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小杉天外 魔風恋風 その11

2011年07月17日 | 著作権切れ明治文学
 自炊

  一
 
 駒込吉祥寺の裏手に、百姓家で植木職(うゑきや)を兼ねた仙右衛門と云ふのがある。廣い庭の内を、母屋からは話声も達(とど)かぬ程に離れて、昔隠居所にでも建てたらしい古い藁屋根の座敷(はなれ)があって、別段貸室の札を出して客を呼ぶでも無いが、独身の巡査、工場の勤人、試験の準備に閑静をこのむ学生など、年中借人(かりて)の絶えたことが無いのである。
 初野姉妹(きゃうだい)は此の離室を夏までの我が住居と定めた。
 通りまでは六七町、両側は畑を囲ふ生垣が繁り、目に入る物は木立、竹藪、都の響と云っては、朝夕の豆腐屋も風次第で聞ゆること稀なのである。可弱き娘の身で、夜などは一寸も門を出らるべくもあらず、昼でも吹降りの日などは、物買一人来さうも無い。初野とて好んで此家(こゝ)を借りた訳ではない。何を云ふにも夏までの籠城、有る物の総(すべて)を売尽しても、中々それ迄持耐へさうも無ければ、便不便の擇好(よりこのみ)云うて居る処でなく、賃の安いを長處(とりえ)に、早速此家と決めた次第である。
 家は六畳の間限りで、外に形ばかりの台所、昔は何に用ゐたものか無用の土間長く、此処には筍がひょいひょいと頭を出して居る。此の六畳に僅か許りの荷物を運んで、南の障子際に姉妹(ふたり)の机を列べたが、木立の枝檐(えだのき)に近く、空は薄く曇って、掃除した後の家の臭が鼻を襲ふ。
 「淋しいわねえ。」とお波は幾度か口に出す。



 「静で、何様なに勉強が出来るんだらう。」と姉は元気好く云って見せる。
 けれどもお波は、兎もすれば涙ぐんだり、惘然(ぼんやり)外を眺めたり、何うやら此家(こゝ)に住むことを嫌ふ如(やう)に見える。初野は、それを見ても気の付かぬ態(ふり)をして、元気好さゝうに荷物を片付けて居たが、到頭耐へ切れなくなツて、
 「波ちゃん、何うしたの?何だツて其様な厭な顔をしてるの?」と口を向けたのである。
 「何うもしないけど、私、何だか…、」と涙が溢れる。
 「また…、可けないよ波ちゃんは、直ぐ泣くんだもの。彼程固く決めたことを、貴方最う忘れたの?」
 「忘れやしないわ…。泣きやしないわ。」と眼を拭って、「私、斯う云ふ処初めてだもんだから、何だか怖いやうで…。」
 「何だねえ此の人は、十三にも成ってさ…、」と云ったが、急に高く笑って、「何が怖いの?直ぐ其処に、前の家が在るぢゃないの…、其様な事を云ふと、人に笑はれますよ。」
 初野は賑かに云ったが、その声が止むと前より又一倍寂然(ひツそり)となツた。お波は物を片付ける事もせずに、黙って姉の顔ばかりを視て居る。すると初野も、最う妹を慰める力もなく、穴の中にでも沈んで行くやうな、心細い厭な気が身体を締めるやうに迫って来る。

  二 

 淋しいのも、苦しいのも、それは元から覚悟の前であるのだ。泣いたり、怒ったり、種々な事をして妹を諭して、漸(やツ)との事で納得させて、最う愚癡は云はぬ、泣言は言はぬ、渡る浮世の波は荒くとも、姉妹二人が手に手を捉って、假(よし)や中途で斃れるとも、二人斯うして一緒に斃れるまでの事、それも、
 「幾ら辛いたツて、最う二タ月のことぢゃ無いか。」と姉が励ませば、
 「姉様、私辛抱するわ、何様なに辛いツて、死んだ気になツて辛抱するわ。」と堅く誓ひ合って、食ふ物が尽きれば、互に肉を削いでも食はす様な心の中!だが愈よ此処に引移って、最う此れからは此処が住居と決ると、言を慎んでも自然(おのづ)と出て来る溜息、妹は姉に覚らせまいと力むると、姉はまた、然(さ)あらぬ顔色までそれと定めて、
 「あゝ可哀相に、辛いと云っても郷里の兄様の傍に居たら、此様な苦労は為ずに済むのに…。兄様より私を好きなのが、矢張り此の娘の因果と云ふんだらう!」
 幾ら思ひ定めた事でも、妹の傷(いぢらし)さには胸も乱るゝ。斯う云ふ事なら、矢張り妹のみは殿井様に頼んで置けば宜かツたか知れぬ。主婦も彼程までに云って呉れたし、お波も彼様なに彼方に居たがツたものを…、それを、私は飽までも強情を通して、他の言を打消して、無理に此様な事に決めて了った。何が何でも殿井様と関係を絶って、島井の家を引越さなければ、最う生きて居る事も出来ない様に思って、これに反対する者は、妹でも敵の様な気さへした。全く私は夢中だツた。
 何故彼様なに夢中になツたらう、殿井様と関係を絶って島井の家を越すのが、何故それ程の大事件だツたらう?東吾様は、妹を彼様なにして置くのを、何か忌まはしい関係が、私と殿井様との間に在る故と疑って居た。郵便の達(とゞ)かぬ事も、訪ねて下すツたのを知らずに居た事も、下宿の所業(しわざ)で無く、私が一時を遁るゝ為の虚構事(こしらへごと)のやうに疑って居た。私はそれが悲さに、そんなら明日にも転宿致します、妹をも殿井から取返しますと東吾様に誓って見せた。私は、然うして東吾様の疑を解かうとした。然うして疑を解かねばならぬと思詰めた。だが、東吾様に疑はれるのが何故それ程に悲しいのだらう?
 その時の話で勘定すれば、東吾様は最う房州へ行って居るだらう…、私が斯うして引越を決行したのも、たゞ彼の人の疑を晴さう許りだのに、肝心の彼の人は、此様な事とは知らずに居るのだ!
 だが、此れを知らしたとて、東吾様の方で何う為る事も無からう!私だツて、別に斯うして下さいと願ふ事も無いのだ!疑を解いて貰ふまでの事だ!只夫限の事だ!と思ふと、初野の頬には涙が流れかゝツた。新に悲い事の殖えたのでも無いが、沁々(しみじみ)と悲しくなツた。最う何を片付けるのも厭になツた。
 「私はまア、何うなるんだらう!」と覚えず口に出した。
 急(にはか)に我が身の末が案じられて来たのである。ところへ、遥か母屋の方から、此家(こゝ)の婆さんの声がして、誰やらお客でも先導(さきだち)して来る様子である。学校への転居届の事で、楠田先生の印(みとめ)を借りる約束だから、必然(きツと)楠田先生が訪ねて来たのだらう、その他には知った人が無いから、誰も来よう筈がない、と思って、初野は其邊(そこら)を片付けて、さて入口に出迎へた。
 両側を植木鉢に挟められた庭の間を、雪かと疑ふ白足袋に、萌葱鼻緒の雪駄がちゃらちゃらと、服装(なり)は目の覚めるやうな矢羽小紋の風通の袷、黒緞子の美人傘を指輪の輝る華奢な手に把玩(ひねく)りながら、初野の姿を見ると懐かし相に駈寄った芳江は、
 「まア、姉様!」



