ヤフー地図で浦和駅周辺を見る。
そのあたりを昭和22年(1947)の空中写真で見る。「団塊の世代」「戦争を知らない子供たち」が生まれた頃である。
昭和22年の黄で示した道を現在の地図に赤で描くとこのようになると思う。
5月4日ブログでイトーヨーカドーさんの前を東へ向かった。

5月4日ブログでは次の三差路を右折したのだが、真っ直ぐ東へ進むとJR高架に突き当たる。2017年7月の写真。
歩行者と自転車は高架下を通って東へ抜けることができる。2019年2月の写真。
この道が出来る前は浦和仲町地下道で鉄道をくぐった。2011年9月の写真。2013年3月の写真。
平成11年浦和市発行『浦和市史第五巻現代史料編Ⅰ』に掲載の市内の鉄道交差路(昭和43年)で浦和駅の右隣りを見ると「八ッ道越ヶ谷人道地下道」がある。浦和仲町地下道のことだと思う。
昭和22年の空中写真を見るとそこは踏切だと思う。
昭和7年鉄道省発行の書籍から東北線赤羽大宮間線路縦断面図の浦和駅付近を見る。
「八ッ道越ヶ谷大踏切道」がその踏切だと思う。
昭和22年の空中写真で浦和駅東口から南に延びる道を黄で示す。
現在の地図にその道を赤で描くとこのようになると思う。
その道は旧浦和市による昭和43年の道路愛称募集で「東通り」と名付けられた道である。
昭和55年の地図に浦和駅近くの東通りを赤で示す。
東口駅前を自動車で南北に走行できた。現在は駅前広場で遮られている。
昭和22年の空中写真で先ほど南に辿った道(黄)をそこからさらに東西に延びる道を黄で示す。
現在の地図に赤で示す。
昭和22年の空中写真で現在のさくら草通りを中山道から浦和駅まで黄で示す。
その道を現在の地図に赤で描く。
昭和22年の空中写真で県庁通りを浦和駅まで延ばし、さらに東通りまで黄で辿る。
現在の地図に赤で同様にする。
昭和22年の空中写真と現在の地図を比較して、様変わりした区域を昭和22年の空中写真に緑で囲むとこの3ヶ所になると思う。
そのあたりを昭和22年(1947)の空中写真で見る。「団塊の世代」「戦争を知らない子供たち」が生まれた頃である。
昭和22年の黄で示した道を現在の地図に赤で描くとこのようになると思う。
5月4日ブログでイトーヨーカドーさんの前を東へ向かった。

5月4日ブログでは次の三差路を右折したのだが、真っ直ぐ東へ進むとJR高架に突き当たる。2017年7月の写真。
歩行者と自転車は高架下を通って東へ抜けることができる。2019年2月の写真。
この道が出来る前は浦和仲町地下道で鉄道をくぐった。2011年9月の写真。2013年3月の写真。
平成11年浦和市発行『浦和市史第五巻現代史料編Ⅰ』に掲載の市内の鉄道交差路(昭和43年)で浦和駅の右隣りを見ると「八ッ道越ヶ谷人道地下道」がある。浦和仲町地下道のことだと思う。
昭和22年の空中写真を見るとそこは踏切だと思う。
昭和7年鉄道省発行の書籍から東北線赤羽大宮間線路縦断面図の浦和駅付近を見る。
「八ッ道越ヶ谷大踏切道」がその踏切だと思う。
昭和22年の空中写真で浦和駅東口から南に延びる道を黄で示す。
現在の地図にその道を赤で描くとこのようになると思う。
その道は旧浦和市による昭和43年の道路愛称募集で「東通り」と名付けられた道である。
昭和55年の地図に浦和駅近くの東通りを赤で示す。
東口駅前を自動車で南北に走行できた。現在は駅前広場で遮られている。
昭和22年の空中写真で先ほど南に辿った道(黄)をそこからさらに東西に延びる道を黄で示す。
現在の地図に赤で示す。
昭和22年の空中写真で現在のさくら草通りを中山道から浦和駅まで黄で示す。
その道を現在の地図に赤で描く。
昭和22年の空中写真で県庁通りを浦和駅まで延ばし、さらに東通りまで黄で辿る。
現在の地図に赤で同様にする。
昭和22年の空中写真と現在の地図を比較して、様変わりした区域を昭和22年の空中写真に緑で囲むとこの3ヶ所になると思う。
第一ガードは知っていましたが、第四ガードまであったとは意外でした。
旧浦和市内に現在踏切はないと思いますが、それは安全で便利な生活環境であることを忘れてはならないでしょう。大宮駅から先の東北線、高崎線、川越線、東武野田線には踏切があり、急いでいる時の踏切待ちには閉口します。
東口側に荒川屋という金魚を売る店があり、踏切を渡った西側の右に風呂桶を作る店、その左がオリンピア劇場だった頃を覚えています。
第四ガードの近く(浦和駅よりの方向)にも踏切がひとつありました。
昭和40年代になる前に廃止されたような記憶がありますが、いつ頃だったのでしょうかね。
金魚店とか風呂桶店とかは私の全く知らない時代のことで初耳ですが、オリンピア劇場は写真集に載っていたのでわかります。伊勢丹のところにあったようですね。