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小杉天外 魔風恋風 その10

2011年07月13日 | 著作権切れ明治文学
 写真

 世にも頼母敷き恭一が言葉を、お波は小さき胸に繰返して、大切の姉の夏迄の学資、目前に差迫ってる療治の費用も、最早今日の今夜から心配の要らぬ身に成る事と、俥を降りるや否や平常(つね)よりも元気好く家に入れば、
 「おや、お波ちゃん、阿姉様のお迎でございますね?」と顔を見るより早く主婦が云ふ。
 「え、姉様は?」
 「阿姉様はね、いらツしゃいませんよ。」
 「あら、行違になって?」と驚いて身を反(そら)らすと、
 「いゝえ、然うぢゃありませんよ。まア此方へ来(い)らツしゃい。」
 主婦の様子を見ると、何うやら今迄、姉の事に係ってお饒舌でもして居たらしいので、幼な心に何事か起ったらうと気遣はしく、招かるゝまゝ姉の室に入れば、
 「お波ちゃん、貴女の阿姉様にも困って了ひましたよ。」
 「えツ、何うして?」と眼を円くする。
 「余り、気が変り易いんですもの、何うして如彼(あゝ)なんでせうねえ、」主婦は今更の如(やう)にお波を眺めて、「同じ御姉妹でも、貴女は此様なに闊達(きびきび)していらツしゃるのにねえ。」
 「姉様は何処へ行って?」
 「阿姉様はね、質屋へ行らツしゃいましたよ…、御召物から何から、夥多(どツさり)抱へ込んで。」
 「まア!」と顔色が変った。
 「御覧なさい、此の通り、」と主婦は押入を明けて、姉の着更入(きがへいれ)なる支那鞄を見せ、「ね、何にも無いでせう?」
 「何うしたんだらう…、昨日まで彼様なに、殿井様に頼む外詮方が無いツて、彼様なに約束までして…。」
 「ですから、また気が変ったんですよ。つい先刻(さっき)まではね、殿井様に行らツしゃる心算でね、お召更までなすツて、最うお俥の来るのを待って在(い)らしたんですよ、すると、急にね…、ねえお廉、」と主婦は勝手の方に声を走らして、「お廉や、ま一寸お来(い)でな。」
 すると下女が襷のまゝで顔を出して、お波を見て一寸会釈する。主婦は、
 「ねえお廉、今の話さ、お前は見たツてぢゃないか、何だか、写真を御覧なすツてから、急に気が変ったんだツて…、ま話して御覧よ、お波ちゃんに話して御覧よ。」
 「写真の故(せゐ)ですか何ですか、其処は存じませんけれど…、」とお波の前を、幾分か憚る様に云ふ。
 「でも、お前は見たツてぢゃ無いかね。」
 「はい、それは、写真を凝(ぢツ)と視ていらツしゃる処は見ましたけれど…。」とお廉は話したが、先刻、呼びに遣った俥も来たので、其の由を初野に告げると、最う疾(とう)に準備(したく)が出来て居ながら、早速(すぐ)に出ようともしなかツた。それから、再(また)同じ事を注意すると、机に凭れて、凝然と考へに沈んで、今回は返辞一つしなかツた。お廉は変な事に思って、後で障子の穴から竊(そツ)と覗くと、初野は片手に写真を眺めて、何を思ふのか、呼吸も絶えたと見ゆる許り、瞬き一つだにしないのである。
 「その写真は、誰の写真なの?」と話の中途でお波が尋ねた。
 「確(しか)とは分りませんけれど、何うも、洋服を来た、角帽を冠った…、大学生の様でございましたよ。」とお廉は答へて、また、「夫から、暫く経つと、私をお呼びになりましたね、気の毒だかれど、一寸質屋へ使に行って呉れまいかツて、お服(めし)から何から、種々(いろん)な物をお出しなすツてるぢゃありませんか…。」
 すると、主婦は下婢の話を引取って、
 「お廉が其様な事を云って来ましたからね、私は、今日は急がしいんだから、其様なお使はお断り為ろツてね、然う云ひ付けたんですよ…。」と主婦は尚も言葉を継いだが、其の断った仔細と云ふのは、頼む儘に使に出しては、折角思立った殿井に行く事が止(や)めに成って、間(なか)に立ったお波の困るのは云ふまでもなく、是から後の初野が身は、益々困難に陥る許りであると、それを気の毒に思うての事である。
 主婦の心では、斯うして断って了へば、差迫った月末の払、賄料(まかなひ)から、俥屋の勘定、牛乳、洗濯屋の書出(かきだし)まで、何うしても爰に十七八円の金が無くては、明日の新しい月を迎へられぬ筈であるから、最う我を折って殿井に頼込むに違ひ無いと思った。ところが何う決心をしたものか、案外にも風呂敷包を提げて、殿井へ行く為に呼んだ俥を走らして、其の質屋へ自身で出掛けたのには、流石の主婦も、
 「実に、私も呆れて了ひましたよ。」
 「ぢゃ、殿井様に頼むことは止したんかねえ?」とお波も当惑した。
 「お迎に来(い)らツしゃる位ですから、殿井様では、何様なにか待っていらツしゃるでせう?」
 「えゝ、仕出屋からね、お料理を取ったり何かしてねえ…。」
 「まア、然うですか。御深切に、其様なにまでして下さるのにねえ。」
 「だけれど、是から前途(さき)何うする心算なんだらう?質を置くツて、最う何にも無いだらうし…?」
 「然うですとも、其処ですよ、」と主婦は強く点頭き、「お波ちゃんだツて、此の通り気が付いていらツしゃるのに、其点を考へないなんて、阿姉様のやうでも無いぢゃありませんかねえ。」
 「私は、其様な事で、旦那に怒られたら何う為ようと思って…。」
 「然うですともね、約束を変更されて、誰だツて好い心地の人はありませんからねえ…。これと云ふが、其の写真の故(せゐ)なんだけれど…。確に男の写真だツたらうねえお廉?」と背後を顧(み)れば、何時の間にか下婢は其処に居らぬので、「まア、何様な写真だか、其の写真を一つ捜して見ようぢゃありませんか。」
 主婦はお波を促して、机の抽匣(ひきだし)から文庫、それから書箱(ほんばこ)など掻廻したが、其写真らしい物は見当たらなかツた。勿論、絹表装の写真アルバムが一冊在るにはあるが、此れには学校の友達や、郷里の母、亡き父、お波と二人列んだのなどで、お廉の云ふ様な大学生の写真は一枚も挟まれて無いのである。
 「貴女は、其様な写真御覧なすツた事有りまして?」
 「いゝえ。」
 「ぢゃ、其様なものは何処へ蔵(しま)って置きます?」
 「何処だか…。」とお波は、掻探(さが)して居た文庫を蓋(ふた)したが、偶(ふ)と其傍の反故籠から、「おや、此処に此様な物が…。」
 「破いた写真ぢゃありませんか…。」
 二人で拾出したが、五つ六つに引裂いた写真で、之を継合はして見ると、なる程角帽に制服を着けた大学生の半身である。