 「あら、芳江様、何うして此処を…?」
 「今ね、島井に行きましたらね、此処を教へて呉れましたの…、」と凝然(ぢツ)と初野を見上げた眼は忽ち潤んで、「痩せたわねえ!」
 二人は、彼の衝突後、即ち初野が子爵夫人に罵られた後初めて顔を合はしたのである。その衝突も、間に立つ友人の尽力(ちから)で悉皆(すツかり)解けて居る筈だが、さて顔を見ると、何と無しに気が更まツて、舊(もと)のやうな親しい言葉の出ないのが此る場合の例(つね)であるのを、芳江のみは、その言にも挙動(そぶり)にも、些(すこし)も其様な影が見えない…。影が見えぬのみか、舊より反って親く、反って隔(へだて)がなくなツて居る。その上、初野をも自分と同じ意(こゝろ)と信じ切って居るらしく、兎もすれば更まりかゝる初野の言をすら、怪みも疑ひもせぬのである。
 「神様のやうな心とは、本当に芳江様の如(やう)な人を云ふんだらう!」と初野は沁々感じて、今迄の我が所為(しうち)を心から悔ゆるのであツた。
 室に上ると、芳江は四邊を見廻して、
 「大変だわねえ!私は、此様な事(こツ)た思はなかツたのよ…、堪忍して頂戴な、皆な私が悪いんですから、ね。」
 「其様な事が有るもんですか、悪いのは私よ…。三浦様から熟く聴いて下すツたでせう…。」
 「え。だけれど、其の事は最う云ひツこなしよ…。その約束だツたぢゃありませんか…。」
 と芳江は眼を拭って、「それよりか、何うして此様な処へお引越(ひツこし)して?」
 「矢張し、種々と都合が何だもんですから…。」と曖昧に云ふ。
 「都合て、マネーの事?」
 「え、それも然うだけれど…。」
 「マネーの事でせう?姉様、其様なに秘(かく)しちゃ可厭(いや)よ。」
 「秘しはしないけれど…。」
 「然うでせう、マネーの事でせう?ぢゃアね、再(また)下宿して下さいな、お願ひだから!」
 「また下宿…?」
 「え。可いでせう、お願ひだから…。だツて、姉様が此様な処に居ては、私は最う、気に掛って家に落着いて居られないわ。ね、何卒(どう)か然うして頂戴な、ね。」
 「ですけれど、彼の家は実に不都合な事が有りますから…。」
 「島井が可けなきゃ、ぢゃ他の家…。未だ、幾らも良い下宿(うち)があるぢゃありませんか。ね、何卒か然うして頂戴よ、此様な淋しい処、速く越して頂戴よ…。マネーなんぞ、最う、姉様に心配を掛けるこた無いわ、私一人で出来なきゃ、また兄様に帰って貰って、必然(きツと)何うにか為るわ。」
 「もう、阿兄様は房州へ行らツして?」
 「え、過日(こなひだ)の話だと、一昨日(をととひ)の晩か、昨日の朝出立(たつ)やうな話だツたから。だけれど、また来て貰ふ事造作ないわ。」
 一昨日の晩と云へば、自分の訪ねた其の夜である。さては、芳江は未だ彼の夜の事を何も知らぬと見える!

