初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ゆるゆるに脱力した表情筋で、深刻さを全く感じさせない微笑みを見せる、陽気なホラ吹きの皆様。
ただいま、くしゃみをしながら、母親の家でブログ更新を始めた豊田です。
悠聖が「うわ! うぅわああ」と言いながら寄ってくる。
母親と伯母さんがテレビを見ながら、話している。
悠聖は「あ、あ」とマウスを指さしたり、みんなに絡んだりしている。
鳥の鳴き声が微かにする。
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建設工事の音もガタガタと僅かにしている。
食べすぎたのか腹が重い。
体がだるくて気力がないことが感じられる。
外は快晴、雲は僅かしかない。
さて、今日は12時半ごろに目覚めました。
千鶴さんが起こしてくるので、まあ、ゴロゴロしてからのんびり起き上がる。
洗面をしていると「疲れた、疲れた」と千鶴さんがアピールしてくる。
悠聖が遊び回るので、気疲れするのだろう。
適当に返事をして、洗面を済ませると座禅40分ですね。
どうも集中に欠ける。
隣の部屋でテレビをつけて、そこから流れてくる音声に、意識がもっていかれる。
体の感覚が失われて、妄念が沸き起こってくる。
なんとか、もどって、もどってと繰り返している内に、時間が来てしまった。
抵抗戦線を作り上げるには、自分の側に、沸き起こっているエネルギーに焦点があっていないといけない。
見失われて興味が、あっちこっちしたり、思いが湧き上がって、それと同一化すると不可能だ。
もちろん、それらも自然にあることであるので、問題はないのだが、無意識であると、そこに苦しみが生まれてくる。
座禅を終えると読書ですが、煙草が無いので、コンビニへ。
ついでに卵を買ってくるように頼まれたので、近所の販売機へ寄ってきた。
家へ帰って、コーヒーを入れ、玄関脇で煙草を吸いながら読みます。
心が身と離れて常住であるとは仏法ではないとあります。
体と離れて霊魂というものがあって、死んだら、その霊魂が体から抜けて再生するという考え方をする人のことです。
あなたは死なないという時の、この、あなたというのが、知覚、神経の働きを指している。
仏教は生死の中に涅槃在りと言って、生きている、ここ、が諸行無常であり、その諸行無常が諸行無常であるが故に、永遠なのだ。
個人が永遠だとか、個人の魂とか、身体と離れた永遠の英知とかは、否定されるのである。
愚かなること、瓦礫を金貨と思って、握りしめているが如し。
アホ丸出しと言っていますwwww
こんな言葉には耳に触れる事すらしてはならないと書いてある。
仏法の本門は、心身一如である。
体と心と離れて在るわけではないのであり、生と死も、ここで、常に巡っている、動いている、この動きが生の瞬間、死であり、その全体生命が永遠の今を生きている阿弥陀様で、その生命が永遠なのであって、個人の知覚や霊魂が永遠ではない。
『奇蹟を求めて』の方は中枢の区分についてですね。
思考、感情、動作、本能、性の5つのセンターがあります。
思考は比較機能。
感情は喜怒哀楽。
動作は生まれた後に身に着けた体の動き。
本能は生まれた時からある体の反応、生理機能。
性は、動作センターを中和させる、無感覚。
これらの中で感情センターに否定的な部分があるのを無くしてしまう必要がある。
不快感を表現しない。
自己同一化しない。
内的考慮しない。
の3つが、自己を感じている状態で実行されることで、否定的感情が浮き上がってきます。
まあ、言うなら、凝り固まった心の奥の恨み辛みが、ぐわーんと表面化してくるのです。
この感情は、今まで必要ないゴミくずが、心の奥に溜まっていたのが、外へ溢れてくるのです。
これがあったら、大成功。
ドンドン全力で出し切ってしまいましょう。
怒りまくり、泣きまくるのです。
すると、背中や、胸に疼いていた、傷、否定的感情が解消されて、正常な、良心が、親切心が生まれてきます。
それまでは、嘘の親切心、借り物の良心、つまり思考判断による、物まね良心、常識、教育くんが、生の感情を押し殺しているのです。
この思考、感情、動作の、認識をする中で、肝心なのは、監視や、コントロールではなく、癒しなのです。
あのグルジェフさんの書き方は、とても厳しく見えますが、実際は、自己を手放ししていく過程で、自己を観察したり、思い出したり、否定的感情を開放したりするのですね。
まあ、これは、理論的には、とてつもなく込み入っていますが、実は単純です。
①意識が、体の感覚と動作に注意する。
②否定的感情(怒り、恐れ)を他人に見せないで、自分でも内部で考えないで、エネルギーとして、感覚の中で、溶かしてしまう。
③良心の火が、全身に巡ることで、他人に親切になるwwww
結果としては、人に親切になるだけですね。
これが、作り物の親切ではなくて、本当に、他人の立場にたった親切になるのが、完成されている証拠でしょう。
まあ、僕は、まだまだです。
で、読書を終えると、昨日の残りの麻婆豆腐とキャベツ、しぐれ、卵ご飯で食事をいただきます。
千鶴さん、慌ただしく家事をしていて、機嫌が悪いww
「なんで私ばっかり」と連呼している。
面倒で疲れるので、手伝いをしないというのは、ワークの対極だなあ、笑
精進します。
で、食事を終えると、煙草を吸ってから、ブログの更新へ来たのでした。
それでは、皆様、本日も、恐れや怒りに負けずに、清新なるエネルギーに直に触れる、あるがままの生を楽しんでくだされまし!