 「あら、私何処(どツか)で見た人よ。」とお波が云った。
 「夏本様と云ふ方でせう?」
 「あ、然うだ、芳江様の阿兄様だ。」
 さて、主婦は解せなくなツた。殿井に行かうとして着物まで着替へた処が、此の写真を見て急に厭に成ったとすれば、それで成程理由(すぢ)も通らない事はないが、それ程深く念ふ男の写真なら、何故斯う引裂(やぶ)いてなんぞ棄てたものであらう?
 


 質屋の門

  一

 今日も日没(くれ)に近く、往来(ゆきゝ)の足の急(せは)しい横町を、人目を避(よ)くる深張りの洋傘(かさ)に顔を埋めて、行くでも無く止まるでも無く止まるでも無き優姿(やさすがた)、服装(なり)は着古した曙縞の糸織の袷、帯も性の脱けた博多とメリンスの腹合せと云ふ服装(なり)であるが、其の洋傘(かさ)を外(はづ)るゝ白き項脚(えりあし)、ちらと洩れる顔の輪郭、急ぐ者も目を瞠り、悪戯にも態々摺違って、洋傘の中を覗いて通る者もある。
 「萩原様、萩原様。」
 後から駈けて来た黒鴨仕立の車夫が、傍へ来ると小声で呼止めた。すると、同じく顔を隠しながら、
 「何うでした、彼(あれ)でも可けなくツて?」
 「へ、矢張り可けません、精々、十五円きゃ貸せない相でごぜえます。」
 「何卒か、もツと低声(しづか)に…。」車夫の声を制して、体裁(きまり)悪いのか歩(あし)を速める。
 車夫も後に従いて来たが、また、
 「彼品(あれ)を加(い)れても十五円きゃ貸せないさうで…。」と耳近く口を寄せると、
 「それは分りました、」と答へたが、思はず溜息を吐いて、「困ったわねえ…、是非とも二十円無きゃ仕様がないんだし…、ぢゃアねえ、詮方が無いから、此れを持ってツてね、最う一回(ど)頼んで見て下さいな…。」
 車夫は其の小さな風呂敷包を請取り、
 「へ、此品(これ)を加れて二十円でげすか?」
 「然うですよ、此品はね、拵へる時は、是許しでも二十円から以上(さき)出てますからね、熟(よう)く其処を然う云ってね。」
 「へ、何でげす?」
 「羽織ですよ、一楽の。まだ何とも無い物(しな)ですからね、熟(よう)く頼んで見て下さいな。」
 「へ、ぢゃア…。」
 「私は、彼方の小路の方へ行ってますから…。」
 車夫は元来た道を駈戻る。初野は、同じ処のみを歩いても居られぬので、彼方の小路へと足を向けた。
 「彼様な物一枚、決して惜むんぢゃ無いけれど…。」胸の中に繰返して、また溜息を吐いた。
 惜むのでは無けれど、寒暖定まらぬ晩春の時候、外出の際(とき)など、見悪(みにく)い此の袷の上を飾る便(たより)とも成らうのに、あゝ、彼品(あれ)を手離せば、最う余所行と云ふ物は一枚も無いのだ。勿論晩かれ早かれ、我が所持品(もちもの)総(すべて)は他の有(もの)に成るに決って居る、卒業試験の時は、肌を隠す許りの寝巻一枚を着て、衆人(おほぜい)の笑ひ声の中で卒業証を貰ふものと覚悟して居る、假ひそれが羞しくとも、若い男の助力(たすけ)を得て、何事も其の意見に従はねばならぬ身と成って、假しや心は乱さずとも、それが為に有らぬ浮名を唄はるゝに較ぶれば、何の辛い事が有らうぞ!大切(だいじ)の母と離れ、意地悪き兄の言に逆ひ、是まで辛苦を忍んで来て、如何に繊弱(かよわ)い女子(おなご)でも、夏まで辛抱為きれぬ事があらうか!病気が重くなツて、中途に倒れるならそれまでの運命!下宿から逐出され、学校から停学を命じられても、独立して、遣る処まで遣って、それで可けぬのなら快く断念(あきらめ)も付くと云ふもの、然うよ、考へれば何も惜む事はない、何も悲む事も無いのだ…。
 「あら、萩原様ぢゃ無くツて…?」
 不意に声を掛けられて、吃驚面を揚げた初野は、
 「まア、三浦様!」
 「萩原様だよ、好い処で逢ったわねえ、私、是から貴女の宿(とこ)に行く処よ。」
 「然う?」と云ふや否や、我が服装に気が付いたか、初野は忽ち赤くなツた。
 「何処へ行らしツて?今帰る処ぢゃ無くツて?」
 「え、最う帰る所ですけれど…。」
 「ぢゃ、同伴(いツしょ)に参りませう…。」と云ったが、速くも初野の進まぬ様子を見て、
 「何誰(どなた)か、お連でも?」
 「いゝえ、然うぢゃ無いけれど…。」
 「何うして、何か、此邊(こゝら)に御用が有って…?私ね、」と三浦絹子は一層近くに寄って、「貴女の事でね、大事の使命を帯びて来たのよ。」
 「大事の使命?」
 「え、夏本様から…。」
 初野は即ち芳江の事が胸に浮んだ。必然(きツ)と、絹子を間に入れて、疎く成った間を調停せしめんとするのだと。
 「大概お解りでせう?」と絹子は初野を覗く様にして、「大変よ、夏本様は…。それこそ夢中よ、私も、彼の方の熱愛には感動して了ったわ。」
 斯う云ふや否や、急に潛然(なみだぐ)んだ。何事か知らぬが、学友間(ともだちかん)に快活と稱さるゝ絹子の此の態(さま)を見ると、初野も胸を締めらるゝ心地である。今更改めて聴くまでも無い、芳江の友情、優しい気質は、数年来の交際(まじはり)で深く知り抜いて居る。芳江は自分を姉と呼ぶが、自分もまた親身の同胞(きゃうだい)の様に思うて居た。学校に出ても互に顔を合はせるのを楽みとし、帰る時も連立って同じ道を帰り、それでも飽足らず、休日(やすみ)には必ず一緒に遊び暮すのであツた。過般(このあひだ)の入院中は、殆ど毎日の如く見舞に来て呉れた、退院した時も彼様なに多額の見舞料を贈って呉れた、その他、細かな事までを挙げたならば、私は此の儘にも駈けて行って、芳江様に謝罪(あやま)らなきゃ済まない様な気がする。
 けれども私は、最う芳江様とは顔を合はせまいと決めて居る、假(よ)し合ふにしても、それは卒業の後、私も相当の地位を得て後、一年か、二年か、それとも五年十年の後かに会へば会ふ心算である。子爵に彼様な暴行に遭ひ、夫人に彼様な侮辱を受けた時は、口惜さに私は死んで了はうと迄思った。元より彼事(あれ)は芳江様の関係した事ではない、それは最う知れ切った話である、また私は、親達が憎いからと云って、其子まで怒を転(うつ)す理由(わけ)は無い、けれども、其様な理由は無いけれども、何うも舊(もと)のやうに彼の人と親しくする心は失くなツて了った。彼時限(あれき)りに会はぬので、幾回(いくたび)か手紙を寄越して、私の心を解かうとして呉れた、私は其の度に泣かされた、返事を認めようとして、筆を執った事も幾回か知れぬ。けれども私は、只の一回も手紙を遣らなかツた、済まぬと思ひながらも、一面には、情を殺して耐へ居る事を、何だか勝利を得たやうに思うて居た。
