豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

感情も含んだ大拡張のアイデア

2012-09-14 05:38:49 | 日記
えーっと……なぜか鈴鹿にある「テンボーイ閉店」の記事がめっちゃ人気です。

結構衝撃的なことだったのかな。

たしか津グランドボウルが買い取って新しく営業を始めると南くんから聞いた。

一応書いておきます。


で、昨日は朝11時ぐらいに起きた(9月13日木曜日)

今週は夜勤だからか日付の感覚が分からなくなってきている。

僕は8時半頃に一旦、自宅に停めてある車で目覚めて家へ移動して寝ていたのだった。

夏の疲れがでてきたのか、考えすぎたのか、ブログ更新どころか布団で寝る時間も削ってしまった。

車で寝ることに慣れているので、こういうことをよくやってしまう。


起きてからも、どうもだるい。

とりあえず、ブログ更新用にYouTubeにアップする音楽ファイル作成する。


それから母親の家へ行きご飯を食べる。

これは朝食になるのか昼食になるのか?(笑)

麻婆豆腐と味噌汁とサラダをいただきました。

僕はホントに麻婆豆腐が好きです。

さいきんまではっきりしていなかったけど間違いなく大好きだ。


ピリ辛の麻婆豆腐食べられるところを食べログで探してみる。

『本場四川料理 楼蘭』がトップだ。

だいぶ前に南くんと一緒に食べに行ったことがある。

美味しかったけど、汗が噴出してくるくらい辛かったな。

千鶴さんとも行ってみたいけど辛くて食べられないとか言いそうでアカンなあ。

誰かまた一緒に行きましょう(給料入ったら笑)


食後は家に戻ってブログの更新をします。

時間が経って忘れているからか、何も外へ出かけていないからか書くことが少ない。

すぐに出来事を書ききりました。

しかし、そこからまた考えを書いていたら仕事直前になってしまいます。

頭の意識を吹き飛ばすんじゃなかったのか真大w


慌てて準備をするいつものパターンで会社へ。

いつもどおり千鶴さんと少しメールをします。


休憩時間は携帯をいじっておりますね。

今日は特に印象に残るような情報には触れることができず残念!

坂口恭平さんのツィートがまた止まっている。

鬱くしき花をさかせておくれよ。


食事休憩は千鶴さんと少し電話で話した。

どうも疲れているみたいで心配です。


それから前の部署のKくんといつも話すK先輩と雑談。

僕の酔っぱらった失敗談とか、あとはパチンコの話ですね。

酔っぱらった失敗談ありすぎて困る(笑)

