まさおレポート

ー当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので左のカテゴリー分類から入ると便利ですー

詩集「きりん」と滝口豊一先生、浮田要三さんそしてジャクソン・ポロック

2021年04月22日 09時45分19秒 | 心の回廊

私の人生に神が現れたとしたらこの人は間違いなく瀧口豊一はその一人になる。多大な恩愛を受けた。

ある夜の夢・・・支離滅裂だが夢ですので。

ブリザードにあったような雪だらけで会場に現れ足を使って遠くのペダルを踏みながら演奏する。先生が立ち上がると数名の男性が左から近づいて握手する。それを合図に私たちも立ち上がり先生と握手する。先生は私の手を両手で懐かしそうに握って親指の付け根を揉んだ。

翌日迷いながら会場にたどり着くとすでにミーティングが始まっていた。席は先生のまん前だ。椅子が窮屈で入り込むために席を引き抜く。なにかしゃべり始めていたようで申し訳ない。

そうそう、会場になっている場所は中華料理屋の2階で中に入るのに身分証明がいる。財布から顔写真つきのIDを出そうとするとでてこない。ようやく探し当てると顔の部分が破かれて無い。案内人が「どこかで破片を拾った人がいたと報告があったけど、それじゃないか」といいながら不完全なIDでも中に入れてくれた。

ネットで瀧口豊一を検索してみると次のような記事が。

 灰谷健次郎(故人)を多面的な視点から語るシンポジウム抜粋。 

大阪学芸時代から教師時代にかけて親しく交友した、瀧口豊一氏(長野県在住 昭和10(1935)年2月16日~)からのメッセージもインタビュー形式の記事で配布され、すでに文学を志していたものの、大学の授業にはあまり出席しなかった学生生活の様子や、教師となって児童詩誌『きりん』の編集者・浮田要三氏との出会いなどが紹介されました。 

そしてさらにある掲示板の記事で豊中市新田小学校の記憶がよみがえる。

ある掲示板の記事がふと目にとまる。インド哲学研究者、宮元啓一氏の掲示板には私と同時代1959年頃に豊中の農村で子供時代を過ごし、兎を追ったことがあるという書き込みがあった。小学校のクラスの半分は農家の子供たちであったとも書かれている。ひょっとしてこれは私が過ごした豊中市新田小学校のことではないのかと思う。しかし、箕面に集団で兎狩りにいったとも書かれていたがこれは経験がない。やはり近隣の小学校のことだろうかとも考えていたが、宮元啓一氏の掲示板で問い合わせし確認してみるとやはり豊中市新田小学校ではなく隣の小学校であることがわかる。

その後しばらくして地縁の神は再び私をこの地に連れ来る。そのころソフトバンクに勤めていた私は仕事で大阪のとあるNTT局舎を訪れることになった。NTT西との接続交渉のために実際のMDF現場作業をみておく必要があり、新大阪駅から指定された局にタクシーで向かう。

20分ほど走った頃、周りの風景や橋にかすかに見覚えがある。小学校の時に見た風景かなといぶかりながら住所表示をみるとやはりその通りだった。同級生たちがこのあたりの村に多く住んでいて毎日のように遊びに来た通りだと気がつく。タクシーは小学校の跡地を通リすぎると記憶のドアは全開する。時代遅れの古びた建物が残っている。立札が立っていて旧新田小学校跡と書かれている。思いもよらない偶然で懐かしい小学校跡を見つけて私は興奮し、仕事を終えたあと小学校跡地によってみる。

立札を読むと大阪府の保存校舎に指定されている。1900年に尋常小学校が義務教育となった年に建築され、110年昔の木造校舎のたたずまいをそのままに残しているとある。現役の校舎ではなく資料館になっていると記されている。この一角だけが魔法をかけられ、時間を止められているかのようで、あたりは高速道路が架かり大型団地や商業ビルが建ち並び、今風の街にすっかり変貌している。50年前に小学校に通ったころの面影を蘇らせるのはどんなに想像力を働かしても難しい。50年の歳月は「兎おいし、かの山」の風景をこのように変貌させる。しばらく時の流れの感慨にひたる。それでもよく見ると小学校跡地にはわずかばかりだが往事の面影を残している。小学校の裏には雑木に覆われた小さな川があったが今(2002年頃)も確かにある。

こうしたいきさつから次の記憶が浮かび上がってきた。

1959年の暮・・・

教員室には担任の瀧口豊一先生が受け持ちクラスの生徒と談笑している。記憶の中の先生が22歳と非常に若い事におどろく。6年生の少年(私)は生まれて初めてチーズをひとかけら食べたところ美味しかったとチーズの味を説明している。先生は「きりん」に掲載する児童の詩をチェックしているところだった。「こんどは宮本君の『猫の目はダイヤモンド』の詩がのるねんよ」といって原稿を見せる。少年は嬉しそうにそのゲラを見ている。

