goo blog サービス終了のお知らせ 

豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

消える、消える

2017-05-22 18:04:27 | 日記
こんばんは。

だらけにだらけた気分満載の豊田です。

本日は夜勤ですがブログを更新したくなったので書いています。

母親の家でご飯を貰う前ですね。

テレビでNHKのニュースが流れていて、父親は見ないで何か台所の机に向かっている。

母親も何やらやっているが、分からない。

「箸で食べリン」と言っているので、食事しているのだろう。

天上の扇風機が回っている。

僕は風に当たるのが大好きなので、パソコンのうしろで扇風機を回して当たっている。

夕陽が窓の向こうからこちらへ当たっている。

気分も体も疲れた感じで、やる気が無い。

シーンと止まると、なにか、それでも安心感のようなものが漂うのが不思議である。


というわけで相変わらずの生活なわけですが、以前の更新から何をしてましたかね。

だいたい生活でやることは変わらず、仕事して友達の付き合いして、一人になれば倒れている笑

禅とか念仏とか密教とか、ノンデュアリティとか自己変革とかの本を読む。

それでアレコレ考えてみたりインターネットでいろいろ見たり書いたりして、反応を見たりする。


この金曜日は知人と四日市へ。

以前からの約束だったのだが、なかなか出かけられなかったので無理をしてでも行く。

まあ外に出れば様々な人がいて新鮮である。

土曜日には、千鶴さんと悠聖に会いに勢和多気へ。

三重こどもの城で、遊んできたのだが、帰りに悠聖がぐずったので怒ってしまうという事件。

いかんいかん。

家へ送ってバイバイするときに大泣きしたので胸が痛む。

得意のバックブリッジでないてたw

あれ、赤ちゃんのころから、あの泣き方だよなあ。

そして日曜日、昨日は、バーベキューですね。

まあ、まったりのんびりおいしいお肉とお酒で、相手してくれる人たちもいて満足。


しかしまあ、よくぞ、これほどに次から次へと予定がやってくるもんだw

特に僕は何も企画しないと言うのに、ずっと、この状態は続いているのである。

まあ楽しいからいいか。


で、今日は疲れて一日中寝転んでました。


ここまで書いたところでカレーを食べて満腹になったけど、仕事の時間が近づいてきて嫌になるww


さて宗教のことですが、ここのところは飛躍的進化があったのだけど、上手く説明できません。

なんか、この、ここ、つまり現実が、あるにはあるが、まあ過ぎ去って実体もなく、言ったら確実にあるわけではないということ。

そう感じてたら、胸の反対側の背中の方の重みが消えました。

で、そこから妄想へ赴かないようにすると、この苦しみのようなものはなくなります。


まあしかし、無くなるからといって現実は、そのまんまで何も変わらないので問題は問題としてあります。

その問題が脳内の心配や焦り、楽しみ苦しみ、そんなものに返還される前にカットしてる感じ。

なかなか上手くいってます。


もうひとつは現実世界が丸鏡に映っているみたいな認識が、また来ましたね。

で、そこから離れて、心の動きを止めていると、まあふわっと光に消えていくような感覚を持つ。

これはこれで一つの方向なのかもしれない。


んー。

あとはですね。

あればあるだけという有名なやつですが、これは過ぎ去るに任せる感じになりました。

つまり目の前というものは風があれば風が過ぎるし、音があれば音が過ぎていくのだが、そこにはまれば自分が抜ける。

で、その風自体も、通り過ぎていく。

しかし、また新しいものが、様々に現れては消えていく。

種別をわけずに、とにかく、なにかの印象が、内面外面どちらにもやってきては通り過ぎていくのだ。


で、自分は、そこに何を残すわけでもない。

ただ、それは、来ては去っていくのだから、そのまんまにしておくしかないのである。


無とか有とか、そのようなもの、認識も、いまここも、何も要らないが、苦があれば消していく。

苦は、首の後ろくらいから、あーだこーだ言ってる、そのものが顔を出さなければないwwwwww

その認識者が対象に消える時、その対象は過ぎ去り、認識者も消える。

そしてまた新しい対象が現れ、認識者は消えている。

そして、何らかの記憶が、内面をみだしはじめたら、止める、止める。

とにかく止めるのだ。


で、悟りも何も、この心のさっぱりだけがあれば、それでいいのではないだろうか。

うん。

そうに違いない。

わたしの内面に何もなくなったとき、外界の変化の前にある、なにもないそこが、対象としても認識されるように思うが、まあ、そういうのも、イランと言えばいらんのだろう。



とにかく新しい変化があるのだが、これを言葉にできるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。

南無南無w

生きている感動を告げるだろう

2017-05-11 18:46:38 | 日記
こんばんは!

