~樂 GAKU~ 泣くも笑うも人生の肥やし 

むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに書く  

マナブログ168 ささやかな幸せを、平和を壊す人たちへ。

2015年08月23日 | 日記
ぼくは夏が好きでした。

この世に生をうけて、36回目か37回目かの夏。

でも、こんなにくやしくて、悲しい夏はありませんでした。

ふるさと鹿児島。川内原発が再稼働して、2週間がたとうとしています。

8月11日以来、心の中のモヤモヤと、悔しい気持ちが晴れる日はありません。


「原発がまわらないと、わたしたちの生活もまわらないから」

そんなことを言った鹿児島のひとがいました。

おい。ちょっとまってよ。その言葉を家族を亡くしたひとたちに言えるのか?

福島だけじゃない。なくなく家族ばらばらで生活しているひとたちや、

ふるさとにかえれないひとたちがこんなにもいるのに。


何が平和な世の中だ。結局、目先の金じゃないか。

去年の夏に出会った、福島の子どもたちを思い出すと、くやしくて涙がでました。


ぼくの鹿児島の実家は、避難区域30キロ圏内から、すこし離れた場所。

でも大きな災害がおこれば、じいちゃん、ひいばあちゃんたちが戦時中の苦しいときに力を合わせて生きてきた里山も

福島のときと同じように「除染区域外」として、みすてられるのでしょうか。

今、実家にはひとりで歩けない90代なかばのチエばあちゃんもいます。


どんな想いで原発をつくったのか。どんな想いで原発をつくりつづけようとしているのか、直接あって話しをしてみたい。


8月にはいって、息子たからくんが通う保育所から、「あそび場を広げたいのですが」と、相談を受けました。

もちろん、ひとつ返事で協力させていただきました。

業者さんから廃材をいただき、すべり台や、砂場、小さな飛び込み台などをつくりました。


すべり台。よ~し、いくぞ~!


これからさらに砂をいれるよ。


おもいきりジャンプ!


こんなささやかな手づくりのものでも、よろこんでもらえるだけでなく、

「くぎはでていないかな?」「ちいちゃな子がケガしちゃいそうな部分はないかな?」

と、なによりもまず、安全を考えてつくるものです。


「ねえ!ぼく、プールに飛び込むけん、見とってね!」

「たからのおとうしゃん、すべりだい、ありがとう~」

無邪気に、うれしそうに遊ぶ子どもたちの姿を、原発をつくりたいというひとたちに、

原発がないと生活がまわらないというひとたちに見てもらいたい。


いたって簡単なことなんです。

人を傷つけるものはつくっちゃいけないんです。

銃も、核も、原発も。


つまらないものに依存している自分自身に気づくべきです。

それは、企業であり、組織であり、すべてのひとにいえるのではないでしょうか。


大切な家族や、子どもを傷つけていないか。

職場や、仕事、自分の価値観をおしつけていないか。

なぜ、自分の気持ちがわからないのかと責めていないか。


自分自身をみつめなおせないかぎり、身近なひとを幸せに、ましてや世の中を平和になどできないと思うのです。


自分の目先の幸せばかりを考えるのは、とてもかんたんです。

ささやかな幸せを、平和をこわさないでほしい。

ぼくはこれからも声をあげつづけます。

マナブログ167 ヒロシマ、そしてナガサキの日に。

2015年08月09日 | 人・ヒト・ひと
今年で戦後70年。

たくさんの方が70年の節目に、何かできないかな?と、考えてらっしゃるのではないでしょうか。


ぼく自身としては、「戦争と開拓」をテーマにして、文献を読んで資料を集めたり、

実際に開拓者としてたいへんな苦労をされてきた方に、直接、お会いしてお話をきいてまとめたりなど

少しずつですが、休日や仕事の合間にすすめています。


終戦後の食糧難の時代に、国策として、もとの軍用地や農地を開拓する入植者が日本中でつのられました。

開拓したひとたちは、どんな思いで生きたのでしょう。

明治時代には3ヶ月間、船にのり、政府にすすめられてブラジルやペルーに渡った多くの日本人がいました。

ペルーで出会った、日系3世のおじいちゃんおばあちゃんたちの姿が忘れられません。

日本国内での開拓に目をむけてみると、たとえば、北海道は開拓の歴史ときりはなせない場所です。


「この夏、北海道にいけないかなあ。でも、お金もあんまりないしなあ。。。」

夏休みにはいって、妻、よっちゃんとそんな話をしていました。


8月6日。ヒロシマの日。

図書館にいって、いろいろ調べているときに、いっぽんの連絡がはいりました。

「北海道のおばあちゃんが亡くなったよ。」


息子たからくんにとっては、ひいおばあちゃん。よっちゃんのふるさと、北海道のおばあちゃんがお亡くなりになったのです。

八千代(やちよ)おばあちゃん。104歳。すぐに飛行機をとり、その日に北海道へむかいました。


まってくれていたおばあちゃんのお顔は、ほんとうにほんとうにきれいでした。


2007年。札幌でのお披露目パーティーで、ぼくたちの結婚をとても喜んでくださいました。


夏に北海道にかえれば、「そちら(九州)は暑いでしょう。たいへんですねえ。」と、やさしく話してくれ、


たからくんをつれてかえると、「かわいいですねえ。ほんとうにかわいい、かわいい」と、手をたたいてよろこんでくれました。


明治44年生まれの八千代おばあちゃんは、戦時中に国民学校の教員もされていました。

日本が戦争へどんどん突入していった時代に、どんな想いで子どもたちとせっしていたのでしょうか。

帰らぬ人となった教え子もいたでしょう。表現の自由が許されない時代に、

心のやさしい八千代おばあちゃんにとって、つらく、悲しいことも多かったにちがいありません。


もう、八千代おばあちゃんの声をきくことはできませんが、棺で眠るきれいなお顔をみていると

「まよわずに思いっきり生きよう」と、さらにつよい気持ちにさせてくれました。


長年、献身的におばあちゃんの介護をされ、お通夜や葬儀でもおたがいに協力しあっている

80代から60代後半の6人のご兄妹も、ほんとうにうつくしいと思いました。


八千代おばあちゃんがいたからこそ、北海道のお父さん、よっちゃん、そして、たからくんがいるわけです。

おばあちゃん。ありがとう。

ぼくも家族をたいせつにして、せいいいっぱい生きます。




八千代おばあちゃんのお通夜と、お葬式がおわって、近所のおまつりにいきました。

おまつりのビンゴ大会で、景品の1等と6等があたりました。

たからくんの大好きな数字が「6」。しかも中身は、動物の名前をあてるおもちゃで大喜び。

1等をゲットした、いとこのおねえちゃんがもらったのは、前からほしかったキャンプにつかえるワンタッチテント。


これはもう、八千代おばあちゃんが、当ててくれたとしか思えません。

ぼくも博物館や資料館へ行って、北海道の開拓についてじっくり調べてきます。

ちょっとお金がないぐらいで、したいことをためらっていたぼくを、おばあちゃんが北海道までよんでくれたのかもしれません。

時間がゆるすかぎり、北海道の現地で「戦争と開拓」について情報をあつめます。


8月6日。八千代おばあちゃんが104年の命をまっとうしたヒロシマの日に。

そして、まよわずに思いきり生きようと、さらにつよく心に決めたナガサキの日に。

八千代おばあちゃん。ありがとう。