 芳江様は二人の間を調停して貰ふために、房州から東吾様を呼ぶと云ふ、東吾様の云ふことなれば、私は何事(なん)でも聴くから、と思うてゞあらう…、だが、此の事許りは、私は他(ひと)の言で心を変へぬ心算だ、また東吾様の来るのを待っても居なかツた。幾ら許嫁の頼でも、私の事で態々房州から帰る様な東吾様で無いのは知(わか)って居る…、言に私の推測通り帰って来ないでは無いか…、それとも、手紙では如彼(あゝ)云ふものゝ、東吾様には未だ何とも云って遣らないのかも知れない。
 いや、東吾様が何うであらうと、最う私の関係した事では無かツた、先刻殿井様に行かうとして、俥を待つ間に偶(ふ)と彼の人の写真が目に付いて、遣り遂げようと云ふ気になツた…、彼様な物が有っては、兎角心を鈍らせる原(もと)となるから、最う彼の人の心の事も悉(すっか)り心裏(こゝろ)あら除(と)る為に…、また一切の依頼心から絶縁する為に、彼の通り私は写真をも裂捨てゝ了ったではないか…。
 「萩原様、」と絹子は目を拭って、「失礼ですが、貴女、一寸と私の宿(うち)へ来(い)らして下さらない。」
 「芳江様がいらツしゃるでせう?」と初野は我と我が気を励まして、「私は、彼の方に会ひ度かありませんもの…。」
 絹子は呆れて、暫くはその病気と、続く苦労とに憔悴(やつ)れた蒼白い友人(とも)の顔を眺むるのみである。
 絹子の観察した所では、此の萩原初野と云ふ人は、他(はた)で評判のやうに只だ美しい、只だ温和(おとな)しい許りで無く、心の奥の中には、男兒(をとこ)のやうな確乎(しっかり)した思慮(かんがへ)を蔵って居る人とは思って居た、けれども、斯うまで情の強(こは)い、斯うまで思切った事を口にする人とは思はなかツた。熟(よく)は分らぬが、何でも余程深く芳江を可厭(いや)に思うて居るに違ひ無い、如何なる事情が、あれ程に親しい二人が間を隔てたものであらう、私も芳江様の情に厚き言に感激したとは云へ、何処までも舊(もと)の親しい間に復(かへ)さんと誓ったのではあるし、又初野の此の様子を見れば、容易ならぬ苦労をして居るのは明白(あきらか)である、何うしたら平常(ふだん)の温和い初野に復し、芳江様の彼の有情(やさし)い心を酌取らせる事が出来よう、と考へながらも、
 「萩原様、貴女、何うして然う芳江様がお嫌ひに成って?彼様なに貴女の事で心配していらツしゃるのに、夫ぢゃ、芳江様が可哀相よ。」
 「いゝえ、嫌ひ好きのて云ふ事ぢゃありませんの。」
 「でも、芳江様に会ひ度か無いなんて…?」
 「然(え)、それは…。」
 「ぢゃ、お嫌になツたからでせう?何故です、何か、其処に理由(わけ)が有るでせう?」
 「いゝえ、別段理由も何も…。」
 「だツて、其様な筈は無いぢゃありませんか、彼様なインチメートなものが、急に其様な…。」
 「矢張し、私は此様な馬鹿なんですから…。」と云って、初野は急に潛然(なみだぐ)んだ。
 絹子は目を瞠ったが、
 「萩原様、貴女、私にまで其様な事を仰有るのは酷いわ。芳江様に頼まれたと云っても、貴女とも親友の心算だわ、何方を贔屓するなんて、偏頗(へんぱ)な考へなんぞ有(も)ってませんわ…、それを其様な、敵(かたき)の片割か何ぞのやうに仰有るんだもの、余りだわ。」
 「いゝえ、貴女の厚意は、それは熟く解ってますけれど…。」と謝罪(あやま)るやうに云ふと、反対に絹子の方が不機嫌な顔色(かほ)を続けて、
 「私は、貴女の御意見は御意見で十分に伺う心算ですわ。今日は只だ、芳江様の方を先に聴いたもんだから、非常に感動し了(ちま)って…、」と云ツて言を切ったが、「だツて、芳江様の話を聴けば、実際無理は無いんですもの…幾ら謝罪って上げても、返書(へんじ)一つ下さらないと云ふし、房州から兄様に来て貰って、種々謝罪って貰はうとしても、貴女は避けていらしツて、何うしても会っちゃ下さらないと云ふぢゃありませんか…。」
 「…兄様に来て貰って…、東吾様ですか?」
 「え、東吾様が訪ねて行っても、貴女は会は無いんだツてぢゃありませんか?」
 「東吾様が…?何日(いつ)です…?」と云ったが、何うしてか忽ち赤くなツて、「嘘でせう、其様な事有る筈はありませんもの。」
 「東吾様の訪ねて行った事?何だツて貴女、芳江様が嘘云ふもんですか…、貴女は、芳江様を其様な方と思っていらツしゃるから可けない…。」
 「いゝえ、然うは思ひませんけど、」と敏捷(すばや)く打消したが、「だツて、東吾様が訪ねていらしツたなんて、其様な事はありませんよ。」
 乃(そこ)で絹子は、芳江から聴いた一部始終、即ち東吾の訪ねて行った事、書簡(てがみ)を出しても返辞無き故、怒って房州に帰ると云った事などを告げた。すると初野は顔色を変へて、
 「まア、何うした間違でせう、其様な、名刺の事も知らないし、お書簡だツて、実際参りやしませんもの…。」と呆れたが、「ぢゃ、東吾様は、本当に帰っていらしツたんですか?」
 「貴女は未だ夫を疑ぐツていらツしゃるんだもの…。」
 「いゝえ、疑ふ訳ぢゃ無いけど…。」
 「ですから、斯うして、立ってお話も出来ないから、まア私の宿(うち)へいらしツて下さいよ、未だお話しなきゃならない事が色々有るんですもの。」
 「然うねえ。」
 「可いぢゃありませんか…。芳江様なら、最ういらツしゃいませんよ、疾(とう)に帰りましたよ。」
 「参っても可いんですけれど…、」と云ふ時、背後の方から空俥の音が近づいて、質屋へ使に遣った車夫(くるまや)が来るので、初野は此方から歩(あし)を運んで、最後の羽織までを加(い)れて辛(やツ)と貸して呉れたと云ふ其の金を請取り、少し用事が出来て寄道をする、お前は帰って呉れと車夫に別れ、さて余り進まぬ風で、絹子と共に其の寄留し居る家へと出掛けた。
 