今月もブログ更新しておこうと思います。

さっきから母親が親戚のことを話しかけてきてイライラしています。

書いてるから話しかけないでと言う。

さらには「あんた鶏肉ぜんぶ食べたん! 食べすぎやでー」とか抜かし、トイレに行った。

イライラと笑い。


さて、最近は、ノンデュアリティー研究にいそしみながら、会社の人たちや、野球チームの人たちとバーベキューをしたり、姪っ子と公園へ行き、消防署のイベントに参加したり、ボーリング、釣り堀、ユーフォーキャッチャ、コインゲームなどで遊ぶのに付き合ったりしました。

うん。

あとは、まあ野球の試合に参加したり打ち上げして、飲みに繰り出したり。

千鶴さんとも電話では話してますね。

我が、長子は、幼稚園では大人しくて、家では大はしゃぎらしい苦笑

「あんたに似て内弁慶ちゃうの」みたいに言ってたwwwwww

おもろいな。


で、えーっと、仕事なので、そろそろ行かねばなりません。


あー、今度、小出瑤子さんの名古屋でのテンプルに参加しますよ!

超楽しみ。


うん。

で、そう、掲示板とかで相変わらず適当なことほざいてますが皆、言葉を知ってるからかっこいいな。

一切法無我とか五蘊皆空とかwwwww

父母未出生以前の本来の面目!

とかwwwwwww

有身見がどーとかこーとかwwwwwwww


ノンデユアリティでさらに理解を深めた僕は、ついに、高次感情中枢が何かを理解したぞよ。

それは背後の意識のことだ。

その意識は、こう、通常のものではなく、包むものなのだ。

その慈悲の光に包まれているわけだが、それは、夢を見ている意識と同じである。

なぜ、これを惑星界とつなげるかといえば、それが、地球の外周にあるからなのであり、その外周にあるものと、自己をつなげるのが、大気。

つまりアストラルであり、その霊気は空気から生成されているのです。


しかし、それを軌道に乗せるには、首の後ろの煩悩、迷いをとって、この現前世界に、精神集中している必要がある。

そのきっかけとして、身心脱落、脱落心身があるのだ。


すると、この生命の光である高次思考中枢がメンタル領域で直感的に知られると共に、この背後の天使も活動をはじめ、ついに、完全調和されている人間としての喜びに目ざめるのであるが、、、

それは古来から宗教が説く、愛、祈り、慈悲、等々のものなのである。


禅を極めた人は、親鸞の歎異抄へ行くとか、阿弥陀の念仏に行くらしい。

南無阿弥陀仏と10回唱えるというあのやつ。

その阿弥陀仏が、この光と生命の世界の背後から包括的に、全存在を包んでおり、その、そこで、脱落しきっているのが、救われた状態である。


それは現生的な世界での、対象物との関係性における、無我の認識とかではないのだ。

その無味乾燥な理解に、真の開放、解脱をもたらすものは、阿弥陀の、つまり、光と生命のエネルギーである。


すべてはエネルギーが形を変えて、あれであったりこれであったりするが、私はいないということが、解放になるのはこれである。


そして、この中で、また、エネルギーの増幅に向けて、修行するために、昔の練習のメニューを、もう一度再構成しようと考えている。


この、私に働きかける、温和にして調和のとれた力は、得も言われぬ、生きた感動を、生きている感動を、告げるだろう。

東京とか行ったりした

2017-04-10 15:35:23 | 日記
こんにちは。

久方ぶりにブログの更新をしようと思います。

今月は久しぶりに元嫁様から連絡があり、長男が保育園に入った様子の写真が送られてきました。

そこで電話をかけてしばらく話しました。

まあ、どうしようもない生活を送っているので、助けることが中々できませんが、また出来ることはしたいと思っとります。

おめでとう、ゆうちゃん。

まあ、ここで書いても仕方ありませんがw

電話で少し話して「パパー」と言ってましたが、すぐに飽きておりました、あやつ。


で、まあ、先月はですね。

と、待った!

