初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
仏と言われるものが、別に、何処か遠くに有るのでなしに、この体が仏だと知っている偉大なる皆様。
ただいま母親の家からブログ更新を始めました、ダメ人間だめまです。
空気清浄機の回転する音がする。
時計がカチカチと回る音がする。
父親が、スヤスヤと呼吸をしている。
昼過ぎのちょっと気怠いような光が、窓から射している。
《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
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今日は、晴れているのに、少し薄暗く感じる。
季節が移っている。
鳥が鳴き、虫が鳴いている。
遠くの方で1号線バイパスを走っている車の音がする。
さて、今日は12時半ごろに目覚めました。
どうも昨夜はビール飲んでお菓子食べたあとで、寝てしまった様子です。
しまった、歯磨きとお風呂していないじゃないかとか呟きながら、洗面へ向かいます。
悠聖が暴れまわるので、千鶴さんが疲れているのとストレスで気分が悪い。
テレビの画面を叩いたり、いろんなものを手にとっては、そこらへんに散らかすので、大変だ。
洗面をしていると、どうも古い髭剃りが、いくつか置いてあるのが、気になって、千鶴さんに片づけてもらった。
そうしたら、他にもいろいろと使っていないものがたくさんあることに気が付いて、片づけてよと千鶴さんに言ったらブチ切れwwww
なんか色々と捨てようとするので、要るもんは残しておいてよと頼む。
洗面を終えると座禅40分ですね。
ようやく1か月くらい続いてきたので、慣れてきました。
色んな不都合がある中で、その不都合のままで、ただ姿形だけは整えて、一定の時間座っている。
だからといって、何かを得られるわけでも、悟るわけでもない。
ただ、そこに、遊んでいるのが、もう命の姿であり、天地の道理の表れであり、一切の仏の姿を現している。
悠聖が近づいてきて、ツンツンと胸を突く。
「あれ? あれ?」とか言いながら、また去っていく。
周囲で何かしら遊んでいる様子だが、眼を瞑っているので分からない。
なにか温かい感情が、心の中いっぱいに、広がっていくのが、感じられる。
どうして幼児は、あの、何とも言えない愛おしさみたいな空気を発揮できるのだろう。
柔よく剛を制すというが、あの、柔らかな、それでいて、何もかもに一生懸命で、すべてが遊びで、と、あらゆる姿が見本であるかもしれんと感じる。
動きの中に静がはいることで、静と動が一体になることが座禅である。
世界が浮き上がるのだ。
座禅を終えると、読書タイムですね。
コーヒーを入れて、煙草を吸いながら、至福の世界です。
今日は工場建設工事がお休みなのか、隣から、音がしてこない。
悠聖はまた僕の靴を履いて、庭を歩いている。
ベビーカ―がお気に入りなのか、押して行って、安全ベルトを弄りながら遊んでいる。
本には、座禅の要は非思量であるとありました。
非思量というのは、考えないと言う事ではなく、非思量を思う事なのだそうです。
つまり思いが無くなるのではなく、思いが無いことを思っているということですね。
虚心が、そこにある。
しかし、これは僕からの思いで書くと、方法なのです。
非思量を思量しているということは行為の結果ですが、その前に、もう、思量が発生する以前の、認識できる以前の空っぽがあり、その空っぽは思量の上に昇ることがないのですが、ないけれども、そこには、すべての働きが、もう、成されているわけですね。
ですから、この非思量にしても、個人が、それを取りに行くことでは、絶対に、辿り着かないわけです。
しかし、態度として、この非思量を思量することで、色々と湧いてくる恐怖と欲望を、スルーすることができますね。
受け取って、すぐに流れていく。
そのことは、もう事実なのですが、そこを理解するために、この対応をすることで、迷いを減じていく。
しかし、実際は、もう、それらも、すべてが、いまここで同時に、すべてあって、誰が、何かをしているということはないのです。
風が吹いているのと一緒なのです。
雪が降るのと一緒のようにして、思量が降っている。
それを己が行為と見做しているのですが、すべてが、縁起しているので、それは対象と自己の化学反応のようなものなのですね。
人間が機械であるというのは、このことですが、それが理解されれば、機械ではないということは、命の世界が、復活するからなのです。
感性が現在に対して閉じているのに無自覚であることを、機械と表現したわけですね。
一方の現在に対して開かれた人間は、命としての私が、自己の行為を、理性によって、感じ取ることで、己が行為というものに、命が吹き込まれるのです
。
命があることで、ここに万物に対する慈悲が起こって、無機質な反応機械ではない、良心のある人間になるのです。
って、まあ、親切な人になるだけですが、爆笑
機械が機械であることを知ることはできない。
もしも、自分が機械であることを知ったら、もう、機械ではない、人間だ。
とか、まあ、いろいろ難しいことがありますが、ただ単に、親切な人であることが、人間の質の高さを示しているのかもしれませんね。
で、読書を終えると、昨日の中華丼の残りで食事です。
悠聖は千鶴さんが作ってくれたバナナケーキをほとんど一人で平らげてしまうww
僕を見ながらニコッと、悪戯したったぞ、の、ように笑うので、可愛くてしかたない。
千鶴さんに合歓の郷までの距離とかを調べてもらって、いろいろ、旅行のこととかで、話す。
地図で亀山の東西南北を見てもらう。
今まで、知らなかったけど、東は愛知、西は滋賀、南が和歌山、北は岐阜ですね。
なんか近場で、いろいろと出かけるのも面白そうだなあと想像が膨らんでいる。
そのあとで食器を洗って、ブログ更新に来ました。