  三

 初野は東吾を訪ねた先夜の事を秘さうと云ふ気は無かツた、否(いや)、芳江に会ったなら、先づ第一に此事を話さなければなるまい、とまで思うて居た…何も秘す事も無ければ、また、自分が秘した処で、東吾の方で芳江に黙って居る筈も無い。先方から云はれぬ前に、此方から云って了ふに越した事が無いのだ。
 けれども、今はそれを言出す機会(をり)を失って、何だか言出し難くなツた、秘しては済まぬと思ふが、然う思へば思ふ程変に気が更まツて、口が重くなツて、益々云へなくなる。芳江の方では、其様な屈託の有らうとは知らぬので、
 「ね、越して下さるでせう、私の願だツて、叶へて下すツても可いでせう。」
 「その同情の深い、優しい言を聞く程、恐しい罪でも犯してる様で、心苦しくなる許りである。
 実は先夜東吾さんの宿へ行って…、とつい軽く云って了へば済むものを、何うしても咽に支へたやうでそれが云へないのである。況て、東吾の疑を解き度い計りに引越をして居ながら、その許嫁の芳江から黙って金の助力(たすけ)を受けると云ふやうな其様な罪に罪を重ぬる大胆な事が出来るものでない…。
 「何を其様なに考へていらツしゃるの、何も考へる事は無いぢゃありませんか。それで可いでせう、ねえ、もう決めましたよ。」
 「貴女の厚意は、もう十分に感謝しますけれど…。」
 「…けれど?けれど可けないの?叶へちゃ下さらないの…?姉様、それぢゃ余りだわ…。」と口が利けなくなる。
 「いゝえ、然う、貴女を悲ませる様な事情(わけ)ぢゃ無いの…。」
 「矢張し、私なんか頼(たのみ)にしちゃ下さらないのねえ!」
 「然う云はれると、私ばかり困っ了ふけれど…。」
 「最う可いのよ、姉様が何う云っても關やしないのよ、私は…私の思ふ通り遣るわ…。」
 芳江は頭を掉(ふツ)たが、「そして、姉様の病気は、此の頃は何様なゝの…、脚気ですツて?」
 「え、極く軽症なのよ。」
 「だツて、顔色も悪いし…、蔭で案じた程ぢゃ無いけれど、余程痩せたわ。お医師は何と云ふの?」
 「此の頃は行かないでゐるけれど、最う逐次(おひおひ)快いでせう…。」
 「あら、お医師に掛って無いの?」と吃驚する。
 「もう、病気も分ってるから、薬だけ製(こし)らへて貰ってね…。」
 「まア!それも、矢張り御都合が悪いからでせう…、其様なに困って居ながら、姉様は…、それでも私のお願は聴いて下さら無いなんて…、余りだわ、本当に余りだわ、私は…、私はね、お互の間はね、私ア然うしたものぢゃ無いと思ふわ。」
 初野も、最う口も利き得なかツた。暫くして芳江は顔を上げ、
 「それから、お波ちゃんは何うして、御一緒ぢゃ無くツて?」
 「波ですか…、波も居ますよ、」と云って、鼻声で、「波ちゃんや。」
 すると、台所の方から、小さく返答(へんじ)が聞える。
 「あら、何処に在らツしゃるの?」と芳江はむツくり起つ。
 「可けません、其方は穢いから…、衣服(きもの)が汚れるから。」と初野は止める。



