平成15年発行『埼玉ふるさと散歩さいたま市』の≪中山道を北へ行く≫のくだりに、
“ バス停「仲屋前」、江戸期の絵図には加茂宮の一里塚が描かれているが、今では塚の存在を知る人も少ない。この先、宝暦九年(一七五九)銘の橋供養塔を過ぎ、二〇〇メートルほどで宮原駅入口交差点。”
という案内がある。
マピオン地図でその辺りを見る。バス停「仲屋前」と宮原駅入口交差点を赤丸で示す。
2010年11月のバス停仲屋前。

2020年10月バス停仲屋前を通過して振り返った。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』によれば、バス停仲屋前は一里塚があった場所のようである。
東京国立博物館のサイトの(コレクション)画像検索で中山道分間延絵図を検索する。
中山道分間延絵図の大成村から北方面の加茂宮村までを見る。この絵図は右が江戸方面、左が京都方面になっている。
大成村の北方面の赤丸で示したところが「一里塚」だと思う。その場所は加茂宮村の南方面のここ(赤丸)になる。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』には一里塚を過ぎて宮原駅入口交差点までの区間に橋供養塔があると案内されている。
2010年11月、私は青丸で示した三差路で橋供養塔を見た。

2020年10月の写真。正面右に宝暦九年八月と刻まれているのがわかる。黄丸で囲んだところは梵字が刻まれていると思う。
「高野山・御朱印サイト」から(高野山と真言宗の「梵字の意味と一覧表」)を見ると、この梵字の読み方は「キリーク」で、表す仏は「阿弥陀如来・千手観音・如意輪観音」とある。
中山道分間延絵図に青で示したところがこの橋の場所ではないかと思う。
文京区ホームページの文京ふるさと歴史館によれば、中山道分間延絵図は寛政12年(1800)に幕府の命令によって作成されたものとある。ということは中山道分間延絵図を作成する時、この橋供養塔は既に建立されていた。宝暦9年は1759年。
中山道分間延絵図でそこより上尾方面に目をやると加茂宮村の表示の近くにも橋が描かれており、その橋を青で示す。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』には “ 宮原駅前通りから二〇〇メートル進むとバス停「天神橋」、西側に地名の由来となった天神社があり、中山道を横切る水路には長さ六尺三寸(約二・一メートル)、幅二間(約三・六メートル)の天神橋が架かっていた。「天神橋」と彫られた欄干の一部がバス停脇に保存されている。当地は大宮宿と上尾宿のちょうど中間に位置していたので立場が設けられ、島屋・福島屋では天神橋名物紫蘇巻唐辛子が人気を博し、広く商われていたという。” という案内がある。
加茂宮村の表示の近くの橋は天神橋だと思う。
文字が不鮮明だが拡大すると緑丸のところに天神という文字と鳥居が描かれているように見える。
新編武蔵風土記稿の吉野領加茂宮村を見ると「天神橋」という小名(地名)がある。“ 中山道往来の内なり橋の傍に天神社のあるをもて橋に名付しより後其辺りの呼名となせり ” とある。
2016年11月、私は中山道を北へ向かい、三差路手前(ここ)で道路右側のバス停天神橋をアップした。

マピオン地図にバス停天神橋の三差路と先ほどの橋供養塔の三差路を青丸で示す。
マピオン地図に一里塚をA、橋供養塔をB、天神橋をCで示して相互の距離間をみる。
中山道分間延絵図にそれぞれの対応するところをA、B、Cで示してそれぞれの距離間をみる。
中山道を少し進んで道路反対側を見た。バス停右の路上に石造物が見える。
近付いて見ると「天神橋」と彫られていた。これは欄干の一部だと思う。
バス停天神橋を通過し、三差路で左を見た。南側角に石造物が見えた。
近付いてその石造物を見た。これも欄干の一部だと思う。
北に進んで天神社を見た。

扁額を見た。
2021年10月18日ブログで私はJR線路沿いの道から天神社の屋根をアップした。東に延びるこの道沿いに水路があったとすれば中山道側が上流で線路側が下流になると思う。
昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』所載の中山道大宮宿麁絵図面で天神橋のところを見る。
水路は青矢印の方へ流れていたと思う。
迅速測図と現在地図の比較地図で天神橋の三差路を見る。迅速測図のプラス記号の場所が現在地図のプラス記号の場所を指していた。
プラス記号のところから水路が流れていたと思われる方向へ青線を延ばすと逆川と交差する。江戸時代、天神橋の下を流れていた水路は逆川へ流れ込んでいたかも知れない。
天神橋に隣接する天神社の場所をそれぞれの地図に赤丸で示す。
2021年10月16日ブログで私はこのような道筋を綴った。途中で加茂神社の境内を歩いた。