をりあひ

  一

 腹の裂ける許りに詰込まれた旅行鞄(カバン)、毛の摩切れた白毛布、それに洋傘(かうもり)まで添へて、整然(ちゃん)と玄関に揃へて在るが、六時の発船に乗込むと云ふ東吾は、七時が過ぎても未だ帰って来ない。無論明朝に延したのだらうが、「何処へ行らしたんだらう?何うなすツたんだらう?」と主婦は独り気を揉んで居た。
 東吾の此家(こゝ)に寄留してから最う三年にもなる、目下(いま)は其会社の支店長たる良人は、夏本子爵の登庸(ひきた)てゞ今日の地位にも在るので、主婦は大切の主人の相続人(あとゝり)を預った心算で、表面(うはべ)のみならぬ深切をも盡し、また、悪い友達などに誘はれて、悪い遊など為(せ)ぬ様にと、及ばずながら監督をも勤めて居る心算である。
 良人は二箇月(ふたつき)に一回、或は三箇月(みつき)に一回帰る限りで、趾には自分と、未だ小学校に通ふ病身の男兒(こども)が一人、此れに下婢(をんな)を加へて、東吾とも合せて四人であるが、今日は主婦の姪に当たるお梅と云ふのが遊びに来て居る。
 「叔母様、孰(どう)せ明日だらうから、彼の鞄は二階へ上げと置きませうか?」と其のお梅が主婦に云った。
 「然うねえ、だけれど、梅ちゃんの力で持てるかい?」
 「大丈夫よ叔母様…。」
 「おや、帰っていらツした様だ…。」と主婦は表の木戸の開く音に耳を澄まして、煙管を火鉢に叩くと、お梅は敏捷(すばや)くも玄関へ出迎へたが、路地の植込に、夕陽の華かに消えて行く間を、絵の様な美しい女学生が入って来た。
 「御免下さいまし、あの、伺ひますが、」と如何にも体裁(きまり)悪る気に、「此方様に、夏本様て云ふ方が在(い)らツしゃいますでせうか?」
 「はい、いらツしゃいますが、」とお梅は何故か赤くなツて、「只今は、あの御不在(おるす)なんでございますの…。」
 「左様でございますか…、それでは、最う房州の方へお出立(たち)なすツたんでせうか?」
 「いゝえ…。」と目を瞠って、「まだ、お出立にはなりませんの…。」
 「それでは、最うお帰りに成る頃ぢゃござんすまいか?」
 「如何でございますか…。失礼ですが、貴女は何誰様で…。」
 「私は、あの…、萩原と申しますもので。」
 「萩原様と…?」
 「あの、芳江様の学友(ともだち)でございます…。」
 「あゝ、」とは云ったが、お梅は学友(ともだち)と云ふ語(ことば)を間違へたのか、「それでは、お待ちなすツていらツしゃいますか?」
 「左様でございますねえ…?」と考へて居る。
 「最うお帰りでせうよ。」
 「はア…。」矢張り決し難(かね)て居る。
 「何か、急な御用でも…?」
 「え、少し…、」と云ったが、「では、再(また)伺ひますから、お帰りなすツたら何卒(どう)ぞ。」
 お梅が承知の旨を答へると、「丁寧に会釈して出て行く。その背後姿(うしろすがた)を見送って居たお梅は、頓(やが)て茶の室(ま)に戻って、今の女学生の美しかツた事を述べて、さて何様な用で訪ねて来たのだらう、東吾とは何う云ふ間(なか)だらう、様子が余程怪(をか)しかツた、などゝ想像を加へて、主婦(をば)が芳江の友達で、何か芳江から頼まれて来たのであらう、と云ふに係らず、今に東吾が帰ったら存分あぶらを取って遣らうと思って居る。
 主婦は主婦で、如彼(あゝ)いふ堅い東吾であるから、女の問題で間違ひなどの有らう筈は無いが、其様な者の訪ねて来る事が邸に知れては、私の不取締にも当る、假令(たとひ)在宿の処へ来ても、何うか会はせ度くないものだが、などゝ考へて居る。
 ところへ、横町へ入って来た俥の音が止って、垣根の外に高い男の声がする。
 「おや、夏本様のやうぢゃ無いか?」
 「然うよ、夏本様よ。」
 叔母と姪とが、一緒に玄関へ出ると、
 「お危なうございます。」
 車夫が先になツて、東吾の足許に提灯(かんばん)を照しながら入って来た。
 「其様な事為(せ)んでも分る…。」と云ふ東吾の声は常に無い荒く聞える。
 「叔母様、酔って来(い)らしツてよ。」とお梅が呟くと、
 「然うなやうねえ。」
 と云ふ中に、車夫より先に格子戸を開けようとした東吾は、敷居に躓いてよろよろと家に入ったが、其処に出迎へた主婦を見ると、
 「やア、今日は到頭遅くなツ了ひましたよ。」と笑ひながら云ふ。
 「何うなすツたんです、まア!」
 「今日ね、彼時(あれ)から買物に行くとね、途中で友達に逢ってね…。はゝゝゝ、到頭曳張り込まれツ了ってね。何うです、暢気なもんでせう、はゝゝゝゝ。」と又笑ったが、「出立は明朝です、明朝の七時…。」
 と云ひながら、直ぐ梯子を登らうとする。
 「あら、お危なうございますよ。」と主婦は止めようとする。
 「一寸待ってらツしゃいよ、今洋燈(ランプ)を点けますからさ。」とお梅も止める。
 「なアに、大丈夫でさア。」と他(ひと)の手を払って、暗い梯子を駈ける様に登った、足許は確のやうだが、趾には噎(むせ)る許りの酒の香が漾ふ。
 お梅は燐寸を持って直ぐ二階へ行ったが、東吾は雨戸を開けながら、
 「暑くなツたねえ、此様なになツちゃ、もう東京には一日も御免だなア。」
