エドルネ日記

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脳裏に刻まれた大船浸水の光景~地図を眺めながら

2015-12-16 | 地図・地形

この冬は記録的なエルニーニョ現象に見舞われるとの予測、

先日(12/11)の暴風雨もその影響とのこと、師走に激しく窓を

たたきつける雨風、そしてその後の暑さは確かに異常でしたね。

寒暖の差が激しく体調をこわしがち、この冬は寝る前にカリン酒に

生姜、ハチミツ増量で、ポカポカ乗りきりたいと思っております。

さて、季節外れの嵐に打たれ、ふと思い出したことがありました。

ブログの続きは、記憶に刻まれた浸水の大船について書いてみようと思います。

 


 
私が子供時代の話です。
ちょっと雨が降ると柏尾川が氾濫して、大船が浸水することは
地元では有名であった。
よく浸水する場所だと知っていても、実際に見たわけではないので、
子供心にリアリティがもてなかった。
それがある年、大船の浸水が深刻さを話す大人たちの会話
「ナボナが通りに浮いてたんだって。」(※1)
を聞いて、強烈なインパクトをもって記憶にすり込まれたのだった。
ナボナがおやつで出てくるような家でもなく、
ただただ言葉の衝撃度ゆえだろう。
なにせ「ナボナはお菓子のホームラン王」(※2)だもの。 (^-^)
 
 
〇地形がわかりやすい地図でみてみる。
 
 
※「スーパー地形」(左) カシミール3d使用
スーパー地形(左)に東海道本線、横須賀線、根岸線、江ノ電、
湘南モノレールなどの路線と主な駅を入れてみた。
大船が鎌倉と鎌倉市外を結ぶ交通の要衝であることがわかる。
 
 
 

カシミール3D使用、川だけ地形地図に、大船駅に赤いピンをたててみた。

柏尾川は、JR戸塚駅付近より大船駅(赤いピン)付近まで
東海道本線沿いを流れ、藤沢市川名で境川に合流する。 
合流地点は以下参照
 
 
大船駅付近をズームしてみる。
 
JR大船駅(赤いピン)の横に、青いピンでナボナの亀屋万年堂をマーク。
柏尾川左岸、北から順に「いたち川」「砂押川」「小袋谷川」が合流する。
 
 
 
以下青字は「ウィキペディア」、灰色は「鎌倉雑記禄 鎌倉の川と橋」より引用、

〇大船駅付近の柏尾川左岸の支流について

・いたち川・・・鎌倉市境に近い荒井沢を水源とする洗井沢川、港南区境に近い瀬上池周辺(瀬上市民の森)を水源とする瀬上沢、金沢区境に近い上郷町付近を水源とするいたち川が、栄区役所付近で合流する。西へ流れ、JR東海道・横須賀線と根岸線の路線が分岐する付近、笠間町と飯島町の境界で柏尾川に合流する。瀬上沢と洗井沢川は小川で、総称していたち川と呼ばれることもある。

・砂押川・・・今泉台、今泉、岩瀬地区の水を集め、大船駅の下を潜り、その東側で柏尾川に合流する川です。柏尾川を除けば、滑川に次ぐ規模の河川。

・小袋谷川・・・建長寺の境内の奥に端を発し、建長寺境内、鎌倉街道の下を流れ、十王堂端より下流は鎌倉街道の西側を、水堰橋より下流は鎌倉街道から東海道線鎌倉踏切に続く道と横須賀線の間を流れ、柏尾川に合流する。

 ※参照引用:鎌倉雑記禄> 鎌倉の川と橋

 

 ・・・大船周辺で柏尾川の3つもの支流が合流、あらためて地図を眺めてみると

水害ポテンシャル高すぎるんじゃない!

 
 おっと!そうえいば、先日の日経の「東京ふしぎ探検隊」に

関東大震災(1923年・大正12年)直前、大船駅東側の

「大船田園都市計画」について書かれた興味深い記事があった。

大船駅(赤いピン)、亀屋万年堂(青いピン)も大船田園都市計画地にある。

当時このあたりはどうだったのだろう。柏尾川の水害の歴史について調べてみた。

 


柏尾川流域における開発と水害の歴史は以下のよ うに時代区分できるという。

以下青字は、総合都市研究 第35号 ー988. 水害の変遷と浸水危険地域地図 首都大学東京 都市環境学部より引用

 柏尾川流域の水害に関わる時代区分
(1)流域には集約的な土地利用が行われていなかった時代(1906年以前)
耕地整理が行われる以前の状況である。氾濫原は水田として利用され,堤防に守られていた地域
は狭い。河川を氾濫させることにより重要な地域の浸水を防いでいた。また,水田が主であるので,
浸水したとしても被害は大きくはならない。
 