比較地図の現在地図に加茂神社を緑枠で示す。
比較地図の迅速測図を見ると天神社の中山道をはさんだ反対側に加茂宮社があり、緑枠で示す。加茂宮社は加茂神社のことだと思うが、場所が違うと思う。もっと北でないとおかしい。
中山道分間延絵図に天神社を赤丸で示し、加茂神社(加茂宮社)を緑丸で示すとこのようになると思う。
埼玉県立歴史と民俗の博物館ホームページから(おうちで博物館鑑賞!!)Google Arts& Cultureに移動する。
(このコレクション内)(日本)から浮世絵木曽街道 上尾宿 加茂之社(渓斎英泉 1835頃)を見る。解説文。
ウィキペディア上尾宿にもこの浮世絵が掲載されており、このようである。
二つの絵には右の方に幟旗が描かれ、「加茂大明神」の文字が見える。しかし別の幟旗の文字は二つの絵で一致していない。
ウィキペディア上尾宿の浮世絵解説はこのようで、先の解説より詳しい。この解説によれば農民の奥に描かれた建物は天神橋の立場茶屋である。『埼玉ふるさと散歩さいたま市』にあった島屋・福島屋というのは立場茶屋だったのだろうか。
中山道大宮宿麁絵図面の「加茂宮村建場」が「天神橋の立場」だと思う。
迅速測図のように加茂宮社(緑枠)が天神社(赤丸)の向かい側にあったのなら、天神橋の立場は黄丸で示したところと思われ、浮世絵のように立場と加茂大明神は隣接していたことになる。
ウィキペディアの解説は立場と加茂神社は隣接していなかったが絵画的工夫の結果だとしている。
ウィキペディアの解説は①加茂神社 ②農民の仕事風景 ③天神橋の立場 という3つの画材を一画面に詰め込んだのだという。
浮世絵に描かれた道は中山道だと思う。中山道の右側(神社側)に川が流れているように見える。立場茶屋はその川の上に建っているように見える。天神橋の下を流れる川は中山道を横断していたわけで、この絵のように中山道に並行していたわけではないが、「絵画的工夫」でこの川を描いたのではないかと私は思う。
“ バス停「仲屋前」、江戸期の絵図には加茂宮の一里塚が描かれているが、今では塚の存在を知る人も少ない。この先、宝暦九年(一七五九)銘の橋供養塔を過ぎ、二〇〇メートルほどで宮原駅入口交差点。”
という案内がある。
マピオン地図でその辺りを見る。バス停「仲屋前」と宮原駅入口交差点を赤丸で示す。
2010年11月のバス停仲屋前。

2020年10月バス停仲屋前を通過して振り返った。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』によれば、バス停仲屋前は一里塚があった場所のようである。
東京国立博物館のサイトの(コレクション)画像検索で中山道分間延絵図を検索する。
中山道分間延絵図の大成村から北方面の加茂宮村までを見る。この絵図は右が江戸方面、左が京都方面になっている。
大成村の北方面の赤丸で示したところが「一里塚」だと思う。その場所は加茂宮村の南方面のここ(赤丸)になる。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』には一里塚を過ぎて宮原駅入口交差点までの区間に橋供養塔があると案内されている。
2010年11月、私は青丸で示した三差路で橋供養塔を見た。

2020年10月の写真。正面右に宝暦九年八月と刻まれているのがわかる。黄丸で囲んだところは梵字が刻まれていると思う。
「高野山・御朱印サイト」から(高野山と真言宗の「梵字の意味と一覧表」)を見ると、この梵字の読み方は「キリーク」で、表す仏は「阿弥陀如来・千手観音・如意輪観音」とある。
中山道分間延絵図に青で示したところがこの橋の場所ではないかと思う。
文京区ホームページの文京ふるさと歴史館によれば、中山道分間延絵図は寛政12年(1800)に幕府の命令によって作成されたものとある。ということは中山道分間延絵図を作成する時、この橋供養塔は既に建立されていた。宝暦9年は1759年。
中山道分間延絵図でそこより上尾方面に目をやると加茂宮村の表示の近くにも橋が描かれており、その橋を青で示す。
『埼玉ふるさと散歩さいたま市』には “ 宮原駅前通りから二〇〇メートル進むとバス停「天神橋」、西側に地名の由来となった天神社があり、中山道を横切る水路には長さ六尺三寸(約二・一メートル)、幅二間(約三・六メートル)の天神橋が架かっていた。「天神橋」と彫られた欄干の一部がバス停脇に保存されている。当地は大宮宿と上尾宿のちょうど中間に位置していたので立場が設けられ、島屋・福島屋では天神橋名物紫蘇巻唐辛子が人気を博し、広く商われていたという。” という案内がある。
加茂宮村の表示の近くの橋は天神橋だと思う。
文字が不鮮明だが拡大すると緑丸のところに天神という文字と鳥居が描かれているように見える。
新編武蔵風土記稿の吉野領加茂宮村を見ると「天神橋」という小名(地名)がある。“ 中山道往来の内なり橋の傍に天神社のあるをもて橋に名付しより後其辺りの呼名となせり ” とある。
2016年11月、私は中山道を北へ向かい、三差路手前(ここ)で道路右側のバス停天神橋をアップした。