 薄暗い台所に、鼻の下を黒くして雑巾を持って居たお波は、芳江を見ると紅くなツて、慌てゝ其の紀州ネルの腰巻を隠すと、
 「まア、お波ちゃん!」と叫ぶや否や、行きなり其の頭を抱き締めて、「貴女まで此様な事を為さるの!」
 芳江は、最う此処に住まぬ事に相談を決めたから、掃除など為ることが無い、とお波に雑巾を捨てさせ、その襷まで脱(はづ)させて、汚れた顔や手足やを洗ひに井戸端に出して遣ったが、偶(ふ)と、其の間初野の声もせぬに気が付いて、障子の中を覗き込んで、
 「あら、何うなすツて?」と駈寄った。
 初野は其処に打伏して居るのである。
 「姉様、気分でもお不快(わる)いの?」と芳江は顔を附けて、「え?」
 「いゝえ…。」と許り初野は、袖で押へたまゝ顔を上げる。
 「まア!」
 と芳江は眼を円くしたが、それも無理のない事で、初野の顔を上げた畳の趾が、涙でびツしょり濡れて居る。
 「何うなすツたの?」
 初野は辛(やツ)と袖を離したが、又も手巾(ハンカチ)に目を押へて、
 「芳江様、貴女それ程まで私を親く思って下さるんですか…?」と声は涙に震へて居る。
 「だツて…、然うぢゃありませんか…。」と芳江も目を瞬(しばた)たいて居る。
 「私はね…、私はね、貴女の高潔なお心に対して、実に面目が無いの、実に愧入ったの…!」
 「何故、何故其様な事を仰有るの?」
 「私はね、これで、実に穢い心の人間(もの)なんですの…、貴女のやうに清い、神様のやうな方にでも遇はなかツたら、私は最う、何様なに堕落したんだか…!芳江様、貴女は私の恩人よ。」
 「姉様、其様な事止して頂戴よ、私は、何処までも姉様の妹ですから…。」
 「ですけれどね、私はね、貴女に謝罪(あやま)らなきゃならない事が有るんですから。」と云ひ出さうとすれば、
 「其様なこたありませんよ、最う其様な事は止して下さいよ…、過日(こなひだ)の事なら、原(もと)は母から起ったことですもの、何も、姉様が謝罪るなんて…。」
 「いゝえ、私ね、先夜(こなひだ)東吾様に…阿兄様にお目に掛ったんですよ。」
 「然う、何時?一昨日の晩?」
 「えゝ、一昨日の晩ですよ。」
 「然(さう)?夫は好かツたこと。兄様、何様なにか難かしい事云ひましたらう…。」
 「然うでも有りませんが…、種々と。」
 「でも好かツたわねえ、私もね、夫が気に成(なっ)てね、何卒か兄様の誤解を解いて上げ度いと思ってね、随分種々云ったのよ。」
 「私も三浦様から聴いて、其様なに御深切にして下すツたのに、黙ってちゃ済まないと思ってね、それで謝罪りに行きましたの!」
 「兄様も了解(わか)ったでせう?好かツたわねえ、それぢゃ、今回の事だツて、然う云って遣れば直ぐ帰って来るわ。」
 と悦ぶ顔を、初野は凝然(ぢツ)と眺めて、
 「芳江様、貴女、それ程私を信用して下さるの…?」と芳江の手を握って、「死んでも忘れませんよ、私一生、一生貴女には背きませんのよ。」
 初野は東吾の事に関しては、其の疑を晴さう許りに此処に引越したとは流石に口に出しかねたが、心中(こゝろ)では最う東吾の事などは決して思はぬ、今日の今から、我が胸の中から東吾と云ふ名詞を綺麗に拭除(ふきと)って了はう、と屹度心に誓を立てた。
 で、卒業までの学資を得る事も、自分から更(あらた)めて願ふのであった。
 「貴女だツて、其様な、お金の事なぞ随意になる方ぢゃ無いけれど、其点(そこ)は、私も十分承知してますけれど、もう、貴方に補助(たす)けて戴かなきゃ、此のまゝ斃れる他は無いんですもの…。」
 「可いわ、其様なに仰有らないだツて…、斯うなれば、私だツて一生懸命よ。」
 「ですけれど、余り無理な事をして…、それが為にまた、貴女が叱られでもするやうでも困るから…。」
 「いゝえ、大丈夫よ。姉様に心配掛けるやうな事は為ない心算(つもり)よ…。」と芳江は、自ら頼む所あるものゝ如く、「可いから、私に任して置いて下さいよ。」
 「有難う、ぢゃ何卒助(す)けて下さいよ、真(ほん)のもう、家賃とか、月謝、それから、」と云ひ澱んで紅くなり、「米代だけでも有れば、余(あと)は私何うにか間に合はせますから…。」
 「あら、下宿する心算ぢゃ無くツて?」
 「いゝえ、何うせ引越したんだから、矢張し此処に居ようと思って。」
 「何故?此様な淋しい処に…、」と云って、此処へ来たお波に、「ねえお波ちゃん、厭ですわねえ、此様な陰気臭い処なんか…。」
 「え、私は、何だか怖くツて…。」とお波は、姉を見ながら云ふ。
 「何ですよ波ちゃん、其様な頑是無い事を。」
 「叱る事は無いわ、お姉様の方が無理なんだわ、ねえお波ちゃん、」と芳江はお波を我が傍に引寄せて、「姉様が何と仰有っても、貴女と二人でね、良い下宿を探してね、無理にも、其処へ姉様を曳張って行きませう、ね。」
 「いゝえ、芳江様さうぢゃありません…、」と初野は此処に居る事の利益である箇條(かど)を話出した。
 先づ第一は、閑静で勉強が出来る、病気(やまひ)ある身(からだ)の保養にも成る、費用(かゝり)も二人で下宿するその半額で済まさるゝ。学校の届は、教師の楠田に頼んであるが、再(ま)た下宿すると云はゞ、彼(あ)の着難し家(や)の、今度は頼を肯いて呉れぬかも知れない。
 「孰(ど)うせ此処と決めたんだから…貴女のアドバイスを斥ける様で済ま無いけれど、まア、此処に置いて下さいよ。」
 「然う…?」と芳江は暫く考へたが、思出した様に家の中を眺め渡して、「だツて、最う少し良い家が有るでせう…?」
 「假(よ)し在っても、私は最う動き度か無いから…。試験を眼の前に控へて、其様な事で、大切の時間を潰すのは惜しいんですもの。まア、二タ月の事ですから、斯うして置いて下さいよ。」と優しく宥めて、此度は妹に、「波ちゃん、貴方も、其様な頑是(わから)無い事云はないで、辛抱しなきゃ可けませんよ。」
 「え、私なら何うでも…。」と渋々ながらも承知する。
 芳江も、今は初野の言に同意した。それから、先づ差当たって懐中(ふところ)に在るだけの小遣を無理に取らせ、種々と今後(のち)の事を預議(うちあは)せなどして、遅くなツては家に都合が悪いから、と暇を告げた。都合の悪い処か、母の前を他の用に言作(いひこし)らへて、竊に我が懐かしい義姉に会ひに来たので、遅れた時間を訪問の結果は、何様なに叱らるゝか知(しれ)ぬのである。
 「其処まで送りませう…。」
 「可いのよ。お波ちゃんが淋しいわ。」
 それでも二人は、睦しく方を列べて植木屋の門を出た。其処には芳江の綺麗な俥が待って居るが、車夫の影も見えぬ。
 「何処へ行ってるだらうねえ?」と芳江は顔を顰めたが、遠慮も無く声を揚げて、「松や、松…。ちょッ、一人で帰って遣らうか?」
 「あれ、家の中で返辞しますよ…。其邊(そこいら)まで送りませう、」と垣根に添うて廻った。
 「だけど、眺望(ながめ)は佳いわねえ…、」と彼方へ目を放ったが、「おや、兄様のやうだわ。」
 「似てますわねえ…背姿(うしろつき)が。」
 遥に見渡す野菜畑を、此方には背後を向けて、急歩(いそぎあし)に木立に消えたのは、確に制服を着けた東吾のやうであった。



