豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

どうにもなりはせん

2015-11-14 13:40:37 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

純粋にして素朴な感性が失われていない、あるがままの、自然体であられる皆様。

ただいま母親の家のPCからブログ更新を始めました豊田です。

体が疲れていて気力が乏しく、胸の辺りに、疲れの塊のようなものを感じる。

それを、どわーっと、疲れさせて、つまり「はあっ」とため息をつくように、力を抜くことで癒していく。

まるで温泉にのんびり浸かっているように、温かな柔らかさが、胸に湧いてくる。

痺れるように、溶けるように、疲れの塊が分解される。



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決して、力を入れて、元気を注入しようと、加えることをしてはいけないのだ。

手放して、疲れ切らせてしまうのである。

そうして、しばらくの静止が、あるエネルギーを巡らせることで、身体が蘇っていく。

悠聖がPCに興味津々でキーボードの前に強制的に割り込んできて、触ろうとするので、制止するww

今度は、自分のプーッと音が鳴る椅子を押して、遊んだり、ドアをバタンバタンと叩いたり、ガラス戸もガンガンッと叩きまわる、苦笑

椅子を押して、引いては持ち上げて、ドアを開け閉め。

「おーっ、おーっ、だっ、だっ」と言いながらマウスを弄り『平成狸合戦ぽんぽこ』をチラ見した。

木の棒を金槌で叩くおもちゃで、遊ぶ。

全く持って落ち着くことが無いのは、僕に、似ているのだろうか。


さて、本日は、10時半ごろに起きました。

千鶴さんが、色々と声をかけて、悠聖が体の上に乗ったり、叩いたりするので、疲れながらも起きてくる。

洗面をしているときは、なんかボーっとしてしまい、何をしていたか忘れる。

確か、大渕弁護士が出ている『さんまのまんま』を千鶴さんが見ていたような気がする。

悠聖は何をしていたのかな。

たまに、僕の方を覗きこんでニシャーっと笑って、部屋へ戻っていたような気がする。

意外にも、家にいる時、外食をしている時、仕事をしている時、運転をしている時、などなどで、一番、無意識になりがちなのが、家にいる時なのだ。

家にいる時は、何をしていたか記憶に残りにくいが、つまり、感じることが疎かになっているのだ。


で、洗面を終えると座禅40分ですね。

凄まじい、妄念、想いパワーです。

この妄念、想いパワーと外部への注意関心、心配、不安、恐怖、怒り、等々が、まあ、現在のリアルな感性を防ぐことで、痛みを和らげているのが、クンダバッファと言われるものですが、これは一般的には『自分の思い』とか言われています。

思い、想い、私の心、等々の、この、活動は、実は、真実と嘘を逆転させて、痛みを見ないようにさせている確信犯なのです。

これは、少年のころには、ほとんどないか、純朴、従順で、抵抗のないものだったはずです。

それが色々な痛みや、苦しみに、触れていくたびに、考えとか記憶が増えて、また本能の反応から自動的に、不快感、想いが溢れるようになる。

そして、その不快感が、周囲への周到な気配りになるのだが、この気配りは、なんと相手への気配りではあるが、嘘の気配りなのだ、笑

ここに帰るために、この想いと感心に抵抗する力は、感じることである。

印象を受け取る感受性が、どれだけ豊富であるかであるのだが、それを鍛えるためには、私だと思っている、それらの活動を客観視する必要がある。

なぜなら、通常の状態では、人は、自身の体に不注意で、この体が、目の前の世界と対になっていると感じているからだ。

しかし実際は、体も、心も、頭も、ぜんぶ円としての、この鏡の世界の内部構造なのだ。

そして、分裂が無い、そこで、真に自分と言えるものは、意識である、それと、五感である。

その、意識と五感の働きが、この世界に、自分と言う感覚を付与しているのだが、それを思いが、勝手に、対象と自己を想定して敵対させているのだ。

本当は、ここには、分裂したものはない。

即、何もかもが、ひとつなのであるが、個人が、それを、分断しているだけなのだ。

個人というのは、認識のことである。

そして真我というのは、認識の境目が、なくなることである。


さて、座禅を終えると、コーヒーを入れて読書ですね。

千鶴さんはドラマを見ていて、悠聖は、いつの間にか眠ったようだ。

玄関脇で、煙草を吸いながら読みます。

昨夜、食べていたポテチが残っていたので、それも少し齧りました。


本には、在家と出家に違いはないとありました。

肝心なのは、志であり、その志さえあれば、仏陀の広大なる慈悲は必ず、その姿を現すのだそうです。

安泰寺というお寺があって、そこは、広い畑で農業をして、小さな建物で過ごしているそうです。

そこでは、例え、修行をしても、お坊さんになる資格とか、お前は悟ったとかないらしく「それで、一体、どうなるのですか?」と弟子が聞く。

師匠「どうにもなりはせん」

爆笑!

つまり、座禅をして、何かに成ろうとするのが、普通ですが、別に、なんにもならないことをしているのです。

で、このなんにもならないことが、計算思考の、わたしには耐えられないのですね。

なんか、脳波の変化が出て健康になるとか、悟ったら超能力が使えるとか、金持ちになるとか、モテるようになるとか幸せになるとか、立派な人間に成るとかはないのです。

だから、そんなことを吹聴している眉唾な、教えは、最初っから疑ってかかるに越したことはありません。

自分で確かめたこと以外は信じないでくださいとグルジェフさんは言いましたね。


『奇蹟を求めて』は言葉の違いについてです。

人間とか、世界とか、言葉を聞いている時に、人は、その言葉に様々な意味を持たせるので、理解し合うことは出来ない。

同じことを話しているのに、言葉が違うから、違うことだと思い、また、全然別々のことを話しているのに、言葉が同じだからてっきり理解し合っていると思うわけですね。

人間には世界を捉える7つの段階がある。

①模倣

②情緒

③知覚

④直観と良心

⑤純粋意識と五感

⑥真我

⑦無

そして、その各段階において、それぞれの人が全く違った意味を言葉に含ませるのである。

天文学者は世界と聞くと宇宙が思い浮かぶのであり、宗教者は諸行無常と罪悪感が思い浮かびます。

しかし、これらも全部、7つのタイプの人間によって、さらに、捉え方が違うのです。

だから一人として、同じような人間はいないわけですね。

自分が良く知っていることが、どこからでているのか。

模倣なのか、情緒なのか。

また、それを、どのように受け取っているのかと、長い時間をかけて、言葉のさす意味を解説し合って、初めておぼろげながら、相手の言っていることが分かるような気がするだけです。

だから、グルジェフさんは日常会話のこと、つまり政治や経済の話なんかをしていることを「空を空へ注ぐ」と皮肉ったのです。


さて、読書を終えると、千鶴さんの作ってくれたオムレツと味噌汁でご飯です。

食べていたら、味噌汁を付けてくれた。

相変わらず、悠聖は、そこら中を駆け回って、テレビの前やら、おもちゃ、僕のご飯食べているところ、米の袋など、短時間で、凄まじく動くwwww

まあ、おいしく頂いて、煙草を吸ってから、ブログの更新へ来たのでした。


本日は、勢和多気へ千鶴さん達を送っていき、夜は羽若地区の寄合に参加します。

そのあとで南くんと、少しだけ、外食へ行く予定ですが、まあ、彼が、というか、彼も僕も、中々、遊び人だからなあ。

少しだけで済むことを祈っておきます。


では、では、皆様、本日も、首から肩の力を抜いて、脱力、脱力、イン解脱の精神で、最高の、印象をお食べ下さい、笑

ほれでは!

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