今年で戦後70年。
たくさんの方が70年の節目に、何かできないかな?と、考えてらっしゃるのではないでしょうか。
ぼく自身としては、「戦争と開拓」をテーマにして、文献を読んで資料を集めたり、
実際に開拓者としてたいへんな苦労をされてきた方に、直接、お会いしてお話をきいてまとめたりなど
少しずつですが、休日や仕事の合間にすすめています。
終戦後の食糧難の時代に、国策として、もとの軍用地や農地を開拓する入植者が日本中でつのられました。
開拓したひとたちは、どんな思いで生きたのでしょう。
明治時代には3ヶ月間、船にのり、政府にすすめられてブラジルやペルーに渡った多くの日本人がいました。
ペルーで出会った、日系3世のおじいちゃんおばあちゃんたちの姿が忘れられません。
日本国内での開拓に目をむけてみると、たとえば、北海道は開拓の歴史ときりはなせない場所です。
「この夏、北海道にいけないかなあ。でも、お金もあんまりないしなあ。。。」
夏休みにはいって、妻、よっちゃんとそんな話をしていました。
8月6日。ヒロシマの日。
図書館にいって、いろいろ調べているときに、いっぽんの連絡がはいりました。
「北海道のおばあちゃんが亡くなったよ。」
息子たからくんにとっては、ひいおばあちゃん。よっちゃんのふるさと、北海道のおばあちゃんがお亡くなりになったのです。
八千代(やちよ)おばあちゃん。104歳。すぐに飛行機をとり、その日に北海道へむかいました。
まってくれていたおばあちゃんのお顔は、ほんとうにほんとうにきれいでした。
2007年。札幌でのお披露目パーティーで、ぼくたちの結婚をとても喜んでくださいました。
夏に北海道にかえれば、「そちら(九州)は暑いでしょう。たいへんですねえ。」と、やさしく話してくれ、
たからくんをつれてかえると、「かわいいですねえ。ほんとうにかわいい、かわいい」と、手をたたいてよろこんでくれました。
明治44年生まれの八千代おばあちゃんは、戦時中に国民学校の教員もされていました。
日本が戦争へどんどん突入していった時代に、どんな想いで子どもたちとせっしていたのでしょうか。
帰らぬ人となった教え子もいたでしょう。表現の自由が許されない時代に、
心のやさしい八千代おばあちゃんにとって、つらく、悲しいことも多かったにちがいありません。
もう、八千代おばあちゃんの声をきくことはできませんが、棺で眠るきれいなお顔をみていると
「まよわずに思いっきり生きよう」と、さらにつよい気持ちにさせてくれました。
長年、献身的におばあちゃんの介護をされ、お通夜や葬儀でもおたがいに協力しあっている
80代から60代後半の6人のご兄妹も、ほんとうにうつくしいと思いました。
八千代おばあちゃんがいたからこそ、北海道のお父さん、よっちゃん、そして、たからくんがいるわけです。
おばあちゃん。ありがとう。
ぼくも家族をたいせつにして、せいいいっぱい生きます。
八千代おばあちゃんのお通夜と、お葬式がおわって、近所のおまつりにいきました。
おまつりのビンゴ大会で、景品の1等と6等があたりました。
たからくんの大好きな数字が「6」。しかも中身は、動物の名前をあてるおもちゃで大喜び。
1等をゲットした、いとこのおねえちゃんがもらったのは、前からほしかったキャンプにつかえるワンタッチテント。
これはもう、八千代おばあちゃんが、当ててくれたとしか思えません。
ぼくも博物館や資料館へ行って、北海道の開拓についてじっくり調べてきます。
ちょっとお金がないぐらいで、したいことをためらっていたぼくを、おばあちゃんが北海道までよんでくれたのかもしれません。
時間がゆるすかぎり、北海道の現地で「戦争と開拓」について情報をあつめます。
8月6日。八千代おばあちゃんが104年の命をまっとうしたヒロシマの日に。
そして、まよわずに思いきり生きようと、さらにつよく心に決めたナガサキの日に。
八千代おばあちゃん。ありがとう。