 義理

 日暮れには未だ間がある筈を、木立の深い故(せゐ)か、室の隅々は最う薄暗くなツて来た。掃除は粗方(あらかた)済んで、買物に出たお波の帰り次第、愈よ今夜から初めての自炊の膳に対ふ心算で、初野は台所で其の支度をして居ると、思掛けずも、其処に東吾が訪ねて来た。
 先刻、芳江の帰りを送って出た時、離れては居たが目に留った後姿、何うやら東吾のやうである、房州へ行くと聞いたが、それでは未だ立たずに居たのか、此様な所へ何の用で尋ねて来たのであらう、散歩の便次(ついで)か、それとも態々私の引越先を訪ねて来たのであらうか…、入口に見覚(みおぼえ)の俥の在るのを見て、芳江の居ることを覚って、彼様な方角に避けたのではあるまいか…?して見れば、何か私に秘密の用事が無ければならぬ…!併し、考へる迄も無く其様な用事の有らう筈は無い、許嫁(いひなづけ)の芳江の目を忍んで、私に会ふ用事の有らう筈が無い、断じて無い、彼方にも無い、此方にも無い、無い!無い!無い!
 此様なに思った処へ、訪ねて来た東吾を見ると、先刻見掛けた後姿其の儘の制服を着けて居るので、初野ははツと胸を轟かした。だが、「先刻の後姿は貴方でしたか?」とは流石に聞けなかツた。東吾も、その事は何とも云はなかツた。
 「最う、房州(あちら)へお立ちなすツた事と存じてましたが…?」と云ふと、「少し用事(よう)が出来たもんだからね。」と東吾は平生(つね)よりも一倍平気で答へる。
 「もう少し先刻、芳江様が来て下さいまして…。」
 「然うですか。」と許り。
 「まだ、御通知もしませんでしたが、能く此処がお解りでした?」
 「いや…、」と言を濁らして、「閑寂(しづか)で良い処だが、併し、湿(しけ)やしませんか?」
 「何うでせう?其様な事は無いと思ひますが…。」と答へた初野は、さツと顔を赤くした。湿る所では病気に悪い、と云ふので、それを心配して下すツて、此様な事を注意するのぢゃあるまいかと思うたので。
 「飯は何うするのです、自炊ですか?余り働いて、身体に障りませんか?」
 「いゝえ、働くと申して、二人限りの事ですから。それに、あの、御飯だけは前の家から炊いて貰ひますから。」
 「然うですか、それは好都合だ、ぢゃ、拵へると云っても、格別手数ぢゃ有りませんね…。」
 と云ふ時、初野が茶を煎れようとするので、「其様な事はお止しなさい、僕は直ぐ帰るから。」
 「はア。」と初野は、云はるゝ通り茶盆を其処に置いた。何うしたのか息が喘(はず)んで、膝に置いた手も顫へて来る。
 「嘸ぞ不自由でせうが、卒業も近い事(こツ)たから、暫く、此処で辛抱なすツた方も宜いでせう。」
 「えゝ、何うか然う致し度いと存じまして…。」と初野は思はずも涙を零した。東吾の口から、此様な有情(やさし)いことを聞くのは今日が初めてゞある。
 「失礼だが、これは、貴女が苦学に同情する僕の…、僕の寸志ですよ。」と云ひながら、東吾は一束の紙幣(さつ)を初野の前に置いた。
 その紙幣(さつ)を一目見ると、初野は嬉しさに目も眩むかと思った。
 「お困りの際は、又お手伝いを為(し)ませう、何卒、遠慮なく然う云って下さい。」と東吾は相変わらず冷淡な語調(てうし)で云ひ加(た)した。
 その声を聞いて、是までの自分に対する所為(しうち)に較れば、今迄の東吾は、別の人に変ったかと怪まるゝ程である。此様な有情い人であツたのか、此様なに私の事を懐(おも)って居て下すったのか?
 「其様な、大事に考へることも無いぢゃありませんか、まあ取って下さい。」
 「は…。御厚意の程は、言葉にも尽くせませんけれど…。」
 「何うしたんです?」東吾は驚いた。單(た)だ体裁(きまり)悪さに躊躇するのみと思うたものが、何を感じてか、初野は声さへ震へて、涙は雨と落ちるのである。
 「失礼ですけれど、此金(これ)は何卒、其方へお納めなすツて下さいまし…。」
 「何故です…?其様な事は無いぢゃありませんか…、何か、僕の言に…、何か失礼な事がありましたか?」
 「いゝえ、其様な貴方…。其様なにお解(と)り下すツては、私は最う何も申上げる事は出来ません…。」
 「では、何故取って下さらんです?」
 「実は、これを戴いては…。」初野は云ひ澱んだ。此を戴いては芳江様に済まぬと云ふのであるが、何故芳江に済まないのか金を貰ふのが情を通ずるのでは無い、許嫁間の情愛を破るのでも、邪魔をするのでも無い、全く別の事であるのだ、それを、然う白地(あからさま)に云ったならば、反って我が意(こゝろ)の恥しい処を見られて、東吾に驚かれるか知れぬ、蔑視(さげす)まれるか知れぬ。と云って、今此金(このかね)を受けては、此の将来(すゑ)私は、ますます親くならう、ますます意を牽かれるやうに成らう、それでは彼(あ)の清い芳江に済まない、自ら誓った我が心にも背く…。で、「何卒かお了ひなすツて!」と許り、最う此の外は云ふまいと決めたのである。
 「然うですか…。」東吾の声は変った。
 「悪くお解り下すツては、私は最う…進退に窮して了ひますけれど。」
 「然うですか。」と今回(こんど)は笑ったが、頬から目の端(はた)は紅くなツた。
 「何卒ぞ、本当に悪(あし)からず!」
 「厭と云ふ物を、無理に上げるのぢゃありませんがね、併し…、」と云って、東吾は凝然(ぢツ)と考へたが、また語調を更へて、「初野様、御承知の通り僕は書生の境遇です、それも、財産家に生れて、父兄から学資を貰って居る者とは違ひます…、自分の親愛して…敬愛して居る…兎に角貴女の境遇に同情して居なければ、此様な馬鹿な事は為ませんです…。」
 「それは最う、私だツて十分に承知して居ますけれど。」
 「此様な馬鹿な事は為ません…。実に馬鹿らしい話さ。けれども僕は、貴女は取って下さるだらうと思って居た、全く信じて居たんだ、己惚(うぬぼ)れと笑はれようが、然う信じて居たんです。夫ばかりぢゃ無い、此処へ引越したのも、半ば僕の云った言葉が原因してるやうに誤解して居たんです。」
 「東吾様。何卒ぞ堪忍なすツて下さい…。」
 「いや、堪忍も何も無い…、其様な事はありません。それは、僕は非常に不快です、けれども…。」と云って戦く唇を噛んだ。
 唇を噛んだかと思ったら、手早く紙幣を蔵って、其の儘座を起った。
 「失礼しました。」とたゞ一言、足音も確に門を出て行く。
 初野は続いて其趾を追蒐(おツかけ)ようとしたが、忽ち思翻(おもひかへ)した。そして、麻痺(しびれ)る脚を擦って、独りで其処に泣いて居た。 





