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まんやま独歩

吉井勇の「歌行脚」 足跡を辿る① 渓鬼荘

歌人吉井勇は、昭和11年4月10日から8月28日までの長期にわたり、四国、瀬戸内海の島々、中国、九州を遍歴する歌行脚の旅に出ています。これは本人言うところの「一世一代と言ってもいい、最長期で最広範囲にわたる旅行」で、行く先々で心動かされたものを歌にしています。それが載っている歌集をくり返し読んでいるうちに、吉井勇の足跡を辿ってみたいという思いが強くなり、部分的ではありますが歌行脚の足跡を辿る旅に出かけました。

今回は出発地点、渓鬼荘についてです。

渓鬼荘は、勇が土佐の山奥、韮生の山峡猪野々に隠棲していたときの草庵ですが、現在は吉井勇記念館の隣に移設され一般公開されています。

渓鬼荘







道との境に馬酔木が植えられていましたが



渓鬼荘隠棲時代の歌
寂しければ垣に馬酔木を植ゑにけり棄て酒あればここに濯がむ (「天彦」寂しければ)
この歌にちなんで植えられた馬酔木でしょうか?

いざ中へ
戸を開けると

勇先生が!


囲炉裏

自在(自在鉤)


寂しければ古りし自在を爈のうへに吊して思ふかへらぬことを (「天彦」)

説明板


「囲炉裏端の風景」として6首紹介されています。
どれも田舎暮らしを楽しむ、現代人には郷愁をも感じさせる歌ですが、はたしてそのような楽しいひとときが隠棲時代の勇にどれだけあったでしょうか。もちろん、温泉宿の主や訪ね来る友、地域の人の厚情に心地よく酔える夜もあったことでしょう、しかしその何倍も独りでもがき苦しむ夜があったはずです。

歌手「天彦」の「韮生の山峡」には、これでもかというくらいに独り苦悩に耐える姿が詠まれています。

夜もすがら身を責め心さいなむをわれのこの世の荒行とせむ (「冬夜獨座」)

以下は「寂しければ」からです。
寂しければ或る夜はひとり思へらくむしろ母なる土にかへらむ 

寂しければ眠り薬も嚥みにけりしばしの安寝欲るがまにまに 

寂しければ酒をこそ酌めまたしても苦きを啜り酔泣をせむ 

寂しければ夜も眠らで明かすなり夢をみてだに命消ぬべし 

寂しければことさらゑらぎ笑へどもわが下ごころ人し知らずも

寂しければ山酒酌めどなぐさまずただしらじらと酔ひつつぞ居る

寂しければ夜半に目覚めのもの思ひあなや腸(はらわた)断たるごとし

こんな歌が「寂しければ」に35首、終わったかと思ったら「続・寂しければ」にさらに37首も並びます。
時薬(ときぐすり)という言葉がありますが、渓鬼荘での時間が過ぎるにつれ、勇の心にも少しずつ変化が現れます。歌集は「冬夜獨座」「爈邊の友」と続きますが、だんだんと危機的状況から抜けだし、穏やかな歌が詠まれるようになります。

以下「爈邊の友」より
ひさびさに土佐のうま酒酌まばやと爈に火を焚けば心しづけし

友よ酔はば杯を置き目を閉ぢてしばしは聴きね物部川音(と)を

石丸の面河の翁と酒酌めば酔したたかにたどき知らずも

あらたまの年のはじめに友は来ぬ鯣爈に焼き祝ぎ酒を酌む


勇と渓鬼荘について、吉井勇記念館でもらったパンフレットには次のように書かれています。
「猪野々での隠棲を決意し、昭和9~12年まで 草庵渓鬼荘で過ごした歳月は、勇にとって『人生再生の日々』として非情に大きな意味を持ちます。世間の喧噪から逃れ、静寂の中で己を見つめる日々を送った勇。彼は『草庵の炉端の人生修行』によて自らの煩悩がしだいに薄れていくのを感じ、山菜などを持って訪れる猪野々の人々や友人たちと酒を酌み交わし、温かな交流を深めました。猪野々は彼が生きることへの希望と心の安らぎを得た再生の地となったのです。」


渓鬼荘が元あった場所

跡地には木(梅)が植えられていました。

勇が当時使っていた名刺(「岩城郷土館」に展示)

「高知県香美郡在所村猪野々渓鬼荘」と書かれています。
この名刺を持って勇は141日にもおよぶ大歌行脚に出たのです。

さて、私の歌行脚の足跡を辿る旅ですが、猪野々で渓鬼荘、吉井勇記念館、歌碑巡り、木村久夫記念碑、猪野沢温泉跡地などを見学した後、勇と同じく琴平に向かいました。
なお、歌碑巡りの様子は、本ブログの「猪野々 吉井勇の歌碑巡り」で紹介しています。
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