他のことを思い出しましたが、まあ、ここんところ調子に乗ってお金使いすぎて大変な事情があるのです。

まあいっつも調子に乗って失敗している人間ですがね。

それと共にタイミングよく仕事が忙しくなっているので、何とかなるかもしれませんが、疲れる。

私は今、疲れている!

それを書いておきたかったのですwwwww


で、ですね。

まあ先月は、このピンチの中で、決意をしてですね東京へ遊びに行きましたよ。

ツイキャスで好きだった子が、オフ会するというので、どうしても参加しようと思って色々策略を巡らせて行ってしまいました(笑)


名古屋まで電車で行き、そこから高速バスですね。

東京まで6時間か7時間かかるので、まあ、たいへんです。

僕は『すでに愛の中にある』を読みながら時間をつぶしていました。

なぜなら、タイミングがよく、その日曜日、つまり翌日に、大和田菜穂さんのイベントがあったからです。


まあお金と時間に余裕があったら行こうかなと思ってましたのですよ。


それで東京ついて、池袋まで行き、喫茶店とうどん屋と、焼きトンのお店を楽しんでました。

あ、そーだ!

バスの中でゆらゆらしている時に、連絡があって、ツイキャスの子はこれないとwwwwww

おーいw

まあ仕方ないかと、他の子たちもいたので、その人たちとカラオケで騒いだ。

勝負したけど、なんか、めちゃ上手い人たちで、完全敗北w

90点台ばっかりとかありえん。


散々歌って、しかも夜の飲み屋街でもはっちゃけってしまった私……。

ダメダメマン最強ですわw


それで、翌日は2日酔いで、めちゃ考えてたけど、まあイベント参加しとくかーとなりました。

めったにタイミングかぶるなんてなさそうだし、なんかないと参加しないしね僕。

ハッキリ言って、思いっきり冒険ですよ、この参加には、破産と言う現実があったわけですからねwwwwwww

まあしかし、行ってしまえと決めたら、状況に関わりなくやってしまうアホ人間なのです僕は。

何度人から「アホ」と呼ばれてきたことでしょう(笑)

思い出したくもありませんが……。


で、まあ会場に早く着きすぎて、携帯の充電もなくなって超絶暇時間を過ごしてから、会場の前で地べたに座り込んで待ってました。

そうしたら、いらっしゃった。

おお!

なんか、動画とかで見てたから普通だったwwwwwww


まあお話の内容は、いつもの、アレですが、つまり、まあ彼女は、普通のことしか話してないのですね。


人間の欲求そのものが現実とは無関係に、常に苦しみでしかない。


講演?

のあとで、飲み会があったので参加しましたが、中々濃いメンバーで、久方ぶりに楽しかった。

ああいう、共通のテーマで話せる人たちと定期的に、食事とかできたら、超絶楽しいんだろうけどなあ。

なかなか難しいことですわ。


というわけで、かなり端折りましたが、そんな感じで帰ってきました。


その後ですね、彼女の後光パワーなのか、なんなのか、また、ひとつ、新しい発見がありましたよ。

もちろん、行きっぱなしではないですが、この世界が、確実なものではないという気づきがやってきたのです。

それはもう、間違いなく、あの場で、実際に、会ったことが大事なことだったのです。

まあ、一度は会っておかないとね。


心身から抜けると言うのは、この、私が抜ける事なのです。

つまり対象化されたものがないことですが、それは、単に、ここに、私と言う受け手が不在になるだけです。

そのことを行為者も経験者もいないと表現されているのです。

ここで、禅と違うように感じるのは、この目の前の世界、つまり、これとか、いまここ、などで表現されている、そこに、確実性を見ているか、つまり、置き場があるかないかだと、感じます。


つまり、目の前の生に開いているか、その開いた先にある、その無というのか、空、からっぽのところにいるのか?