  指輪

 「まあ、然うかい。では、未だ金を渡して呉れたんぢゃ無いね?」
 「へい、他のお品と違ひまして、一通りその、奥様に伺った上と存じまして…、へい。」
 「然うかい、それは御深切に有難うよ、好く知らしてお呉れだツたこと。」
 「何う仕りまして…。では、矢張り、お払い遊ばすんぢゃございませんので…?」
 「つい、此の間購(と)った許しだもの、何だツてお前、其様な馬鹿な事が有るもんかね。」
 「へ、御意でございます。」
 「だが、其者(それ)は、確かに邸(うち)の婢(もん)だらうね?」
 「へ、此の間、奥様のお供で来(いら)ツしゃいました、彼のお女中さんで、へい。」
 「ぢゃ、矢張り政だよ…、午後(ひる)から暇を貰って出てツたんだもの…政に違ひ無いよ。そして、まだ店に待ってるのかい?」
 「へ、生憎と店主(あるじ)が一寸出まして、店主が戻らなければ、確とした事は申上げられませんので、其点を申上げますと、では、また後刻(のち)ほど来るからと仰(有)いまして…。」
 「そして、此品(これ)を預けて去(い)ったの?まア、実に呆れるぢゃ無いかね。」
 「では、如何致しませう、其品(それ)は、奥様に差上げて参りませうか、それとも、拙者(てまへ)がまた頂戴して…。」
 「置いてツてお呉れな。」
 「へ。」
 「可いだらう。」
 「へい、夫はもう。」
 「ぢゃ置いてツてお呉れ。再(また)政が行ったらね、何んとでも、其点(そこ)は好いやうに云っと置いてお呉れな。」
 「へ、畏りました、ぢゃ帰って然う申します…。」
 「何うも、態々御苦労だツたねえ。旦那に然う云ってお呉れよ、御深切に有難うてね…、此のお礼は、孰れまた、近い中に埋合せをするからツて…。」
 幾度か敷居に頭を着けて、商家の手代と見える若い男は、縁側を表の方へと廻って行く。子爵夫人は、其の趾を見送るよりも、傍に置いた黒革の小筥を開けて、ダイヤモンドか何か知れず、賽玉の光の燦爛たる黄金(きん)の指輪を取出し、皺は寄っても華奢な我が掌(て)に、眤(ぢツ)と眺入(みい)るのであツた。
 此の指輪こそは、娘が結婚の盛式(しき)に、来賓の目を驚かさんものと、良人の子爵の不承知なのも關はず、少なからぬ金を投じて、銀座なる美術商から求めた品である。何を興へても母の思ふ程悦ばぬ芳江も、此の指輪のみは流石に気に適(い)ったと見え、暇さえ有れば取出して眺むる程であツたが、今の手代の注進(しらせ)に聞けば、大胆にも親に秘して、此れを金に換へんとしたのだと云ふ。