『泥酔と自我』ってタイトルで前のブログにマニアック全開の記事書いたくらいです。

それからK先輩が他の方と会話されていましたが、どうもface bookを利用されているらしい。

このブログ発見されたりして。

実名でやっているけれど、仕事関係の人に見られると何かまずい気がする……。

ま、いっかw


仕事は今日も1時間くらい残業でした。


終わってからサークルKで『CCレモン(シャキッとすっぱい)』と『ガリガリくんソーダ』を購入します。

それらを食べながら帰宅。

帰宅途中に自分の音楽を携帯で再生するw

仕事終わったからか、昨日よく寝たからか、この時間帯になぜか元気になっていた。


家へ帰ってからはすぐにPCを付けて音楽ファイル作成をしていました。

途中でお風呂のお湯を張ったり、飲み物とってきたりする。

僕は水分取りすぎる傾向があり、常になにか飲んでいないとだめです。

煙草も吸いすぎだから、なんか満たされないところがあるんじゃないかと思います。


豊田真大 / そんな気がする


さてさて今日も考えてみましょう。

他者が自分に微笑んだら、自分も嬉しくなってしまう。

他者が自分に怒っていたら、自分も怒ってくる。

他者が自分を愛していたら、自分も愛してしまう。

他者が自分に●●していたら、自分も●●してしまう。

この状態では自分が感情的に依存しなくてはならなくなる。

傷つきやすい敏感な感情が反応するから「気にしない」

思考を無に還す感情バージョンが「気にしない」だ。

なにがあっても気にしないでいる。

他者が自分に微笑んだら、気にしない。

他者が自分に怒っていたら、気にしない。

他者が自分を愛していたら、気にしない。

他者が自分に●●していたら、気にしない。

気にしないでいたら感情は他者から解放されるじゃないか。

喜怒哀楽の動きの中で静粛を保って、平和=不幸の不在の中へ入る。

雲黒齋さんの指摘どおり、幸せは得るものでなく不幸の不在のことを指す。

自己の感情だけではなく自他を含んだ感情の中でこれらを実現していくのだ。

感情は外側からの働きかけだし、自他一体であるから、自分のことだけでは解決されない。

相手を含んでいて初めて感情に働きかけることができるのだ。

そうして今度は、他者の働きを気にしないで思いやることができれば凄いことになる。

でもこれには自他の区別がない感情状態を実現する必要がある。

そうでないと分離された状態で他者を思いやることは大変な困難だから。

困難というか、それは不可能だ。

彼/彼女たちは自分の反映である。

よく言われるように自己の行為を映し出している鏡である。

鏡と鏡が乱反射を繰り返して宇宙が構成されている。

光はひとつの太陽から放たれていて、それが人間を含む宇宙を創造したのだろう。

他者と出会ったときの受容性が大切なので「普段の自分がいない」状態にならないといけない。

「普段の自分がいない」というのは自己認識が拡大している状態である。

普段の自分はいないのだが全体が存在していることを感知している。

感知しているのが、本来の自己である。

『全体性の中には何と! 他者の意志と感情も含まれる』

普段の自分がいない、全体性に開かせることで他者を自分の心の内に受容することが可能となる。

この全体的自己は他者の自我の働きに関与する。

実際には自己内にある他者に自我があるという自己内の幻想に働きかけているのだ。

他者もまた意識内において夢を提供している。

自己の自我が幻想なら他者の自我があると思うのも幻想であるのは当然のことだ。

なぜなら僕にとっての他者は自己意識に反映されてはじめて存在しているからである。

つまり、自己が自己に夢見る中で出会っている。

阿部さんが「お前は俺で俺はお前だったのだ」と興奮して周囲の人々に話したことがあるという。

これはつまりこういうことだろう。


でも、昨日はそんなことより重要なことに気が付きました。

実は自分のテンション、意識状態が他者に影響を与えているということです。

当たり前と言われればそれまでですが(笑)

なのでキーさえ分かれば、そこにチューニングするテンション、集中力次第で結構な影響が及ぼせると思います。

まだ可能性として思うだけですが、そんなアイデアがでてきました。

私の宇宙は私が作り出している完全にユニークな世界なのだと推測してみることが出来ます。

他者にとってもそれは存在していますが、しかし他者は私を介してしか私と出会わない。

同じ宇宙を共有しているのに全く違った魂を生きることができているのだ。

これらの意識生命たちの創造の究極体が自然である。

であるからして、テンションが他者の私への表現となって帰ってくる。

つまり、これは物理的宇宙から、意志と感情を含む宇宙への大覚醒へ向かわなくてはならないという概念だ。

考えることや感じることもエネルギーを消耗するのであり、物質であるとも言える。

宇宙は意志と感情が紡ぎ出しているので物理的なものはひとつとしありえないとも言える。

ここで、意志、感情と物理世界の分離を解消しないといけなかったのではないだろうか。


僕が全体性と思った時、それは全宇宙が『感覚的に』私の五感を通して存在していて、感覚を感じている『私』は五感の認識外にあり、宇宙全体を包括しているという当たり前の発見だった。

しかし他者がここでは包括されなかった。

なぜなら『意志・感情』という高次の意識機能に対しては五感では捉えられないからだ。

フィーリング、存在することのリアルさは現在の眠っている意識の明晰性を取り戻す働きをしているのかもしれない。

全体の中で生きているという昔の人は当たり前にもっていた感覚、自然との一体性の復活である。


しかし感覚の紡ぎ出す宇宙は、意志・感情を含んだ更に巨大な宇宙に包括されている。

これを分離させているのが、自分だけ、個人的に受け取る感情である。

意志と感情をも宇宙全体の働きの中に開け放ってしまうと個人的なものは残らなくなるだろう。

鳴いている鳥の動きは私の感覚が創りあげているが、意識・感情がもし鳥にあるとすれば、その内面宇宙も本来の私がいて初めて存在する者である。

これは意志と感情の機能の問題だ。

Gやウスペンスキーが人間の進化について語った時、これらのテーマに挑戦していた可能性を考える。


極めて興味深い推論に達しましたが、日常生活に戻らないと精神病になるといけないので仕事へ行ってきます(笑)

また慌てて準備しないと行けない……。




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