そろそろ、更新いたしますw
えーっと、職場と家の往復以外に、ここのところ動いたのは、南くんとの飲みですね。
なんか、愛されすぎ、笑
あとは、千鶴さんたちのご機嫌伺いに、彼女の実家のある勢和多気へ。
なんか、嫌われすぎw
で、まったく帰ってくる様子が、ありません。
傷つきすぎた。
まあ、お釈迦様なら、望みを捨てて、煩悩の矢を抜きなさいとか、あるだろうかww
えーっと、あと、ファミリーレストランで友人と食事しながら会話しました。
まあ、いろんなひとが、豊田くんも、ついに、来るべき時が来たのだなあと思っているようだw
あんまり鬱なので、原始仏典に頼っている。
欲望がとか、認識作用がとか、書かれているけど、本来清浄な、その滅したものは、静けさ、沈黙のことだ。
でも、このような経典を読んで、大騒ぎする煩悩もあるw
執着は、無常に変せんする外界と内界に自己同一化していることである。
それが、頭と体だ。
この不二の世界から、出れば、そこが不動の滅であるが、そこは、認識不可能なのである。
あらゆる考え、あらゆる感覚の世界は、あるがままにあるのであり、それは、自然である。
これは、認識を通して気づくわけではない。
スッカラカンになれば、そうなのである。
スッカラカンは、わがものであるとか、こうであってほしいという思いが抜ける、相手にならなくなることである。
心の波が、静まろうと、騒ごうと、その先にある滅の、つまり無心の、そこは、安心である。
これは、難しくない。
ただのテクニックの問題である。
体から始めないといけない。
身体、頭、を見て、そして見ている、それを、つまりこれは内面のことだが、その内面を超えるためにら、目の前を利用するのである。
全部としてある。
その外界と内界の逆転、そのときに、それらの諸活動、の、いちいちから抜けている。
この力は、見る、気をつけている、そのようなものだが、それは、認識されない。
不可視のパワーが、この、向こう側の不動の滅へ運んでいくのだが、そこで、必ず、わかる。
て、また、意味不に書いてしまった。
まあ、嫁が出てって鬱なだけだろうなあ、笑
ほんでわ!
えーっと、職場と家の往復以外に、ここのところ動いたのは、南くんとの飲みですね。
なんか、愛されすぎ、笑
あとは、千鶴さんたちのご機嫌伺いに、彼女の実家のある勢和多気へ。
なんか、嫌われすぎw
で、まったく帰ってくる様子が、ありません。
傷つきすぎた。
まあ、お釈迦様なら、望みを捨てて、煩悩の矢を抜きなさいとか、あるだろうかww
えーっと、あと、ファミリーレストランで友人と食事しながら会話しました。
まあ、いろんなひとが、豊田くんも、ついに、来るべき時が来たのだなあと思っているようだw
あんまり鬱なので、原始仏典に頼っている。
欲望がとか、認識作用がとか、書かれているけど、本来清浄な、その滅したものは、静けさ、沈黙のことだ。
でも、このような経典を読んで、大騒ぎする煩悩もあるw
執着は、無常に変せんする外界と内界に自己同一化していることである。
それが、頭と体だ。
この不二の世界から、出れば、そこが不動の滅であるが、そこは、認識不可能なのである。
あらゆる考え、あらゆる感覚の世界は、あるがままにあるのであり、それは、自然である。
これは、認識を通して気づくわけではない。
スッカラカンになれば、そうなのである。
スッカラカンは、わがものであるとか、こうであってほしいという思いが抜ける、相手にならなくなることである。
心の波が、静まろうと、騒ごうと、その先にある滅の、つまり無心の、そこは、安心である。
これは、難しくない。
ただのテクニックの問題である。
体から始めないといけない。
身体、頭、を見て、そして見ている、それを、つまりこれは内面のことだが、その内面を超えるためにら、目の前を利用するのである。
全部としてある。
その外界と内界の逆転、そのときに、それらの諸活動、の、いちいちから抜けている。
この力は、見る、気をつけている、そのようなものだが、それは、認識されない。
不可視のパワーが、この、向こう側の不動の滅へ運んでいくのだが、そこで、必ず、わかる。
て、また、意味不に書いてしまった。
まあ、嫁が出てって鬱なだけだろうなあ、笑
ほんでわ!
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