(2)河道が人工化され,都市化が始まった時代(1907年から第二次大戦後まで)
農業生産の向上のために蛇行していた河川は直線化され,氾濫から全ての農地を守るために河川
の両岸に連続堤が築かれた。浸水の危険性の低下は,より集約的な土地利用を促し,工場が氾濫原
に進出してきた。しかし,戦争に国力が向けられ,治水対策はなおざりにされていた。
 
(3)都市化が進行し資産や人口が集積されていった時代(第二次大戦後から1958年迄)
第二次大戦後の経済の復興に伴い工業地帯も発展し,既存の工業地帯では工場を収容しきれなく
なり,工業地帯は周辺部へと進出した。柏尾川流域には京浜工業地帯から進出してきた工場が立地
した。工場用地では高い盛土がなされ,氾濫原内の遊水機能が低下した。工業の発展は人口の都市
集中を促し,住宅地の開発も氾濫原の一部に進められた。その結果,被害ポテンシャルが大きく
なっていった。それを立証したのが1958年の水害である。
 
(4)本格的な治水工事が開始されたが,都市化に追い付かない時代(1958年から1980年迄)
1958年の水害を契機として治水対策が始まった。1961年の水害後には流域の全体計画が策定され,
本格的な治水工事が始まった。しかし,治水工事は都市化の進行に追い付けず2年に一度は水害
を被るような状態が続いた。また,流域の都市化は氾濫原に留まらず,丘陵地に大規模な住宅団地
が建設されはじめた。その結果,氾濫原への被害主体の進出ということと,流域内の降悶一流出シ
ステムの変化という2つの問題を解決しなければならなくなった。
 
(5)総合治水対策が取られはじめた時代(1980年以降)
河川の流下能力を高める対策だけでは,水害対策は不可能になった。それは上流の丘陵地の市街
化に伴い洪水流出量が増大する一方で,氾濫原の開発が進み河原を拡幅するための用地が
得られなくなったことによる。そのため,流域全体で洪水流出を抑えることが必要になり,総合治水対策が
導入された。しかし,氾濫原には高い盛土がなされ保水能力はないし,浸水を容認出来ない土地利用が
広がっている。・・・略・・・・
 
 
・・「大船田園都市計画」は関東大震災(1923年・大正12年)直前にたてられた計画なので、
記区分の(2)となる。
さらに柏尾川の治水・開発事業について詳細は以下

柏尾川に大規模な人為が加えられたのは1907年に始まり, 1910年に終了した耕地整理事業が最初
であるという(野沢, 1981)。明治政府は1899年に食料増産を目的として耕地整理法を制定し,土
地利用の効率化をはかった。柏尾川の氾濫原の耕地整理事業もその一環として行われ,この事業に
より,吉用付近から笠間付近までの本川沿いの氾濫原の耕地整理,水利施設の改良および新設,柏
尾川の河道改修および築堤が行われたという(野沢, 1981)。これらの工事により,蛇行していた
河道は直線化され,両岸には連続堤が建設されて,現在の柏尾川の原型が形成されたと見なせる。

 

柏尾川の氾濫原であった大船も、ちょうど河道改修および築堤などの
治水対策が整えられた後の計画であり、当時のまだ人家の少ない田舎であった。
また、本文中に都市型水害が頻繁に発生するようになったのは1958年以降とあり
「大船田園都市計画」当時は、私の子ども時代(昭和40年代)にみられるような
水害の頻繁化は想像できなかったのだろう

ところで、私の記憶にあるあの日の水害は、何年だったのだろう??

 


以下青字は「基礎調査 - 鎌倉市(Adobe PDF)」より引用

 
表1.1.1浸水被害の大きかった洪水
1 昭和 40 年  6 月 27 日
2 昭和 40 年  9 月 17 日
3 昭和 41 年  6 月 27 日~28 日
4 昭和 45 年  6月 30 日~7 月 1 日
5 昭和 48 年  11月 9 日~10 日
6 昭和 49 年  7 月 7 日~8 日
7 昭和 55 年  3 月 29 日
8 昭和 56 年  10 月 21 日~22 日
9 昭和 57 年  9 月 10 日~12 日
10平成 2  年  9 月 30 日~10 月 1 日
11平成 16 年  10 月 8 日~9 日
 