 「だツて、貴方が出立(たつ)と云っても、立たせない女(ひと)が在ったら何うなさるの…?」とお梅は調戯(からか)ひ始めた。
 「何だと?」
 「ほゝゝゝゝ。」と高く笑って、「先刻(さツき)ね、大変な別嬪様訪ねて来(い)らしツてよ、是非ね、貴方に会ひ度いんですツて。」
 「私に会ひ度い…?」初めてお梅を見返ったが、「馬鹿なこと云へ。」
 「あら、本当ですよ、本当の事ですよ。ぢゃ、其様なに疑ぐるなら黙ってませう…、大変に美い女学生さんよ、黙ってませう…。」
 「女学生?」
 「知らないわ、孰(どう)せ、私の云ふ事なんぞ嘘なんだから…。」
 「ぢゃ聴かん!彼方へ行ってお居で、煩い。」
 「まア、彼様な事を…、本当に夏本様は邪険だよ。可いから、今度御邸のお嬢様が来らしツたら、皆な言告(いひつ)けて進(あ)げるから…、あの、夏本様には、萩原様て云ふ美しい女学生が付いてますからお気を注けなさい…。」
 「なに、萩原…?」
 「知りませんよ。」
 「ぢゃ、萩原て云ふ女(ひと)が訪ねて来たんか?」
 「如何ですかねえ…。」
 「と云ふ処へ、階下(した)から主婦が登(あが)って来て、
 「何でございますかね、今の車夫が参りましてね、一寸お目に掛り度いツて申しますが。」
 「僕ですか?何だらう、酒代(さかて)でも呉れツてんだね?」
 「いゝえ、其様な様子でもありませんよ、是非、一寸お目に掛りたいんですツて…。」
 「待ってるんですか?」と聞いて、衝(つ)と立って梯子を降り、玄関の障子を開けるや否や、「お前今の車夫か、何だ?」
 「へ、一寸今、其処で頼まれましたんで…。」
 「何だ?」
 「えゝ、萩原様て仰有る方がね、一寸、お目に掛り度いから、一寸旦那に伺って見てお呉れ、て仰有いましてね…。」
 萩原と聞いて東吾もはツと思ったが、考へる暇もなく、
 「お目に掛り度いから問(き)いて呉れ…?何を聞くんだ、居るか居らんかと云ふのか?それとも会ふか会はんかと云ふのか…?」と詰責する如き語調(てうし)。
 「へ、如何でございますか、旦那にお目に掛って竊(そツ)と然う申上げて呉れ、て仰有いまして、へ。」
 東吾は車夫の云ふ事など耳にも入れず、
 「夫は何うでも可い、何の用が有るんだ?其の用事に依て会ひも為よう、併し僕は暇な人間ぢゃ無い、長い談ならお謝絶(ことわり)だ…、」と云ふ時、格子戸を透して薄月夜の路地に、来るでも無く去るでも無い女の姿が眼に入ると、「厭になりゃお謝絶だ、先方に会ふ用が有っても、僕には其様な用は無い、また義理も無い、会はうが会ふまいが僕の勝手だ…、然う云って呉れ!」
 と云ひ捨てゝ障子をばたり、直ぐ中に引込むと、其処に起って居るお梅に突当たる。
 「何です…?」とお梅は低声(こごゑ)に聞く。
 「お前なぞ関係したことぢゃ無い。」と無愛想に云って、足音荒く梯子を登ると、
 「何でございます?」と主婦も梯子の口から階下を覗いて居る。常(ただ)ならぬ東吾が声を、喧嘩でもする処と思うたらしい。
 「なアに、詰らん事(こツ)てす、」と東吾は嘲る様に答へて、つかつかと机の前に坐ったが、またむくり立上って、「今夜は馬鹿に暑いぢゃありませんか…、僕許か知ら?」
 「御酒を召喫(あが)ったからでせう、」と東吾の縁側に出るを眺めて、「まア、制服(ふく)をお脱ぎんなすツたら何うです…?階下からお鞄を持って参りませうか?」
 「いや、構ひません…、」と其処を歩いて居たが、急に上衣を脱いで室内(うち)へ抛込み、突然に話出した。「芳江様の友達でね、麹町の邸へなぞも屡(よ)く遊に来るんだが、何か、養母(はゝ)と衝突したとかなんか云ふんで、芳江は非常に心配してね、今日も彼の通り出立(たつ)のを見合はして呉れなんて僕を無理に引留めに来たんですよ…。」
 ところへお梅が登って来て、
 「夏本様、来ましたよ、先刻の別嬪また来ましたよ。」
 「なに、また来た?」
 「ほゝゝゝ、体裁(きまり)が悪いもんだから、彼様な顔色(かほ)をなすツて…。」とお梅は笑ひながら睨める。
 「何ですよ梅ちゃん、」主婦は窘(たしな)めて、「確(しっか)り申上げなさいなね。」
 「だから、夏本様にお目に掛り度いツて…。叔母様、それは本当に綺麗な女学生よ、服装(なり)は少し何だけれど、色なんざ雪の様でね…。」
 「ま、其様な余計な事を、」と主婦はお梅の口を止めたが、東吾を見ると黙って衝立(つった)って居るので、「階下に待っていらツしゃるのかい?」
 「え、待ってらツしゃるの。体裁が悪いか何だか、小さくなツてね。」
 「今時分何の用が有るんだ?梅ちゃん、然う云ってお呉れ、其の用事の種類に依っては、面会して遣っても可いけれど、僕には僕の都合と云ふものが有る、或は、直ぐ帰って貰ふかも測られないから…。」
 「其様な理窟なんか、私には云へ無くツてよ。」とお梅は顔を顰めて、「何様な用だか、会ってから聴いたら可いぢゃありませんか。」
 「面倒臭い、ぢゃ、一寸会って遣らう。」
 「ぢゃ、お上がりなさいツて然う云ひますよ。」
 お梅は階下(した)に降りて行く。主婦も其邊(そこら)を片付けて出て行った。東吾は首を傾げて考へて居たが、また縁側を歩き出した。