ほいじゃあ、みなさま、本日も最高の一日をお過ごしください!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
仏と言われるものが、別に、何処か遠くに有るのでなしに、この体が仏だと知っている偉大なる皆様。
ただいま母親の家からブログ更新を始めました、ダメ人間だめまです。
空気清浄機の回転する音がする。
時計がカチカチと回る音がする。
父親が、スヤスヤと呼吸をしている。
昼過ぎのちょっと気怠いような光が、窓から射している。
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今日は、晴れているのに、少し薄暗く感じる。
季節が移っている。
鳥が鳴き、虫が鳴いている。
遠くの方で1号線バイパスを走っている車の音がする。
さて、今日は12時半ごろに目覚めました。
どうも昨夜はビール飲んでお菓子食べたあとで、寝てしまった様子です。
しまった、歯磨きとお風呂していないじゃないかとか呟きながら、洗面へ向かいます。
悠聖が暴れまわるので、千鶴さんが疲れているのとストレスで気分が悪い。
テレビの画面を叩いたり、いろんなものを手にとっては、そこらへんに散らかすので、大変だ。
洗面をしていると、どうも古い髭剃りが、いくつか置いてあるのが、気になって、千鶴さんに片づけてもらった。
そうしたら、他にもいろいろと使っていないものがたくさんあることに気が付いて、片づけてよと千鶴さんに言ったらブチ切れwwww
なんか色々と捨てようとするので、要るもんは残しておいてよと頼む。
洗面を終えると座禅40分ですね。
ようやく1か月くらい続いてきたので、慣れてきました。
色んな不都合がある中で、その不都合のままで、ただ姿形だけは整えて、一定の時間座っている。
だからといって、何かを得られるわけでも、悟るわけでもない。
ただ、そこに、遊んでいるのが、もう命の姿であり、天地の道理の表れであり、一切の仏の姿を現している。
悠聖が近づいてきて、ツンツンと胸を突く。
「あれ? あれ?」とか言いながら、また去っていく。
周囲で何かしら遊んでいる様子だが、眼を瞑っているので分からない。
なにか温かい感情が、心の中いっぱいに、広がっていくのが、感じられる。
どうして幼児は、あの、何とも言えない愛おしさみたいな空気を発揮できるのだろう。
柔よく剛を制すというが、あの、柔らかな、それでいて、何もかもに一生懸命で、すべてが遊びで、と、あらゆる姿が見本であるかもしれんと感じる。
動きの中に静がはいることで、静と動が一体になることが座禅である。
世界が浮き上がるのだ。
座禅を終えると、読書タイムですね。
コーヒーを入れて、煙草を吸いながら、至福の世界です。
今日は工場建設工事がお休みなのか、隣から、音がしてこない。
悠聖はまた僕の靴を履いて、庭を歩いている。
ベビーカ―がお気に入りなのか、押して行って、安全ベルトを弄りながら遊んでいる。
本には、座禅の要は非思量であるとありました。
非思量というのは、考えないと言う事ではなく、非思量を思う事なのだそうです。
つまり思いが無くなるのではなく、思いが無いことを思っているということですね。
虚心が、そこにある。
しかし、これは僕からの思いで書くと、方法なのです。
非思量を思量しているということは行為の結果ですが、その前に、もう、思量が発生する以前の、認識できる以前の空っぽがあり、その空っぽは思量の上に昇ることがないのですが、ないけれども、そこには、すべての働きが、もう、成されているわけですね。
ですから、この非思量にしても、個人が、それを取りに行くことでは、絶対に、辿り着かないわけです。
しかし、態度として、この非思量を思量することで、色々と湧いてくる恐怖と欲望を、スルーすることができますね。
受け取って、すぐに流れていく。
そのことは、もう事実なのですが、そこを理解するために、この対応をすることで、迷いを減じていく。
しかし、実際は、もう、それらも、すべてが、いまここで同時に、すべてあって、誰が、何かをしているということはないのです。
風が吹いているのと一緒なのです。
雪が降るのと一緒のようにして、思量が降っている。
それを己が行為と見做しているのですが、すべてが、縁起しているので、それは対象と自己の化学反応のようなものなのですね。
人間が機械であるというのは、このことですが、それが理解されれば、機械ではないということは、命の世界が、復活するからなのです。
感性が現在に対して閉じているのに無自覚であることを、機械と表現したわけですね。
一方の現在に対して開かれた人間は、命としての私が、自己の行為を、理性によって、感じ取ることで、己が行為というものに、命が吹き込まれるのです
。
命があることで、ここに万物に対する慈悲が起こって、無機質な反応機械ではない、良心のある人間になるのです。
って、まあ、親切な人になるだけですが、爆笑
機械が機械であることを知ることはできない。
もしも、自分が機械であることを知ったら、もう、機械ではない、人間だ。
とか、まあ、いろいろ難しいことがありますが、ただ単に、親切な人であることが、人間の質の高さを示しているのかもしれませんね。
で、読書を終えると、昨日の中華丼の残りで食事です。
悠聖は千鶴さんが作ってくれたバナナケーキをほとんど一人で平らげてしまうww
僕を見ながらニコッと、悪戯したったぞ、の、ように笑うので、可愛くてしかたない。
千鶴さんに合歓の郷までの距離とかを調べてもらって、いろいろ、旅行のこととかで、話す。
地図で亀山の東西南北を見てもらう。
今まで、知らなかったけど、東は愛知、西は滋賀、南が和歌山、北は岐阜ですね。
なんか近場で、いろいろと出かけるのも面白そうだなあと想像が膨らんでいる。
そのあとで食器を洗って、ブログ更新に来ました。
ほいじゃあ、みなさま、本日も最高の一日をお過ごしください!
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