先生の口から灰谷君、浮田さんの名前が頻繁に飛び出す。灰谷君とは後に児童文学者として名を知られる灰谷健次郎氏のことで、浮田さんとは「きりん」の編集長で抽象画家の浮田要三のことをさしている。

「宮本君、来週は浮田さんが絵を教えに来てくれるよ。なんでもええから家にある紙をもっといで。包装紙でもええし、なかったら新聞紙でもええよ。とにかく画用紙は買わんようにな。よごれてもええ服きといでな。いままで書いた絵は卒業式の時に渡すから大事に置いときね。宮本君が大人になった時に宝物になるからね」

こんな話をしている。残念ながらこの教えは守られず、今ではこの当時の絵は跡形もなく消え去っている。その後に送っていただいた著作には「精神を絵にする」とあった。


浮田さんとは誰か。

Netflixの「宇宙に隠された暗号」を見ていたところ、ジャクソン・ポロックのアクションペインティングにエピソードが移った。ジャクソン・ポロックの絵は何度か見ている、最近では大原美術館で見た。そう思いながら見ていると記憶の中で新田小学校の絵の時間と結びついた。教室の床に古い包装紙を広げ、上半身裸でそれに向かって絵具を塗りたくっている私の姿が浮かび上がる。

そうだあのころ新田小学校で描いていた絵はまさにジャクソン・ポロックではないか。無秩序に見えるなかに何かが見える。そのなにかはフラクタルと呼ばれ、拡大しても縮小しても同じ形に見える。

フラクタルは美なのだと番組は解説している。当時はフラクタル理論も知られておらずジャクソン・ポロックとの関係も全く知らない。当然だ12歳の少年が知る由もない。

抽象画家の浮田要三氏はジャクソン・ポロックの影響を受けていた可能性はあるなと根拠なく思った。そして滝口先生は浮田要三の影響を受けていた。


「きりん」は小学生向けの月刊詩文誌で、関西一円の小学生の詩を足立巻一、竹中郁、坂本遼、井上靖(当時毎日新聞社記者)の編集で昭和23年2月に創刊。後に灰谷健次郎も編集に参加。

足立は大阪の児童詩の雑誌「きりん」を興した一人でもあった。その経緯は、もともと「新大阪」が大阪堂島の毎日新聞の社屋の一隅を借りていて、そのころ毎日の学芸副部長に井上靖がいたことにまつわる。井上が子供に詩を書かせるための雑誌を発案し、それが「きりん」になって、その実質編集を足立が取り仕切ったのである。


この建築物は、現在の豊中市立新田小学校の旧校舎だ。現新田小学校の前身は1873年(明治6年)に開校したが、その後1900年に新田村大字上新田に移転した際にこの校舎が新築された。新田小学校に残っている古文書には、中央に玄関・応接室・教員室があり、東西両翼に教室があった。そしてその前に土間で作られた廊下があり、東に物入れ、西に教員住宅が設置されていた。1973年(昭和48年)に新校舎に移転するまでこの校舎は使用された。現在は資料館として使用されている。


先生は新田小学校から箕面第二中学に進学するとき、バイクで一緒に中学まで乗せていただき進学手続きまで行ってくれた。一人の生徒のためにこんなことまでしてくれたのだ。


蛍池の家に遊びにいったときの映像もおぼろに浮かび上がった。


先生は牧落の家に遊びに来てくれた。先生は聞いてもいないのに再婚の話に触れられ、「えらそうにしはんねん」と感想を少しだけ漏らされた。二人の子供さんは離婚した奥さんが引き取ったという。

先生の伊丹空港の近くの家に遊びに行った。職場の後輩で組合活動でしりあった教師と再婚されていて小さなお子さんがいた。和文タイプライターで作品を打ち込んでいた。


先生は同窓会先生は西宮の社宅にバイクで遊びに来てくれた。話をした。タバコを少し遠慮しながら吸っていた。へえ、こんな写真をとるのかと先妻の作品を眺めていた。


東京の世田谷のNTT社宅に住んでいるときに先生から「キリン」の絵を借りた。愚かな私はあまり長く返さなかったので散逸を心配された先生から催促された。


先生の退職時に手紙を頂いた。何度も読み返した。


先妻が亡くなったときに手紙を書いた。心のこもった返事が来た。農作業で手に細菌が入り腫れたことや、ぜひ長野に遊びに来てほしい、5月以降に訪れるとよい、しゃべらなくてもよい、座っているだけでよいなどこちらの気持ちを汲んだ文章で埋まっていた。あれから既に18年が経つ。


恩愛 我を去りぬ

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「若きウェルテルの悩み」と... | トップ | テレポート ほんまかいな »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

心の回廊」カテゴリの最新記事