  二

 除に梯子を登る音がして、暫くして初野が入って来た。東吾はそれを、一概に自分に対して恥しい為とのみ解(と)った。
 二人が顔を合はせるは、日外(いつぞや)東吾の房州へ立つ前日、初野が恭一の家へ行く途中、人通多い黄昏時に、一寸と言を交した以来初めてゞある。東吾は敏捷(すばや)くも脱いだ上衣に手を通し、洋燈の前に肩を峙(いか)らして、生来背の高いのを反身に、頭から、初野を見下ろす如く構へて居たが、其の服装(なり)から其の容貌(かたち)から、僅の間に窶れ見えるのには、流石に一驚を喫したのである。
 初野の方では、斜に射す燈火(あかり)を便(たより)に、艶々と紅味を帯びた東吾の半面、気力の充満みちみ)ちた眼の光、服装などには相変わらずの無頓着ながら、筋肉の発達著しく、何うやら又肥った様なのを見て、嬉しいとも付かず懐しいとも付かず、一種の感に胸は躍って、眼は自然(おのづ)と涙ぐむのである。
 「…何様なにか御立腹でせうけれど、私は、先刻、三浦様から聴きまして、初めて知ったものですから…。」と初野は、先づ謝罪(あやま)る如き語調で云った。
 玄関を入る迄は、第一には暫く御無沙汰の挨拶、夫から入院中に見舞はれた礼などを述べ、それから絹子に逢って聴いた一部始終に移らうと、胸の中に順序も立てて居たのであるが、東吾の前に出ると、最う其の順序も何も乱れて了ふのである。
 「夫は何の事(こツ)てす?」東吾の眼は鋭く光ったが、其の語調は如何にも冷淡に聞えるのである。
 「あの…、私の下宿へ訪ねていらしツた事も、御書簡を下すツた事も、今迄些とも存じませんものですから…。」初野は変に気が更まツて、何うも思ふ様に口が利けぬのである。
 「それが何うしたと云ふのです?」と詰責する如き語調。
 「それで、お詫を致さなければ済まないと存じまして…。」
 「御用と云ふのは其事(それ)ですか?」
 「は。」と東吾を覗ながら、「お詫を致しまして、あの、矢張り、従来(これまで)の如(やう)に…、萬事御助力を願ひ度いと存じまして…。」
 「助力?いや、其は御謝絶(おことわり)です。」と東吾は決然(きっぱり)と云ひ放った、「又、詫るとか何とか云ふけれど、何も詫て貰ふ事は無い、其様な事は最う聞き度くも無い、最う過去に属した事で、私の頭から消えた事で、最う私には無関係の事です…。貴方だツて然うでせう、其の時の都合で、他が訪ねても面会を謝絶(ことわ)るでせう、手紙を遣っても返辞も出さんでせう…、詰りそれと同じ理窟でさ、僕には僕の都合がありまさア…、最う聞き度くも無い、貴女とは会ふのも厭だ…、最う帰って貰ひませう!」
 「はい…。」と許りで、初野は溢るる涙を袖に隠した。
 二人は暫く口を噤んだ。何時の間にか風が出て、洋燈(ランプ)の火光(ほかげ)が頬と動いて居る。庭の木の葉が柔かに私語(さゝや)く…、途切々々に遠雷の音が聞える。それで居て、縁側には薄く月光(つきかげ)が射して居る。
 で、暫くして、
 「然うお解りなさるも御無理はありませんけれど、全く、お訪ね下すった事なんぞ、少(ちっ)とも存じませんし、お手紙も達(とど)かないもんですから…。」と初野が弁解(いひとか)うとすると、
 「手紙が達かない?貴女の下宿には、郵便が達かんですか?」東吾は嘲った。
 「は。達きさへすれば、返事を上げないことは有りませんけれど…。」
 「然うですか、成程、郵便が達かんのですか!や、立派な御弁解を聴きました。はゝゝゝゝ。」
 と突然笑ったが、「貴女には、総(すべて)郵便が達かんものと見える…、芳江の話では、三回とか手紙を出したけれど、一回も返事が無いと云ふが、ぢゃ、それも郵便が達かんのでせう…、はゝゝゝ、あはゝゝゝ。」
 初野は弁解く言も無く、片手を畳に顔を背向けて、落(おつ)る涙のはらはらと音するのみである。
 「いや、其様な事は何うでも可いのです、」と東吾は元気の充ちた声で、「出した郵便は達くか届かないか、僕は其様な事を詮議してる暇は無い、其様な愚物でも無い心算だ…。まア、今に成って聴く事も無い、また言ふ事も有りません、失礼だが帰って貰ひませう。」
 「…芳江様に返書を上げないのは、それは、私が悪いんですけれど、実は、間違った考に支配されまして、三浦様から聴く迄は、迷が覚めなかツたんですもの…。ですけれど、貴方のお手紙だけは、全く私の手に達きませんでした…、実際の事です、貴方だツて、私の平生(ひごろ)は御承知の筈ですが、私は其様な虚言(うそ)を吐く者か何(どう)ですか、少しお考へ下すツたら、直ぐお疑ひは解けることゝ存じますが…。」
 「これは、大変な弁駁を聞くもんですね…。」と嘲る。
 「いゝえ、弁駁ぢゃありませんが。」
 「だが、疑っちゃ悪いと云ふ様に仰有るけれど、疑はうが疑ふまいが、貴女に損害の掛らない以上、僕の自由でせう…?」と云ったが、更に傲然として、「僕の自由だ、貴女なんぞ関係した事ぢゃ無い!」
 「は、それはもう、然うですけれど…、」と涙に妨げらるゝ声を断々(きれぎれ)に、「ですkれど、私の身に成れば、何処までもお疑ひを晴らして戴かなきゃ成りませんから…。」
 「何故です?それは親しい友人間…、で無くも、今後交際を続けようと云ふ間の事(こツ)てせう?僕は貴女とは友人ぢゃ無い、貴女に交らうなどゝ思はん。」と鋭く云ったが、忽ち又嘲る様に、
 「そんなら可いでせう?疑はうが疑ふまいが、僕の自由でせう?」
 初野は最う云ふ処を知らなかツた。暫くして辛(やツ)と面を揚げ、
 「私は芳江様に謝罪(あやま)りまして、従来(いままで)の様に御交際を願ふ心算ですけれど、それでは、最う芳江様とも交ることが出来ないでせうか?」
 「それは御勝手さ、芳江の事までは僕は干渉せん。たゞ、僕だけは絶交して貰ふのです…、随分貴女の為には、是まで種々…、」と云ひ出さうとして、急に語調を更へ、「いや、今になって何も云ふ事は無いが…、最う、これで帰って貰ひませう!」