 「それとも、若しや政が…?」と考へて居た夫人は独語した。芳江の知らぬ事で、仲働女の企圖(たく)んだ悪事(こと)かとも疑って見た。けれども、幾ら疑っても、長い間使役(つか)って、随分気心も知って居る彼の婢に、何(どう)も其様な事の有らうとは思へぬ。
 「何様な事を云ふか、ま、兎も角一つ尋ねて遣らう!」頭を捻って居たが、また独語した。
 夫人は訊問の順序などを考へながら、芳江の居間なる二階に登って行ったが、行くと、其の室には芳江は見えなかツた。
 二階は三室(みま)に仕切られ、孰も念を凝らした普請であるが、中にも一人娘の芳江が居間だけあツて、此の六畳の装飾(かざり)、床の掛軸から古銅の置物、違棚の金蒔絵の文庫、それから羽織の掛ってる衣桁、六歌仙の金屏風、何うやら々家から出た払物らしき品々。東の壁際には桐の書箱(ほんばこ)、不釣合ながら硝子戸の洋本架(ほんだな)、窓の下には汚点(しみ)だらけの机掛を被(か)けた唐机…。
 「何処へ行ったらう?」と子爵夫人は独語しながら、其処の窓を開けた。
 此処からは、目の下なる市ヶ谷の濠を隔てゝ、牛込から青山へかけて、美しい新緑に包まれた山の手の町々が一目に眺めらるゝが、夫人はそれに気を転(うつ)すのでは無かツた。
 「本当に何処へ行ってるだらう?」と見るとも無しにまた室の中を見廻した。何だか静過ぎると思ったが、成程棚の上なる置時計が停って居る。
 「時計を巻忘れるやうな娘(こ)ぢゃ無いが…。」と夫人は考への目を据ゑて、「矢張り、屈託が有るからなんだよ。」
 斯う気が付くと、幾分(いくら)か怒気(いかり)も鎮って、余り叱り付けて、病気にでも成られては困るけれど…、無論此の儘ぢゃ済まされないが…、何う云ふ所存で此様な大胆な事を為たか、彼の娘だツて馬鹿ぢゃ無いもの、何か思慮(おもはく)があるに違ひ無い、篤(とツ)くりと其点(そこ)を聴いた上で、叱るものなら叱って遣らなきゃなるまいし、懲すものなら懲しても遣らなきゃなるまい、だツて、此様な事を黙ってちゃ、彼の娘の盆(ため)に成らないもの…、と斯う思定めた。
 けれども、時計を巻忘れた位で斯う気が弱くなる夫人に、芳江が机の上を仔細に視たならば、蓋(おそら)く指輪の一件などは、叱言一つ云はずに恕(ゆる)して遣ったかもしれぬ。芳江の机には、二三年前に、同級生間に流行に誘はれて購(か)った限り、其の後は余り手に触れる事も無かツた、一冊の新約全書がある、そして、その読みかけてある前の頁には、涙の痕さへ濡れて居る。それから、近頃出た婦人雑誌、其の表紙には、心の影を、書くとも無しに鉛筆を走らしたらしいSacrificeと云ふ字が、幾つも幾つも写されてあるのだ。
 だが、子爵夫人は、出が出だけ、などゝ人に笑はれぬ程の読書(よみかき)は出来るが、机の上の事には余り興味を有って居らぬ、従って、娘が何を読んで居たか、其処迄は気を留めなかツた、況(ま)して此の英語の犠牲と云ふ語(ことば)の読めもしなければ、其中に含まれた恐しい意味を疑ふ余裕も無いのだツた。
 さて、其処に意を留めなかツた夫人は、今度は縁側に出て、欄干(てすり)から庭を見下したが、其処の築山の蔭を、ちらちら往来して居る芳江の姿が目に入った。
 「まア、彼処に居るんだよ。」声を掛けようとしたが思返して、其の為す態を凝(ぢツ)と眺めた。
 何うも其の態を見ると、常の芳江の様ではない。細い頸(うなじ)を俯向きになツて、同じ所を幾回(いくたび)も往きつ戻りつして居るが、偶(ふ)と立止ったり、首を捻ったり、どうやら溜息を吐いたりなどするやうである。夫人は、それ程心配の事があらば、何故此の母に打明けて相談を為ぬのか、と悲い様な、また嫉ましい様な気にもなるのであツた。
 暫くすると、芳江は何を考へ付いたか、急(にはか)に面を上げて、庭を隔てた彼方の室を眺めたが、頓てつかつかと歩を移して、折しも其処の縁側を通る女中に、
 「母様は何処に在らツしゃるの?」と尋ねる声が聞えた。
 夫人は素知らぬ顔をして二階を降りたが、丁度我が室の前で芳江に出逢った。
 「あら、母様…。」その声は、知らぬ他国でゝも逢ったやうな語調である。
 「何うしたの、其様な顔色(かほ)をしてさ?」
 余り娘の血色が悪いので、夫人は思はずも斯う云った。娘は夢から覚めたやうに目を瞬(しばた)たいて、
 「私、今母様を探してゝよ。」 
 「然う?ま此方へお入りなさいな。」と我が室に導いて、鬱陶し相に其邊(そこ)の障子を開け放したが、更めて芳江に向き直って、「何うしたの…?」と厳然(きツ)とした顔を見せる。
 「母様、あの…、」と口籠ったが、また、「あの何様な善い事でも、親達に隠して為(し)ては悪いでせうか?」
 意外な問である。母には略(ほゞ)その意が解って居るけれど、一寸答辞(こたへ)に窮して、
 「然う決ツた事も無いけれど、お前だけは、何様な事でも母様に隠して為(す)る事はなりません。」
 「だツて…。」と考へて居る。
 「何か、母様に隠して為た事が有るでせう?」
 「然(え)。」と芳江は意外にも点頭(うなづ)いた。
 母は其の無邪気なる返辞に呆れたが、
 「母様は皆な知ってますよ。」
 芳江はその涼しい眼を瞠って、訝し気に母を視詰めた。
 「これ、此品(これ)の事でせう。」と母は、指輪の小筥を前に出した。
 「あら、何うして?」
 「何うしてぢゃありません、」母は急に難しい顔をして、「芳江様、お前まア、斯う云ふ事をして済むと思ふんですか?お前の購(か)って貰った物だから、払はうと捨てようと、お前の自由と思ってますか…?然うは行きませんよ。」
 「私だツて、然うは思は無いけれど…。」
 「ぢゃ、何だツて此様な大胆(だいそれ)た事を為るの?ま、その理由を仰有い。」
 芳江は流石に小さくなり、
 「母様に黙って為たのは、悪うございました、何卒、堪忍なすツて下さいまし。」
 と潛然(なみだぐ)んだ。
 「では、真実(ほんとに)、悪い事をしたとお思ひですね?」
 「え、何卒堪忍なすツて。」
 「然う云ふ事なら、今回(こんど)だけは堪忍して上げませう。だが、再(また)と斯う云ふ事が有ったら、宥したくも宥せませんよ、可いんですか。」
 「え。」と眼を拭って居る。
 母は暫く黙って居たが、
 「ぢゃ、解ったら夫で可いから、涙を拭いて彼方へお出でなさい…。政が帰ったら、母様が孰く諭すから、お前は何にも云ふ事はなりませんよ。」
 「え。」と俯向いて居る。
 「ぢゃ、まア彼方へお出でなさい…。些(ち)と、お琴でも演習(さら)ったら何う?」
 「え。」
 「何うしたの、何を考へてるの?堪忍して上げると云ったら、それで可いぢゃ無いかね?」
 「母様、私、母様にお願が有るんですの…。」
 「お願?何のお願…、また、彼の萩原の事ですね?」辛(やツ)と機嫌の直った母の顔は、また難かしい色に変った。
 「母様、私、房州に行って来たいから、遣って下さい!」
 母の目からは、体格(なり)は大きくとも未だ頑是無き少女(こども)が、突然(いきなり)房州に行き度いと云ひ出したので、
 「何ですツて、房州へ…?」
 芳江は落着き切って、
 「え。私ね、兄様に相談(はなし)したいことが有るんですの。」
 「それで、房州に行き度い?房州は東京の内ぢゃありませんよ、船で行く処ですよ…。」
 「え、霊岸島から…。」
 「まア。ぢゃ、行けと云へば本当に行く気なの?半日余も費(かゝ)ると云ふが、お前、其様な長い間船に乗れるの?」
 「乗って乗れない事はないわ。」
 「お転婆だよ此人は。」と夫人は笑ったが、「何様な大事件か知らないけれど、間合はす事が有るなら、郵便で間合はしたら可いでせう…、馬鹿々々敷い、房州まで行くなんて。」
 「だツて、手紙も遣ったけれど、何うしたんですか、兄様から返事が無いんですもの。」
 「それで、態々会ひに行くの?」と夫人はまた笑って、「何様な事か知らないけれど、将(いま)に婚礼を為ようと云ふ人が、遥々、房州まで男を訪ねて行くなんて、何だか外聞(ひとぎき)が悪いぢゃ無いかね。」
 すると芳江は、火の様に紅くなって、
 「だって、兄様の相談でも借りなきゃ、私、何うすれば可いんだか…?」
 「何様な事が有るの!其様なにお困りなら、母様に云ふが可いぢゃないかね。」
 「だツて。」
 「兄様の他には、誰にも云へ無いことですか?」
 「然うぢゃ無いけれど。」とまた紅くなツたが、「母様は許して下さらないに決ってますもの。」
 すると、夫人ははツと驚いた顔で、
 「芳江様、ぢゃ、其の相談と云ふのは矢張し萩原の事ですね?」
 「その通り、萩原様の事と云ふと、最う直ぐ怒って了ふんですもの…。」
 「萩原の事でせう?まア、怒る怒らないも無いから、然うなら然うと仰有い。萩原の事でせう?」と急込(せきこ)んで行った。
 「彼様なに、母様にも叱られたけれど、何うしても私は、萩原様を救はなきゃ済まないんですもの…。」
 「では、東吾に何か…、兄様に然う云はれたね、萩原を助けて遣らなきゃ、友達の義務に背くとかなんとか?然うだらう?」
 「いゝえ。」
 「だツて、然うでもなければ、房州まで相談に行くなんて…。必然(きツ)とそれに違ひ無い、兄様に云はれたんで、指輪を売っても萩原を助けようとまでしたんだ、然うだらう、何も秘す事はありません、然うなら然うとお云ひなさい、然うでせう?」
 「其様な事は無いわ、兄様の関係した事ぢゃ無いわ。」
 夫人は斯う云ふ芳江を凝然(ぢツ)と視詰めて居たが、
 「でも、判然(はツきり)萩原を助けて遣れと云はない迄も、何か遠廻しに、その…、友達の情愛とか…、友誼とか…、孰れ其様な理窟を説いて聴かしたんだらう?」
 「いゝえ。」と芳江の方が解せぬ顔をした。
 「芳江様、秘しちゃ為にならないよ。他の事た違ひますよ。」
 「何も秘しはしませんよ。」
 「全くだね?ぢゃ、此の指輪を払はうとしたのも、芳江様一人の所存から出た事ですね?」
 「え。」点頭いて、「だツて、此の間彼様なに願っても、母様は承知して下さらないんだもの、私、何うしたら宜(よか)らうと思って、悪い事たア思ったけれど…。」
 「思ったけれど、指輪を遣ったの…?」と夫人は、まだ何処かに、疑の凝固(かたまり)でも引掛って居るやうな顔色(かほ)で娘を眺めて居る。


