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺はじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのもの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。

どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

カムパネルラが「僕わからない。」と言った理由はなにか。ロゴスで理解しようとするジョバンニに情緒で向かうカムパネルラの対比だろうと思う。「カラマゾフの兄弟」イワンとアリョーシャを彷彿とさせる。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と頭であれこれ考えるジョバンニも素晴らしいが「僕わからない。」といいながら無意識で他者を救済するカムパネルラもさらに上品(じょうぼん)だといいたかったのではないか。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。

カムパネルラはジョバンニを置いて一人解脱してしまったのかあるいは輪廻に旅立ったか。次の文章からは憐憫と救済の体現者としてカムパネルラが解脱したことを示唆しているようだ。

「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

 


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