 今は取着く島も無いのである。初野も詮方なしに座を起った。東吾は其の趾を眺めて居たが、頓て自分もむくりと起って、室(へや)の中を歩きながら、
 「ふん、何も知らんと思ってるか、画工(ゑかき)との関係も知ってる、妹を頼んだ事も知ってる…。」
 と聞える様に独語したが、忽ち耳を驚かしたのは、梯子を滑り落ちたけたゝましい響である。
 「あれ、叔母様大変だよ、夏本様、疾(はや)く来て下さいよ。」とお梅が叫ぶ。
 東吾は夢中に梯子を駈下りた。其処には初野が横に倒れて、気絶したのか、手を掛けても身動きもせぬ。薬を出せ、医師を呼べと騒ぐ人々を制して、東吾は初野を抱起した。
 「おい、水を持ってお出で…、それから彼の、香水は有りませんか。」
 「有りますよ、梅ちゃん…。」と主婦(あるじ)は洋燈を持って振へて居る。
 東吾はお梅に手伝はせて、初野の頭を冷させ、鼻に香水を当てなどしたが、間もなく美しい眼がぱツちり開いた。
 「貴女、気を確りなさいましよ。」と主婦(あるじ)は耳に口を寄せた。
 「それ、水です、お呑みなさい。」と東吾はコップを唇に当てて遣った。
 その水よりも、差着けられた洋燈の下に、初野は凝然(ぢツ)と東吾を視詰めて、
 「東吾様、貴方、堪忍して下さいな!」と手を握って、はらはらと涙を零した。




 吟味

  一

 その明くる日の午後(ひるすぎ)のことで、切通坂下なる画家の二階に、主人(あるじ)の恭一と、島井の主婦(かみさん)とが、其処に出て在る鮨を摘(つま)まうともせず、好きな煙草を喫むことも忘れて、互に澄まぬ顔色(かほ)して対座(むかひあ)って居る。その中にも主人の恭一は、平成(ふだん)から、あれ程大切にする鏡にも未だ向はぬらしく、頭髪(あたま)も乱れたまゝに任せて、着物はネルの寝衣(ねまき)の上にねんねこを乱次(だらしな)く被(はふ)り、腕組を固く、時々溜息を吐くが、其の癖主婦を見る眼は常に無く鋭く光るのである。
 「旦那、然うお怒(こ)んなすツても困るぢゃありませんか、早速お知らせ申さなかツたのは、夫(そりゃ)ア私の手落でございましたけれど、何しろ余り急で、何が何うしたんだか、些(ちツ)とも訳は分らないんですもの…。」と主婦は鎮(なだ)める如(やう)に云ふ。
 「いや。怒るんぢゃ無いよ、怒ると思ふから間違ってるんだ。今に成って、怒った処が何も成らんぢゃないか?」と恭一は苦笑して、「だから怒るのぢゃ無い、假(よ)し怒るにしても、お主婦に対して怒る理窟は無い、無いが…、唯何うも忌々敷い、お主婦だツて知(しツ)てるだらう、僕は、如何(どれ)程彼女(あれ)の為に神経を労した…、幾回(いくど)彼女に欺かれた…。」
 「それは最う、今更仰有るまでも有りませんとも、私でさへ、忌々敷くツて忌々敷くツて、假し、旦那が此の儘で済まさうと仰有も、私が済まさないと思ってる位ですもの…。」
 「幾ら義理を知らない女(もの)でも、現に、妹が厄介に成ってるぢゃ無いか…。」
 「彼様な肺病患者の家になぞ奉公して、全く、旦那が助けて下すツたも同(おん)なじ事(こツ)てすからねえ…。」と恭一の後に付いて云ひ継ぐ。
 「それに、只の一回(ど)礼にも来やしない…。」
 「その上、急に家を持つ事に為ましたから、妹は私の方に返して下さい…これぢゃ、恩も義理も知らない、宛然(まるで)、犬畜生同様ですからねえ!」
 「僕の不快に感(おもふ)のも無理は無からう…。決して未練が有る訳ぢゃ無い、彼様な女(もの)に愚弄されたと思ふと、只だそれが忌々敷くてならん。何うも、此の儘には済まされん…。」
 「ですから、斯うなれば、最う構ふこた無いから、一つぎいぎい云ふ目に遭はしてお遣んなさいましよ。」
 「けれども、家を持つ位だから金は出来たらうし…、」と考へて、「迫めて、其の金を出した奴が分ると面白いんだが…。」
 「波ちゃんに訊いたら分るか知れませんよ…。」
 「分らない、訊いたけれど知らなかツた。」
 「ぢゃ、口止されてるんですよ、彼の娘(こ)だツて利口な娘ですもの、姉が家を持つと云っても、お金を何うするか位訊きもしないで、おいそれと同意するもんですかね。」
 「然うか知ら、」と首を捻って、「ぢゃ僕は、彼の姉妹(きゃうだい)の為に、好きな様にされてるんだな。」
 「何様な事を云ふか、一つ吟味(たゞ)して見ようぢゃありませんか?」
 「それも宜からう。」
 「階下(した)に居るんでせう、何して居ます?」
 「何してるか…。先刻帰って来て、姉が家を持つから、姉と一緒に成り度いツて云ふからね、余り唐突8だしぬけ)で、僕も吃驚したし、夫に、ぐツと感(おも)ったもんだからね、散々叱付けて遣ったんだ…、多分泣いてるだらう、可哀相た思ったが、彼の時は耐らなく腹が立ったよ…。」
 「然うですとも、誰だツて貴方…。ぢゃ、爰へ呼んで参ゐりませうか、何様な事を云ひますか…。」
 と主婦は階下へ降りて行った。