バイバイ
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ゆるゆるに脱力した表情筋で、深刻さを全く感じさせない微笑みを見せる、陽気なホラ吹きの皆様。
ただいま、くしゃみをしながら、母親の家でブログ更新を始めた豊田です。
悠聖が「うわ! うぅわああ」と言いながら寄ってくる。
母親と伯母さんがテレビを見ながら、話している。
悠聖は「あ、あ」とマウスを指さしたり、みんなに絡んだりしている。
鳥の鳴き声が微かにする。
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食べすぎたのか腹が重い。
体がだるくて気力がないことが感じられる。
外は快晴、雲は僅かしかない。
さて、今日は12時半ごろに目覚めました。
千鶴さんが起こしてくるので、まあ、ゴロゴロしてからのんびり起き上がる。
洗面をしていると「疲れた、疲れた」と千鶴さんがアピールしてくる。
悠聖が遊び回るので、気疲れするのだろう。
適当に返事をして、洗面を済ませると座禅40分ですね。
どうも集中に欠ける。
隣の部屋でテレビをつけて、そこから流れてくる音声に、意識がもっていかれる。
体の感覚が失われて、妄念が沸き起こってくる。
なんとか、もどって、もどってと繰り返している内に、時間が来てしまった。
抵抗戦線を作り上げるには、自分の側に、沸き起こっているエネルギーに焦点があっていないといけない。
見失われて興味が、あっちこっちしたり、思いが湧き上がって、それと同一化すると不可能だ。
もちろん、それらも自然にあることであるので、問題はないのだが、無意識であると、そこに苦しみが生まれてくる。
座禅を終えると読書ですが、煙草が無いので、コンビニへ。
ついでに卵を買ってくるように頼まれたので、近所の販売機へ寄ってきた。
家へ帰って、コーヒーを入れ、玄関脇で煙草を吸いながら読みます。
心が身と離れて常住であるとは仏法ではないとあります。
体と離れて霊魂というものがあって、死んだら、その霊魂が体から抜けて再生するという考え方をする人のことです。
あなたは死なないという時の、この、あなたというのが、知覚、神経の働きを指している。
仏教は生死の中に涅槃在りと言って、生きている、ここ、が諸行無常であり、その諸行無常が諸行無常であるが故に、永遠なのだ。
個人が永遠だとか、個人の魂とか、身体と離れた永遠の英知とかは、否定されるのである。
愚かなること、瓦礫を金貨と思って、握りしめているが如し。
アホ丸出しと言っていますwwww
こんな言葉には耳に触れる事すらしてはならないと書いてある。
仏法の本門は、心身一如である。
体と心と離れて在るわけではないのであり、生と死も、ここで、常に巡っている、動いている、この動きが生の瞬間、死であり、その全体生命が永遠の今を生きている阿弥陀様で、その生命が永遠なのであって、個人の知覚や霊魂が永遠ではない。
『奇蹟を求めて』の方は中枢の区分についてですね。
思考、感情、動作、本能、性の5つのセンターがあります。
思考は比較機能。
感情は喜怒哀楽。
動作は生まれた後に身に着けた体の動き。
本能は生まれた時からある体の反応、生理機能。
性は、動作センターを中和させる、無感覚。
これらの中で感情センターに否定的な部分があるのを無くしてしまう必要がある。
不快感を表現しない。
自己同一化しない。
内的考慮しない。
の3つが、自己を感じている状態で実行されることで、否定的感情が浮き上がってきます。
まあ、言うなら、凝り固まった心の奥の恨み辛みが、ぐわーんと表面化してくるのです。
この感情は、今まで必要ないゴミくずが、心の奥に溜まっていたのが、外へ溢れてくるのです。
これがあったら、大成功。
ドンドン全力で出し切ってしまいましょう。
怒りまくり、泣きまくるのです。
すると、背中や、胸に疼いていた、傷、否定的感情が解消されて、正常な、良心が、親切心が生まれてきます。
それまでは、嘘の親切心、借り物の良心、つまり思考判断による、物まね良心、常識、教育くんが、生の感情を押し殺しているのです。
この思考、感情、動作の、認識をする中で、肝心なのは、監視や、コントロールではなく、癒しなのです。
あのグルジェフさんの書き方は、とても厳しく見えますが、実際は、自己を手放ししていく過程で、自己を観察したり、思い出したり、否定的感情を開放したりするのですね。
まあ、これは、理論的には、とてつもなく込み入っていますが、実は単純です。
①意識が、体の感覚と動作に注意する。
②否定的感情(怒り、恐れ)を他人に見せないで、自分でも内部で考えないで、エネルギーとして、感覚の中で、溶かしてしまう。
③良心の火が、全身に巡ることで、他人に親切になるwwww
結果としては、人に親切になるだけですね。
これが、作り物の親切ではなくて、本当に、他人の立場にたった親切になるのが、完成されている証拠でしょう。
まあ、僕は、まだまだです。
で、読書を終えると、昨日の残りの麻婆豆腐とキャベツ、しぐれ、卵ご飯で食事をいただきます。
千鶴さん、慌ただしく家事をしていて、機嫌が悪いww
「なんで私ばっかり」と連呼している。
面倒で疲れるので、手伝いをしないというのは、ワークの対極だなあ、笑
精進します。
で、食事を終えると、煙草を吸ってから、ブログの更新へ来たのでした。
それでは、皆様、本日も、恐れや怒りに負けずに、清新なるエネルギーに直に触れる、あるがままの生を楽しんでくだされまし!
バイバイ
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