同資料の4頁、表 1.1.2 洪水による浸水被害状況(鎌倉市地域防災計画)をみると

私の記憶にある水害シーンのあの日は、被害の大きさから昭和48年(鎌倉市の床上・床下浸水被害戸数3016戸) か

昭和49年(同1117戸)かのいずれかではないかと思う。

 

※引用・・・1.1. 基礎調査 - 鎌倉市(Adobe PDF) 1頁

 
 
以上、私の子ども時代(昭和40年代)が、近世以降で生活に甚大な被害をもたらす
大きな水害が多発した時期だとわかった。
2年に一度は水害が起きていたという柏尾川の氾濫原の都市型水害に対し
どのような対策がとられていったのだろう。
そして今はどうなっているんだろう。
柏尾川の支流、いたち川の取り組みについて公開されている資料があった。
 
 
このように支流の治水・環境整備なども進み水害は随分減ったが、ゼロではないようだ。
最近も浸水したとのこと、様々な対策を講じても、たまに氾濫してしまう。
地図を見てつくづく思ったのだが、水害を受けやすい地形的条件が
あまりにも揃いすぎている・・・そんな土地だよね。
 
 
 

 
さて、先日の寄り道第2弾のルートは
江ノ電 江ノ島 ⇒ 湘南モノレール 江ノ島駅から大船駅へ・・

湘南モノレール大船駅にて

大船駅周辺は随分変わった。今はルミネもあって便利ね。

大船駅西口降りてすぐの信号近くのミスタードーナツ

ビルは建て替えられたと思うけど、25年以上前オープン記念&従業員のレジの練習

ということで、通りがかりに呼びこまれて無料でドーナツを食べたこともあったな。

 

ここは昔の雰囲気そのまま。花屋、八百屋、魚屋が軒を連ねる一角。

洋服屋さんがあったかは覚えてないけど・・。

シャッターが降りているのは改修工事らしい。大船がシャッター街になるのは

ショックなので、ホッとした。(^-^)

大船駅東口

変わりすぎたけど大船駅の看板のある屋根の形状とか階段とかは変わってないなぁ。
本屋さんもあったよね。

懐かしの大船・・・私の子ども時代の大船は、既に商業地として栄えており、
魚屋や八百屋などの店先では長靴に鉢巻姿の店の人の威勢のいい声が響いていた。
生鮮食品だけでなく、金物屋、乾物屋、茶屋、時計&宝飾屋、本屋
写真屋(フォトスタジオ)、飲食店、映画館など、専門店や娯楽施設が揃ってた。
そういえば、人生初の映画は、父に連れられて今は無き大船オデヲン座へ。
何を見たか覚えてないんだけどね。

 

※カシミール3D 地理院地図+スーパー地形 使用

赤いピンはJR大船駅、青いピンが「ナボナ」の亀屋万年堂。

ナボナの記憶をさぐるブログを書くとは思ってなかったので、
肝心の亀屋万年堂の写真を撮ってこなかった。

記憶はどんどんおぼろげになっていくので、同じ場所に同じお店あるは嬉しい。(今回いくつもあった)
今回、脳裏に刻まれたあの日を調べていく過程でいくつもの知らなかった大船と遭遇した。
地形や水系がわかる地図を眺めながら、当時の様子を想像するのは面白かった。
大船だけではなく、柏尾川流域の都市化の過程とその弊害についても興味深い。

夢半ばでついえてしまった「大船田園都市計画」も
地図で俯瞰してみると碁盤の目状に当時整備した街の骨格が浮き上がってくる。
街並みは「大船田園都市計画」とは随分違ったものになったが、
いまも都市基盤として街を支えていると思うと興味深いものだ。
街は、人々の無数のその時を織り込みながら
何層にもなって上書き保存で更新されていくね。

 

■参考・引用サイト

総合都市研究 第35号 ー988. 水害の変遷と浸水危険地域地図 首都大学東京 都市環境学部 

〇 基礎調査 - 鎌倉市(Adobe PDF) 

 
 
 〇消えた「新鎌倉」 神奈川・大船、幻の田園都市計画 日本経済新聞 東京ふしぎ探検隊 2015/11/20

■利用地図ツール

〇使用ソフト:カシミール3D スーパー地形セット、 地理院地図+スーパー地形、川だけ地形地図

〇参考サイト: Ground Interface > 川だけ地形地図



※1 「ナボナが通りに浮いてた」というのは伝聞、かつ子供時分の記憶なので真偽のほど不明です。(^-^;

※2「ナボナはお菓子のホームラン王です」・・・王貞治が出演した「ナボナはお菓子のホームラン王です」というテレビCM(昭和42年開始といわれる)が有名で、東京銘菓、東京近辺の定番贈答品として知られる。


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