マピオン地図にバス停天神橋の三差路と先ほどの橋供養塔の三差路を青丸で示す。
マピオン地図に一里塚をA、橋供養塔をB、天神橋をCで示して相互の距離間をみる。
中山道分間延絵図にそれぞれの対応するところをA、B、Cで示してそれぞれの距離間をみる。
中山道を少し進んで道路反対側を見た。バス停右の路上に石造物が見える。
近付いて見ると「天神橋」と彫られていた。これは欄干の一部だと思う。
バス停天神橋を通過し、三差路で左を見た。南側角に石造物が見えた。
近付いてその石造物を見た。これも欄干の一部だと思う。
北に進んで天神社を見た。

扁額を見た。
2021年10月18日ブログで私はJR線路沿いの道から天神社の屋根をアップした。東に延びるこの道沿いに水路があったとすれば中山道側が上流で線路側が下流になると思う。
昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』所載の中山道大宮宿麁絵図面で天神橋のところを見る。
水路は青矢印の方へ流れていたと思う。
迅速測図と現在地図の比較地図で天神橋の三差路を見る。迅速測図のプラス記号の場所が現在地図のプラス記号の場所を指していた。
プラス記号のところから水路が流れていたと思われる方向へ青線を延ばすと逆川と交差する。江戸時代、天神橋の下を流れていた水路は逆川へ流れ込んでいたかも知れない。
天神橋に隣接する天神社の場所をそれぞれの地図に赤丸で示す。
2021年10月16日ブログで私はこのような道筋を綴った。途中で加茂神社の境内を歩いた。

比較地図の現在地図に加茂神社を緑枠で示す。
比較地図の迅速測図を見ると天神社の中山道をはさんだ反対側に加茂宮社があり、緑枠で示す。加茂宮社は加茂神社のことだと思うが、場所が違うと思う。もっと北でないとおかしい。
中山道分間延絵図に天神社を赤丸で示し、加茂神社(加茂宮社)を緑丸で示すとこのようになると思う。
埼玉県立歴史と民俗の博物館ホームページから(おうちで博物館鑑賞!!)Google Arts& Cultureに移動する。
(このコレクション内)(日本)から浮世絵木曽街道 上尾宿 加茂之社(渓斎英泉 1835頃)を見る。解説文。
ウィキペディア上尾宿にもこの浮世絵が掲載されており、このようである。
二つの絵には右の方に幟旗が描かれ、「加茂大明神」の文字が見える。しかし別の幟旗の文字は二つの絵で一致していない。
ウィキペディア上尾宿の浮世絵解説はこのようで、先の解説より詳しい。この解説によれば農民の奥に描かれた建物は天神橋の立場茶屋である。『埼玉ふるさと散歩さいたま市』にあった島屋・福島屋というのは立場茶屋だったのだろうか。
中山道大宮宿麁絵図面の「加茂宮村建場」が「天神橋の立場」だと思う。
迅速測図のように加茂宮社(緑枠)が天神社(赤丸)の向かい側にあったのなら、天神橋の立場は黄丸で示したところと思われ、浮世絵のように立場と加茂大明神は隣接していたことになる。
ウィキペディアの解説は立場と加茂神社は隣接していなかったが絵画的工夫の結果だとしている。
ウィキペディアの解説は①加茂神社 ②農民の仕事風景 ③天神橋の立場 という3つの画材を一画面に詰め込んだのだという。
浮世絵に描かれた道は中山道だと思う。中山道の右側(神社側)に川が流れているように見える。立場茶屋はその川の上に建っているように見える。天神橋の下を流れる川は中山道を横断していたわけで、この絵のように中山道に並行していたわけではないが、「絵画的工夫」でこの川を描いたのではないかと私は思う。
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