そのあたりで、少しだけ禅の人と違う気もする。

どちらも開放感はすごいものがありますが、とにかく、これは心理的な性質のものです。

つまり、心の安心の話で、ぜんぜん科学的ではないのですよ。

自分の主観の世界が、どのように変化して、それが、絶対確実な静寂に導かれるかなのであります!!!!!


みなさん?

この世界は演技でなりたっているのです。

ひとつのジョーカーが、僕になりあなたになり、パソコンになり、音楽になり、光になりと戯れている。

その表層は、華々しいけれども、その向こうは空っぽなのだ。

そして、この表層を表層として見破った時、これは、子供のころには知っていたことだと思い出す。

懐かしい。

昔は、自分が、そこにいることを知っていたのだ。


ここには誰もいないけれども、誰かとなって、表現されている。

名称と形態によって、何もないところに、すべてが現れて、数々のドラマを巻き起こしているのではあるが、それ以前のところが、あるのであーるw


そこに気が付くのは、難しいかもしれない。

僕も、なんども行ったり来たりしているが、まあ大和田さんなんかは、そんな状態ではないらしい。


ていうわけで久しぶりのブログ更新でした。


この世界は、すべて、ジョークのようなもんです爆笑

過ぎ去ってみたら、何も、残っていない!

気持ちが繋いでいる

2017-03-11 08:53:13 | 日記
暇なんでブログ更新しまーす!

さいきんは、ツイキャスとモンストに相変わらずはまってますw

この前は、音楽の専門学校へ進学する方のギター演奏を深夜に聴いて癒されまくってました。

すごい時代だね。

あとは、嫌われる勇気とアルケミストという本を、また読んでました。

幻想的なんが好きなんやねぼく。

日常に、日常でないものを持ち込むこと!

うん。

それで精神世界的に最近気づいてるものはね。

もー、たぶん、だれもついてこれないだろうけど、この自分の気持ちってものが、実は天の意識と、そして体の、中間点にあって、その気持ちが、理性、過去とリアル感覚の間で揺れてる。

その揺れが、どのように起こってるかの秘密は、まだ解明中だけれど、この意識が気持ちを通して、自身の背中から全身にかけて、呼吸の浸透した感情というものを流すと清涼になるw

その清々しい感覚は快感。

そして、そこで認めている、理性、の働きが解き放たれるといい。

まあしかし、これが、どこへ導くのかはわかりませんよ、まったくwwww

とにかく、今のところは大丈夫。

しかーし、なぜか精神的な理解が深まると日常が破壊的影響に巻き込まれるという、いつもの傾向は、またまた、やってこられているな。

こーいうものは実質的なのだ。

手に取れるように明らかなことであって、思念の中で、アレコレするものではない。

過去と感情が、リアルに溶ける、融合する、フュージョンする。

そこには幻想的な、充満した生が、、、


妄想爆走やっちゃりますわw

2017-02-16 14:43:57 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次




こんにちは!

今日は用事があったのでろくに寝ないで『モンスターストライク』と言う名のスマホアプリで遊んだり、南くんと電話したりしておりました。

母親の家で卵ご飯と味噌汁の朝食を食べて、あれこれ脳内散策も。

で、昼過ぎから知人のお宅へ伺って、少しだけお話。

そこからエディオンという家電のお店でグルグルして、トイレに行きたくなってガストへ。

日替わりランチを食べましたが、昼間に行動するのが久しぶりだったからか、超新鮮だったww

なんか光の感じが今日は違ったけど、春がもう来ているのかな。



《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



いいですねー、やっぱり夏に向かっていくのは、テンションが多少は上がっていきますわ。

そこから、今度はゲオというリサイクルショップへ行って、いろいろ見物ww

ゲーム買おうか、攻略本買おうか、ああ、こんなのもあるんだーとか?

