2022年06月29日ブログで私は江戸時代の文化三年(1806)完成の中山道分間延絵図を見た。中央付近を拡大して「鍬大神宮」「本陣」「脇本陣×3」「問屋場」「一里塚×2」と思われるところを黄文字で示した。一里塚は南の方(大宮寄り)に中山道を挟んで東と西にある。
ウィキペディア(上尾宿)には一里塚についてこのように記述されている。
岐蘇路安見絵図に基づく記述がある。「岐蘇路安見絵図」でネット検索をすると早稲田大学図書館サイトの古典籍総合データベースからの資料がヒットした。そこから上尾を見る。右側の半分を見る。
ウィキペディア(上尾宿)には “ 上尾の一里塚は、左に榎2本、右に松1本・榎1本を目印とした ” とあるのだが、岐蘇路安見絵図に黄で囲んだ文字の上は「榎二」下は「榎一 松一」と書かれているのだと思う。
ウィキペディア(上尾宿)には史跡の中で天神橋の立場についてこのように記述されている。大田南畝の『壬戌紀行(じんじゅつ きこう)』の内容が紹介されている。
壬戌紀行というのはこのレファレンス事例詳細によればこのようなものである。
「壬戌紀行」でネット検索をすると国立国会図書館デジタルコレクションの蜀山人全集.巻1がヒットした。そこから上尾前後が書かれているところを見る。
天神橋の立場の記述の1行前に “ 驛の中に一里塚あり松榎 ” との記述がある。これは上尾の一里塚のことだと思う。
ウィキペディア上尾宿(大字)に挿入の上尾宿明細絵図(江戸期)を見る。
谷津村の右側方面を見る。左に赤線で示したところは鍬太神宮だと思う。現在地図の氷川鍬神社だと思う。
2015年7月の写真。
ウィキペディア(上尾宿)には一里塚についてこのように記述されている。
岐蘇路安見絵図に基づく記述がある。「岐蘇路安見絵図」でネット検索をすると早稲田大学図書館サイトの古典籍総合データベースからの資料がヒットした。そこから上尾を見る。右側の半分を見る。
ウィキペディア(上尾宿)には “ 上尾の一里塚は、左に榎2本、右に松1本・榎1本を目印とした ” とあるのだが、岐蘇路安見絵図に黄で囲んだ文字の上は「榎二」下は「榎一 松一」と書かれているのだと思う。
ウィキペディア(上尾宿)には史跡の中で天神橋の立場についてこのように記述されている。大田南畝の『壬戌紀行(じんじゅつ きこう)』の内容が紹介されている。
壬戌紀行というのはこのレファレンス事例詳細によればこのようなものである。
「壬戌紀行」でネット検索をすると国立国会図書館デジタルコレクションの蜀山人全集.巻1がヒットした。そこから上尾前後が書かれているところを見る。
天神橋の立場の記述の1行前に “ 驛の中に一里塚あり松榎 ” との記述がある。これは上尾の一里塚のことだと思う。
ウィキペディア上尾宿(大字)に挿入の上尾宿明細絵図(江戸期)を見る。
谷津村の右側方面を見る。左に赤線で示したところは鍬太神宮だと思う。現在地図の氷川鍬神社だと思う。
2015年7月の写真。

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