~樂 GAKU~ 泣くも笑うも人生の肥やし 

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マナブログ167 ヒロシマ、そしてナガサキの日に。

2015年08月09日 | 人・ヒト・ひと
今年で戦後70年。

たくさんの方が70年の節目に、何かできないかな?と、考えてらっしゃるのではないでしょうか。


ぼく自身としては、「戦争と開拓」をテーマにして、文献を読んで資料を集めたり、

実際に開拓者としてたいへんな苦労をされてきた方に、直接、お会いしてお話をきいてまとめたりなど

少しずつですが、休日や仕事の合間にすすめています。


終戦後の食糧難の時代に、国策として、もとの軍用地や農地を開拓する入植者が日本中でつのられました。

開拓したひとたちは、どんな思いで生きたのでしょう。

明治時代には3ヶ月間、船にのり、政府にすすめられてブラジルやペルーに渡った多くの日本人がいました。

ペルーで出会った、日系3世のおじいちゃんおばあちゃんたちの姿が忘れられません。

日本国内での開拓に目をむけてみると、たとえば、北海道は開拓の歴史ときりはなせない場所です。


「この夏、北海道にいけないかなあ。でも、お金もあんまりないしなあ。。。」

夏休みにはいって、妻、よっちゃんとそんな話をしていました。


8月6日。ヒロシマの日。

図書館にいって、いろいろ調べているときに、いっぽんの連絡がはいりました。

「北海道のおばあちゃんが亡くなったよ。」


息子たからくんにとっては、ひいおばあちゃん。よっちゃんのふるさと、北海道のおばあちゃんがお亡くなりになったのです。

八千代(やちよ)おばあちゃん。104歳。すぐに飛行機をとり、その日に北海道へむかいました。


まってくれていたおばあちゃんのお顔は、ほんとうにほんとうにきれいでした。


2007年。札幌でのお披露目パーティーで、ぼくたちの結婚をとても喜んでくださいました。


夏に北海道にかえれば、「そちら(九州)は暑いでしょう。たいへんですねえ。」と、やさしく話してくれ、


たからくんをつれてかえると、「かわいいですねえ。ほんとうにかわいい、かわいい」と、手をたたいてよろこんでくれました。


明治44年生まれの八千代おばあちゃんは、戦時中に国民学校の教員もされていました。

日本が戦争へどんどん突入していった時代に、どんな想いで子どもたちとせっしていたのでしょうか。

帰らぬ人となった教え子もいたでしょう。表現の自由が許されない時代に、

心のやさしい八千代おばあちゃんにとって、つらく、悲しいことも多かったにちがいありません。


もう、八千代おばあちゃんの声をきくことはできませんが、棺で眠るきれいなお顔をみていると

「まよわずに思いっきり生きよう」と、さらにつよい気持ちにさせてくれました。


長年、献身的におばあちゃんの介護をされ、お通夜や葬儀でもおたがいに協力しあっている

80代から60代後半の6人のご兄妹も、ほんとうにうつくしいと思いました。


八千代おばあちゃんがいたからこそ、北海道のお父さん、よっちゃん、そして、たからくんがいるわけです。

おばあちゃん。ありがとう。

ぼくも家族をたいせつにして、せいいいっぱい生きます。




八千代おばあちゃんのお通夜と、お葬式がおわって、近所のおまつりにいきました。

おまつりのビンゴ大会で、景品の1等と6等があたりました。

たからくんの大好きな数字が「6」。しかも中身は、動物の名前をあてるおもちゃで大喜び。

1等をゲットした、いとこのおねえちゃんがもらったのは、前からほしかったキャンプにつかえるワンタッチテント。


これはもう、八千代おばあちゃんが、当ててくれたとしか思えません。

ぼくも博物館や資料館へ行って、北海道の開拓についてじっくり調べてきます。

ちょっとお金がないぐらいで、したいことをためらっていたぼくを、おばあちゃんが北海道までよんでくれたのかもしれません。

時間がゆるすかぎり、北海道の現地で「戦争と開拓」について情報をあつめます。


8月6日。八千代おばあちゃんが104年の命をまっとうしたヒロシマの日に。

そして、まよわずに思いきり生きようと、さらにつよく心に決めたナガサキの日に。

八千代おばあちゃん。ありがとう。