で、結局は、何も買わずに帰ってきました。


それで、外に出たら、なんとなく気分が明るいので、久しぶりにブログの更新でもしようと思ったわけであります。


いやあ、まあ、人生ってホント色んな事があるもんですが、やっぱり心の澄んだ人に出会うとか、新鮮な自然に触れると言うのは、なかなかいいことであります。

こう、宗教なんかでは、テンションマックスで、こう、なんちゃらかんちゃと言いますが、そーゆーことをやってるからアカンのだ笑

命がどうのとか、分離が無いだとか、高尚なる全体だとかwwwwww

まあ、ホントの話だけどお。

それはねえ。


神様が人生を創ってたとして、まあ、その神様の意図なんかは分からん。

それから、なんで、ここにおるんかも、分からんwwww


結局、分からん。


魂というものがあって、それが、成長してとか?

ありそうな気もするけども、しかしながら、ほんっとに分からんww


まあ最近も宗教関連のことで芸能人が話題になってましたが、もう、何がホントで何が嘘かなんぞ、誰にもわからん世界なのです苦笑


大乗仏教と原始仏教と、キリスト教とイスラム教と、ヒンドゥ教とゾロアスター教と、神道と道教と、世間教と自分教とwwww

しかしこれ、日本ですら、様々ですからねえ。


ああ、バーの野球チームの先輩から言われました。

「宗教は人それぞれなんやで、あんまり、ゆーたらアカン」

と優しくw


そー、そーなんですよ!


まあ、なんか分からん呪文みたいなの唱えて、幸せになるのだと言う人もいる。

そこに質が在ったら、そーなんだろうけどね。


沈黙の中で現れてくる、天空の光は、これは、自己ではないにもかかわらず、自己を存在せしめているものなのである。

それは、基盤としてあり、そこが意識されようが、されなかろうが、必ず、常に、存在している。

その高次の地点と、自我の間に、つながりが確立していないのが普通の人たちなのだ。


そして、宗教の光明を得たと言っている人々は、この光に触れて、そして、そこに溶けた人々なのである。


この光に触れるのは、はっきり言って、説明できませんwwwwwww


なんかしらんけど、とにかく、こう、いろいろ努力して、アカンくて、それでも、なにやらあがいたり、座ったり、人生生きたり、なんとか、かんとかの全てが関連していて、しかも、なんていうか、方法はなんであります爆笑


しかし、いつも思うんだけど、色んな突拍子もないことが、フェイスブックにしてもブログにしても、こういう精神世界系のところでは書かれているけどさあ。

ああ!