たくさんの方が70年の節目に、何かできないかな?と、考えてらっしゃるのではないでしょうか。
ぼく自身としては、「戦争と開拓」をテーマにして、文献を読んで資料を集めたり、
実際に開拓者としてたいへんな苦労をされてきた方に、直接、お会いしてお話をきいてまとめたりなど
少しずつですが、休日や仕事の合間にすすめています。
終戦後の食糧難の時代に、国策として、もとの軍用地や農地を開拓する入植者が日本中でつのられました。
開拓したひとたちは、どんな思いで生きたのでしょう。
明治時代には3ヶ月間、船にのり、政府にすすめられてブラジルやペルーに渡った多くの日本人がいました。
ペルーで出会った、日系3世のおじいちゃんおばあちゃんたちの姿が忘れられません。
日本国内での開拓に目をむけてみると、たとえば、北海道は開拓の歴史ときりはなせない場所です。
「この夏、北海道にいけないかなあ。でも、お金もあんまりないしなあ。。。」
夏休みにはいって、妻、よっちゃんとそんな話をしていました。
8月6日。ヒロシマの日。
図書館にいって、いろいろ調べているときに、いっぽんの連絡がはいりました。
「北海道のおばあちゃんが亡くなったよ。」
息子たからくんにとっては、ひいおばあちゃん。よっちゃんのふるさと、北海道のおばあちゃんがお亡くなりになったのです。
八千代(やちよ)おばあちゃん。104歳。すぐに飛行機をとり、その日に北海道へむかいました。
まってくれていたおばあちゃんのお顔は、ほんとうにほんとうにきれいでした。
2007年。札幌でのお披露目パーティーで、ぼくたちの結婚をとても喜んでくださいました。
夏に北海道にかえれば、「そちら(九州)は暑いでしょう。たいへんですねえ。」と、やさしく話してくれ、
たからくんをつれてかえると、「かわいいですねえ。ほんとうにかわいい、かわいい」と、手をたたいてよろこんでくれました。
明治44年生まれの八千代おばあちゃんは、戦時中に国民学校の教員もされていました。
日本が戦争へどんどん突入していった時代に、どんな想いで子どもたちとせっしていたのでしょうか。
帰らぬ人となった教え子もいたでしょう。表現の自由が許されない時代に、
心のやさしい八千代おばあちゃんにとって、つらく、悲しいことも多かったにちがいありません。
もう、八千代おばあちゃんの声をきくことはできませんが、棺で眠るきれいなお顔をみていると
「まよわずに思いっきり生きよう」と、さらにつよい気持ちにさせてくれました。
長年、献身的におばあちゃんの介護をされ、お通夜や葬儀でもおたがいに協力しあっている
80代から60代後半の6人のご兄妹も、ほんとうにうつくしいと思いました。
八千代おばあちゃんがいたからこそ、北海道のお父さん、よっちゃん、そして、たからくんがいるわけです。
おばあちゃん。ありがとう。
ぼくも家族をたいせつにして、せいいいっぱい生きます。
八千代おばあちゃんのお通夜と、お葬式がおわって、近所のおまつりにいきました。
おまつりのビンゴ大会で、景品の1等と6等があたりました。
たからくんの大好きな数字が「6」。しかも中身は、動物の名前をあてるおもちゃで大喜び。
1等をゲットした、いとこのおねえちゃんがもらったのは、前からほしかったキャンプにつかえるワンタッチテント。
これはもう、八千代おばあちゃんが、当ててくれたとしか思えません。
ぼくも博物館や資料館へ行って、北海道の開拓についてじっくり調べてきます。
ちょっとお金がないぐらいで、したいことをためらっていたぼくを、おばあちゃんが北海道までよんでくれたのかもしれません。
時間がゆるすかぎり、北海道の現地で「戦争と開拓」について情報をあつめます。
8月6日。八千代おばあちゃんが104年の命をまっとうしたヒロシマの日に。
そして、まよわずに思いきり生きようと、さらにつよく心に決めたナガサキの日に。
八千代おばあちゃん。ありがとう。