京都五条烏丸のホテルに到着した後ひと風呂浴びて夕食をとるために近所をぶらりと散策した。こういうときの夕食は近所に限ると地元の人が通いそうな店を探す。魚政と看板がかかった店の前には地元客らしい男性が開店を待っている。この人は折口信夫に風貌が似ている。ここなら旨そうなものを出してくれる感が働いた。
生蛸の刺身が特に美味しかった。初日の店選びは正解だった。
翌朝は清水寺に向かい参拝を終わり七味と山椒を買い求めると昼飯時になった。八坂神社の脇門ちかくにうどん屋があった。美竹とあり座敷に通されると小ぶりながら落ち着いた庭に面したテーブルに通された。庭には椿が。にしんうどんを食べる。にしんそばはよく食べるがうどんは珍しい。汁がうまくてのみほす。つれあいの山椒ちりめんじゃこ入りのごはんも少しいただく。
夕食は目当ての店に向かう途中に気になる蕎麦屋があり入る。焼き鳥にぎんなん串カツ、ワカサギの天ぷらを肴に熱燗を飲む。すでに11月下旬で京都は熱燗が旨い。おかみさんに10割そばを勧められて喰うとぼそぼそ感は全くない。つゆも鰹出汁の効いたもので蕎麦湯がどろりと濃く、大ぶりの入れ物に入った蕎麦湯を飲み尽くす。
翌日は京都御所から銀閣寺に向かい、南禅寺にバスで向かう。腹が減ったので店を探すがどこも行列ができている。ちかくにたこ焼きを出す屋台があり緋毛氈の引いた台があったのですこし虫やしないを。南禅寺を観終わり遅い昼飯をとるためにタクシーで四条河原町まででることにした。
先斗町に入り居酒屋風の店に入ると鴨川が見える席に案内される。鱧の天ぷらが京都らしい。なにより鴨川がゆっくりと観ることができた。
旅の終わりは京都駅のなかの蕎麦屋にはいる。列車を待つ間にかつ丼を食べるがこれは最悪だった。べとべとと汁がかかりすぎていて塩辛くとても拙い。これまでは順調に旨いものに巡り合えたのに最後はどんでん返しでこれも又旅の一興かと。
清水寺は山腹に建っている。その建築技術に目が行く。そして全山モミジが今を盛りに。このタイミングでこれたことを喜ぶ。いままで見た一番の紅葉だ。
八坂神社はつれあいの母方祖父が小学生の頃に神職である曽祖父と住んでいたという。
かつて祇園社と言わた。神仏混淆の時代もあったという。多くの社があり参拝をしていく。
京都御所が目に入った。遠い記憶がかすかにある。御所車の実物大がある。この建物は確実に世界遺産に登録されるだろうなと思いながら観る。蹴鞠場があり源氏物語の世界を彷彿とさせる。廊下の厚い板敷の端が白く塗られている。障子や戸板の矩形が印象に残る。
銀閣寺はイメージを覆される。銀箔のかけらでもあるのかと勝手な想像をしていたが実に簡素な建物があり、これが銀閣かと。当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊し財力がなかったからと違いますかという説明を帰りのタクシー運転手から聞いた。
永観堂の入り口で一人の托鉢僧が立っていた。180センチ以上はある体格のよい男がすっくと立って経文を唱えている。低いがよく通る声で唱え続けている。托鉢の中には札やコインがかなり入っている。
わたしの住む町田市にも町田駅の入り口ちかくで托鉢僧をごくたまに見かけるがお経を唱えているのを聞いた記憶がない。この男の声はよくしみとおる感じがした。
編み笠を被っているので不明だがその体格からしてひょっとして日本人ではないのかもしれない。気になる托鉢僧だった。
疎水らしき水路があった。
南禅寺は紀野一義の師である柴山全慶がかつてこの寺の貫主でありなじみがあるが訪れるのは初めてだ。山門の巨大さが。煉瓦の水道もローマの水道を想起する。
1888年に完成し琵琶湖から京都市内へと続く琵琶湖疏水の分線として今なお現役で使用されている。
今回の京都小旅行で街を歩きながらかつての京都を思い出していた。
伏見の魚料理屋や先斗町のハロードーリー それに鴨川の水鳥など懐かしい思い出を。
そういえば先斗町は電柱が無くなっていた。電柱地中化が完了したことをFB投稿で知った。下の写真では電柱と電線が張り巡らされている。