  二

 階下の梯子傍の長四畳で、我が机に小さく泣伏して居るのはお波である。
 「お波ちゃん、何していらツしゃるの?」と背後から優しく声を掛けて主婦は入って来たが、
 「泣(ない)てらツしゃるんですか?」
 お波は居住(ゐずまひ)を正(なほ)して主婦に向直ったが、口は利かずに、矢張り泣いて居るのである。
 「お波ちゃん、何うしたら可いでせう、旦那は大変な御腹立で、私ア今、散々お叱言を頂戴した所ですよ…。夫も、お波ちゃんを可愛いと思っていらツしゃるからなんだけれど、」と困った顔をして、「貴女は、何うしても阿姉様と御一緒に成るんですか?」
 お波は顔を隠したまゝ点頭づく。
 「ぢゃ、最う、此家(こゝ)の旦那の御世話には成らないツて云ふんですね?」と顔を覗くと、返辞も無ければ頭も動かぬので、「ぢゃア、阿姉様が、学校に入れて下さるのですね?」
 「其様な事は、何うだか分らないけれど…。」
 「分らない…?だツて、其のお談が有ったでせう?」
 「いゝえ、無いの。」
 「それぢゃ、是から何う為ようツて的(あて)も無く、阿姉様が同居に成れと云ふから、それで只だ御同居に成るんですね?まア、お利口な貴方にも似合はないねえ。」
 「だって詮方が無いんだもの…。厭だツて云へば、最う今後(これから)は、姉妹でも何でも無いツて云ふし…。」
 「何故です?なんぼ阿姉様だツて、其様な勝手な事が有るもんかね。貴女もまた、何でも阿姉様の云ふ通り成って、唯々(はいはい)してる事は無いぢゃありませんか、何う云ふ訳でお家を持つか、お家を持(もっ)てからは何うして行くか、其点(そこ)を聴きもしないで、御深切にして下さる此方の旦那から離れるなんて、余り向う見ずぢゃありませんか…。」
 「それは聴いたの…聴いたけれども…。」と言ひ澱む。
 「ぢゃ、何う云ふ訳です?」
 「お主婦(かみさん)、旦那様には秘密(ないしょ)よ、」と願って、「あのね、私がね、旦那の様な道楽者の家に居るとね、姉様に悪い噂が立って、最う姉様の一生が棄(すた)って了ふんだツて…、だから、最う一時も斯うしちゃ置けないんだツて…。」
 「旦那が道楽者だから、悪い噂が立つんですツて、まア!」
 「お主婦、旦那様には秘密にして下さいよ、よ。」
 「それは可いけれど…。そして、お家を持ってから何為(どうなさ)るんです…お金をさ?誰か、お金を出して下さる人でも在るんですか?」
 「私もね、それを聴いたのよ…。」
 「在るんですか?」
 「いゝえ、無いの。無いけれどもね、今は最う、お金の事なぞ彼此云ってられ無いツて。」
 「其様な乱暴な事を…、御自分はそれでも宜からうけれど、お波ちゃん許し可い迷惑ぢゃありませんか、」と云って一段力を籠めて、「ねえ!」
 「いゝえ、私は、姉様の云ふ事だからね、私、些とも迷惑た思はないの。」
 「何様なにお困んなすツても?」
 「え、何様なに困っても、私、姉様と一緒なら辛抱するの、」とお波は涙ぐんで、「だツて、今度はね、何だか知らないけれど、姉様にも大変な訳が有る様なの…。」
 「大変な訳ツて、何様な訳?」
 「私は知らないけど…。」
 主婦は考へる顔をして、
 「昨夜、姉様は何処へ行らしツたか、貴女はお聴きでしたか?」
 「姉様?姉様は何処(どツ)かへ出て?」
 「え、何でもね、遅うくね、一時頃にお帰りでしたよ。」
 「まア、何処へ行ツたらう?」
 「そして、今日になると、急に此様な話でせう…。ですから、何でも昨夜、其の行らしツた先方に、何事(なん)か勃発(もちやが)ツたんですよ。」
 「何うしたんだらう?あゝ、私速く姉様と一緒に成り度いわ。お主婦(かみさん)、何卒後生ですから、旦那様へ願って頂戴な、ね、後生ですから。」とお波は、斯う云ふ中も心の急く態(さま)である。