 疑念

 指輪一件の有った日の夕方、東吾が下宿の倉岡の細君は迎俥を受けたので、身支度も卒(そこそこ)に子爵家に駈付けたのである。
 先刻から待って居たと云ふ様子で、行くと直ぐ夫人の室に案内された。「お忙しい処をお呼立申して済みませんでした、まア何卒此方へ、さアお敷きなすツて。」と此方に口も聞かせぬ接待方(あしらひかた)。子爵夫人の機嫌買は元より承知の上ながら、倉岡の細君は暫く煙に巻かれて居た。
 齢(とし)は十歳(とを)も違ふが、流石に柳橋で全盛を謳はれた色香が残って、小鬢の白髪、額の皺、それは齢の故(せゐ)で詮方(しかた)ないとして、二人列んだ処は、子爵夫人の方が若い位に見える。加之(それ)に一方は目上、一方は目下、一寸と笑ふにしても前後(あとさき)を顧みて笑ふ程に慎んで居れば、子爵夫人はまた言語(ことば)も挙動(しうち)も心の儘に、宛然(さながら)春風緩く遶る花園の中を、孔雀の羽翼(はね)を拡げた如(やう)に一杯になツて居る。
 「少しね、貴女に伺ひ度い事がありましてね、」と子爵夫人は、女中(をんな)を退けるや否や低声になツて、「外の事でも無いが、東吾の事ですがね!」
 と題號を置いて、東吾が平生(ひごろ)の行為(おこなひ)、何様な友達が有るか、就中(とりわ)け女学生などゝ往来しては居無からうか、少し仔細があるから、何卒包まずに話して貰ひ度い、と云ふのである。
 倉岡の妻は、随分長い事此の子爵家に出入をし、夫人の気心も大概分って居るが、此様な不見識な内曲(うちわ)の事などは、幾ら困っても口に出すやうな女(ひと)で無いのに、何でも此れは、容易ならぬ事件(こと)が勃発(もちあが)ったに相違ない、と速くも推測したが、恩の有る子爵家の為に、何を包隠す可きでは無いが、然(さ)ればとて、自分の口の滑らしたのが原(もと)となツて、東吾の身に難儀の罹るやうでは気の毒である、と案じながら、東吾の平生の、唯もう勉強専一で有る事を首(はじ)めとし、活発で、運動好きで、朋友(ともだち)は何誰も洒然(さツぱり)した方許りで、婦人の事などは、遂ぞ話す処を聞いた事も無い、女学生などゝは無論往来して居りませぬが、
 「此の間…、つい四五日前の事でございますが、此方のお嬢様の学友の方な相でして、一人訪ねて来(い)らした方がございますがね、それが最う、後にも先にも只た一度でございます…。」
 「芳江の学友?それそれ、それですよ、萩原と云ふ女(もの)でせう?」と夫人は覚えず膝を進める。
 「はい、確か然う承はりましたやうで。」
 「色の白い、一寸と綺麗な娘で?」
 「はい。一寸(ちょい)と…。」
 「何様な様子でした、長く居りましたか?何か、二人の間に…、何か怪(をかし)な挙動(そぶり)でも有りはしませんかツたか?」
 「いゝえ、別に…。」と其の夜の事を、梯子から落ちた事なぞは抜にして、夫人に怪ませぬやうに物語り、「幾ら御発明でいらしツても、お若い方の事だからと存じまして、私も其の後気を付けて居りますが、其限り、先方でも参りませんし、此方からも行らツしゃる様子はございませんし…。」
 「おや、東吾は…、」子爵夫人は解せぬ顔色(かほ)をして、「東吾は、未だ房州に行きませんか?」
 「いゝえ、拙者許(てまへども)にお居でゝございますが…、では、お邸では、御存じありませんでしたか?」
 「いゝえ、知りませんよ。」
 子爵夫人は、何か思当たった物の有る如く、独で点頭くのであツた。