そうだw

僕の大昔の知人も、いろいろ書いていて、それはまあエンターテイメントとしては、楽しくていいんだけど、どうなのかなあ。

あんまり感心しない。


人と触れ合ったり、自然を感じたりするのが、人間の闇の塊みたいなのを破壊する。

のは、誰でも分かると思うんだけど、そのヂカの働きを阻害するのが、緩衝器、つまり防衛機構なのだ。

それがなければ生きていけないがww


認知して構えている、その状態が、解けていくのが、座禅とかなのかな。

自分を超えたところと、触れないと、宗教的な見地に立つことは無いのだと思われます。


しかし、このように、あーだこーだ、言ってても何にもならんから、うまいもんでも食った方がマシという意見もありますねww

まあ、そうですね。

うまいもんが食えて幸せなら、それで、いいのかもしれません。

しかし、人生には、たくさんの出来事がやってきますので、どうしても苦しみが付いてきます。


そこで、その苦しみが起点となって、やっぱり宗教的な方向へ行く。

なにかを理解していく。

しかし、それは、非常にゆっくりしたテンポで、ありますので、坐禅したからとか、本を読んだとか、そんな行為とは関係ないのです。

内面の状態、在り方に対して、自己が省察して、こう、様々にやっていることに意味がある。

つまり、ここで、心の葛藤、苦しみが生まれていることで、実は、それが種となって、新しい見地に至るのです。


非常に情け容赦なくやってきますからねwwwwwwww


人間の体が死後燃やされて骨になってしまう。

その姿を見た時に、これは、自分の姿だと、誰もが分かる。

つまり、この、生命は、終わりを迎え、きれいさっぱり無くなってしまうのだ。

誰もがである。


この不可思議さ。


つまり体は対象であるのであって、その対象しか、この世界にはないことになるだろう。


この対象である身体、内面の、この諸活動が空である。

縁によって仮に生じてはいるが、それらは、もともと無いのだ。

そこに自己と言うアイデアが生まれて、これが、自己であると守っている。

もちろん、守ると言う行為がなければ、すぐに死んでしまうので絶対に必要ではあるが、それが、仮の物であるという前提が忘れられたのだ。

そして分離のない、この、鏡の世界の中で、たったひとりで、全体を形成しているのが、自己を超えた自己である。

自己を超えた、なんらかの質。

この天空にありながらも、全体に遍満する質は、静寂の中で現れている。


そこに触れるコツは、自己を感じることである。

そしてまた、自己の対象物も感じることである。


自己に帰ることなのだ。


普段は、自己を見ていないのだが、自己を見るようにし、そして更に感じるようにする。

それは、そうすることによって、自己を改善したり、行為を改めたりするためにしているわけではない。

出来事は関係ないのである!!!!!

そしてまた、人格や本質、云々の話も関係が無い。


とにかく、どのようなことでも、自己、そして、対象のこの一連の動き、活動を見ている、感じていること。

そして、それらが蓄積されていくことが大切なのである。


グルジェフさんが「自分自身を想い起こす」と教えました。

これは、そうすることによって自己の肉体と、それらに付属する五感が、対象と同時に存在し、そして、それら全体の世界が、一つの眼の中に、神の眼の中にあり、その意識の光が、体と対象を分けている、そこを統一する働きをするからなのだろうと、今は思われます。


ああ、ここで一つ思い浮かびました。

この対象と言うやつは、例えば、石を見れば、その石が対象として自らに出現しているのですが、その石と自分の五感は別れないのです。

当たり前の話ですがwwwwww

どちらか一方が欠ければありません。


そして、よく禅なんかでいう、そこに在れというのは、自分を取り去るためのテクニックなのです。

しかし、ここで、自己が参戦しているからおかしくなっているのだ。


なぜ、そういうことになるのかというと、その人が、苦しんでいないからなのだろう。

わからんwww

ここは推測でしかありませんが、すべてが皆目不明の境地は、悟りではないだろうと思われます。


音がする風が吹く、そして、そこに自己がいない。

この、自己がいないというところが肝心かなめなのです。

ところが、同じような話を書いているのに、すぐに、自己の所感が入る人がいます。

バレバレなんですが、なぜか、本人は気が付いておらずwwwwww

もう爆笑するしかないのですが、そのことについて、誰も、分かっていないので、まあ、どうにもなりません。

爆笑なんかした日にゃ、袋叩きに合いますわww



トータルに自己がいないということなんですね

360度。

つまり、ここにある、すべてが、本来は自己ではなく、あの天空の光が、勝手に展開している、この、まあプレゼントなのです。

しかし、そこで、まあ、ここにあることが、苦しくてたまらんとなれば、その出口から、外に出て休憩するwwwwwww


外なんかないけど、感覚からすれば外みたいだ。


でも、この、外と言う認知が残っていれば、それは、外ではないのである爆笑


だからさー、この世界が分離が無いのは、鏡で、そして、それを見ている眼しかないからなんだよ。

でも、その、ここが、幻なの。

この、ここで、大切なのは、この、ここが、今しかないからだけれども、しかし、この今とか分離が無いとかだけでは、違う。

この体と世界の相関関係である人生、そのものが、ないってことなんだよねw


本来はだよ。

もともとは、ない。


だからねえ、光の温泉に浸かるには、この意識の源泉に辿り着いて、そこから溢れる湯に、裸になって飛び込まねばならぬのよ。


分かる人いるよね?

たぶん、世界中で、いまんとこ一人くらいしか予測付かんけどねw


というわけで久しぶりの、妄想全開ワールドでした。

たぶん、今まで、僕の話を、まともに聴いてくれた人は、あんまりいないいだけど、わかったらわかる。

分かったら分かるのだよwwwwwwwwww


ほいじゃあ!